第19話『口を噤む』

 輝きを失う事のない都会の夜は、上空に月だけを浮かべている。

 まだまだ眠りを拒む世界で響くは、人の話し声と車が走る音。耳をすませば遠くの方から聞こえる、信号機の音色。さらけた肌を撫でる冷たい風に、フルリと身震い。赤く染まった手を無自覚に摩り、かじかんだ指の先で挟むタバコを口元へ持っていく。

 フーッと意識的に吐き出した白く濁る息。長くなった先端の灰を、帰りがけ自販機で買ったコーヒーの空き缶にそっと落とす。

 冷え切った身体の内側へ、じわりと滲んだ感覚に、私はぼんやりと何処を見るでもなく視線を宙に投げていた。


「……はぁー」

『深い溜め息。幸せ、逃げちゃうんじゃない?』

「凪、一個雑学を教えてあげる。溜め息って結局は深呼吸と同じだから、身体がリラックスする効果があるんだよ」

『葉月、わたしも一つ教えてあげる。その雑学、ちゃんと知ってる』

「なんだ、つまらないの」

『ふふ、つまらないかい?』

「つまらない。もっと驚いて貰わないと」

『残念。わたし実は博識なんだ』

「知ってる。だからこそ、凪が驚いてる所が見たいの」

『へぇ? それは知らなかったな』


 電話越しに、凪がクスクスと上機嫌に笑う。


「驚いた?」

『少しね』

「ふーん」

『満足した?』

「全然。というか驚いてるように見えない」

『そう?』


 クスクス、クスクス。

 モバイルイヤホンから響く凪の笑い声を聞きながら、タバコに口をつける。タバコ特有の苦味が、口内でじわりと渦巻く。


「楽しそうね」

『まぁね。君を揶揄うのが、わたしの使命だから』

「勘弁してよ」

『神様から与えられた使命をわたしは全うしてるだけだよ?』

「邪神の言う事は聞かない方がいいよ」

冒涜的ぼうとくてきだね。いつか天罰が降るよ?』

「私、神様信じてないから」

『本当に冒涜的ぼうとくてきだ!』


 クスクス、から。ケラケラ、と。

 珍しく声を上げて笑う凪に、私は苦笑い。

 いつも通り、飄々とした様子の彼女は、一頻ひとしきり笑った後呼吸音を電話に乗せる。


『それで、今日はどうしたの、葉月』


 そして静かに、彼女は私に問い掛けた。

 瞬間、私の心臓に刺さったままだった刃が、疼く。


「……別に、どうもこうも」

『嘘が下手だね、葉月は。君が用も無く急に電話掛けてくる事、今まで無かったよ?』

「…………用がないと、掛けちゃいけないの?」

『ふふ、そういう訳じゃ無いさ。むしろわたしは、葉月との関係がそんな風に容易たやすいものであったらと、日頃思ってるとも』


 ヒリッ、と。

 火傷した皮膚に、柔らかな風が触れるような。こそばゆく、ゾワゾワと肌が粟立あわだつ感覚を覚えた。


『だけど、違うだろう?』

「…………」

『今日は、何かがあった。何かがあったから、わたしに電話掛けてきたんだ、君は』


 酷く優しげな、駄々を捏ねる子どもを諭すような物言いで、凪は言い切る。

 さも己の導いた結論が間違っていないといった声色で、押し黙った私にたずねて、情け容赦なく穿うがつ。


『葉月はそうだよ。ずっと一緒に居たんだ、分からないわけないじゃないか』

「……敵わないね」

『ふふ。大当たりだ』

「……うん、当たってるよ。何かがあったから、葉月に今日、電話した」


 思わず「はは」と乾いた笑いを溢し、凪の言葉を認める。彼女が言う通り、私は今日、無意味に凪へ電話を掛けたわけではなかった。


『星奈の事だね?』

「……お見通しなんだ」

『勿論。これも、分からないわけない』


 いっそ怖いくらいに。私の事を良く理解した彼女は、言い当ててくる。

 なんだか、尋問されている気分だった。

 逃げるな。己の罪に向き合え。その大過たいかをその身をもって償え。全てお前の所為なのだから。

 そんな幻聴が、頭の中でこだましている。


『でも、何があったのかは分からない。そしてそれを、わたしが葉月にく事はしない』

「……うん。凪は、そうだよね」

『そうだよ』


 部屋の中で、いつものように彼女は配信を行なっている。

 週に二度、決められた曜日に開かれる雑談枠。話の内容は特に決まりなど無いようで、リスナーのコメントを拾いつつ距離感近めで繰り広げられる雑談配信。星屑セナを彩るコンテンツの一つだ。人よりも幾分か高いソプラノ声で紡がれるそれは、寝落ち枠としての面も持ち合わせているらしい。

 私自身は、彼女の配信を聴きながら眠りについたことがない為、分からないが。


『話したいなら話せばいい。話したくないなら、このままいつもの雑談を始めよう。ちゃんと話題は沢山用意してあるから、心配ご無用だよ?』

「ははっ……凪は本当に、優しいね」

『えぇ? 君は今更それに気付いたのかい?』

「まさか。ずっと……凪は優しいって、思ってる」


 嘘を吐いたあの日から、数日が経過した今日。

 私は、首を緩く縄で縛られたような、暗い海中わだなかに取り残されたような、息苦しさが続く生活を過ごしている。


「……でも、私は、言えない」

『うん。ならわたしはかないよ』

「…………ごめん」

『謝らなくていいのに。気にならないって言うと嘘になるけど、わたしは葉月の親友だからね。葉月の気持ち、分かってるから』


 凪から向けられた優しさが、私の心に触れる。暖かくて、柔らかくて、途轍もなく痛い。ジクジクと抱えた痛みが私をむしばむ。

 表面上ではいつも通り。

 朝に目覚め、軽い朝食を作り、家を出て仕事をする。

 慣れた職場で変わり映えのしない労働を果たし、帰路につく。

 電車の中、定位置である席に座って、流れる夜に染まった街並み眺める毎日。

 最寄駅につけば駅前のスーパーに寄って買い物をし、持参のエコバッグを片手にリュックを揺らす。

 彼女が待つ家に帰ってからは、手早く料理をして一服。

 その間、スマホに映るは彼女の配信。雑談配信なり、ゲーム配信なり、楽しげに喋る彼女の様子を画面越しに確認しながら、それが終われば食卓を囲み、他愛無い会話。

 週に二度、お風呂に入って二人でベッドの中へ潜り込む。時に彼女の蠱惑的な体躯に指を這わせ、跳ねた甘い声を私は耳にする。

 そうして、一日を終えた私は眠りにつく。

 いつものように。流されるままに。勘付かれぬように。

 彼女が私の元に来て、共に暮らし始めてから変わる事のなかった日常。特段大きな出来事もなく、慎ましやかな幸せを拾って、私は生きてきた。穏やかな日々を生きてきた。その当たり前がずっと続いてくれれば良いと思って生きてきた。何にもなれずとも、大切な人の側に居られるだけで幸せだと、私には勿体無いくらいだと思いながら、生きてきた。

 だけど、現実はそう簡単にはいかなかった。

 彼女の配信で私という存在がバレてからの毎日は決して穏やかとは言い難く、新鮮で、慌ただしくて、それでいて……夢のようだった。


「凪に話したいと思ってるのに、話したくないとも思ってる」

『うん』

「自分でも何言ってるんだって思うけど。思ってるのに」

『分かってるよ』


 息を吐く。

 夜に沈んだ街に吹きかけた息は白い。すっかり世界は冬模様。裸足でサンダルを履くには、厳しい季節だ。冷えた足の指を無意識に丸めた私は、十一月の夜空を見上げる。

 彼女との日々は私にとって大切なものだ。何にもなれなかった私を追い掛け、私の側に彼女がいてくれる毎日に、どれ程救われてきたか。

 彼女は私のことをヒーロー・・・・だと言うが、私にとっては彼女こそがヒーロー・・・・と言える。

 目が焼き焦げてしまう程の光を放ち、自らの足で世界を切り拓いて多くの人を彼女は救ってきた。いつだって楽しげに笑い、何事にも真剣に取り組んで、周りの人々に手を差し伸べる彼女を、ヒーロー・・・・と呼ばずしてなんと呼ぶ。

 正しく、彼女はヒーロー・・・・。私よりもよっぽど、彼女はヒーロー・・・・だった。


「……私は、ずるい」

『そっか』

「すごく、ずるいの。ずっと、ずっと……」


 だけど、それでも星奈は、私をヒーロー・・・・だと言う。

 だからその名前に固執して、私は彼女の側で彼女の求める一ノ瀬葉月を生きていた。

 良い子・・・の私じゃない。ヒーロー・・・・であり桐崎星奈の恋人・・・・・・・である私を。


「だから私、逃げた。あの家から逃げて、全部を捨てた」

『うん』

「何かになれると思ったんだ。あの家から離れたら、私は何かになれると、本気で思ってたんだ」

『うん』


 寒空の下、わざわざベランダに出て凪に電話を掛けたのは何故だろう。

 夕飯の支度を終えたこの時間、いつもなら冷風が入り込まない部屋の中で彼女の配信を見ているはずなのに。

 手にするは短くなったタバコであり、恋人の配信を見守るでもなく私は、無様に友人へ弱音を吐き捨てている。


「…………だけど私は、結局、何にも、なれなくて。それどころか私……私の所為で、私の、私が……あの人を…………」

『っ……葉月、それは違うよ。葉月の所為じゃな』

「何も違わなくないっ!」


 吐露する私の言葉に相槌を打つだけだった凪が、私を否定する。

 瞬間、凪の否定を掻き消すように叫んだ私は、己の醜悪しゅうあくさに嫌気が差した。


「……ごめん」

『……いや、いいよ。大丈夫』

「本当に……私、駄目だ。なんで私……」

『葉月。落ち着いて。溜息でもいいから、深呼吸』


 対し、凪は変わらず私に優しさを向ける。八つ当たりのように声を荒げた私を、凪は非難する事なく、私と会話を試みようとしてくれる。

 落ち着いて、大丈夫、謝らなくていい、わたしは大丈夫さ。

 しきりに凪はそう呟きながら、電話越しに私のたけった感情を、鎮めてくれた。


『葉月は悪くない。何も悪くないよ。あれは、葉月の所為じゃない』

「でも……だけど、あれは私が……」

『葉月は何も間違ってなかった。葉月は悪くない。何も悪くない』

「な、ら……なんで、私が逃げたら……あの人は……」

『たまたまだよ。偶然だった。葉月の所為じゃない』


 凪は私に何度も、私の所為じゃないと言う。

 私は悪くない。私は間違ってない。私の所為じゃない。

 凪は根気強く、私にそれを伝える。落ち着いた物言いで、確かな芯の宿った声色で。凪は言い続けている。

 だけど。


 __お前の所為だ。


 全てが変わってしまったあの日の言葉が、ずっと私の中で響いてる。


「……こんな自分が、嫌い」

『そっか』

「嫌いだよ、凪。私、私の事が嫌い」

『うん』


 自分の事が、嫌いで嫌いで、仕方がない。

 私の所為であの人はいなくなってしまったのに、私はまだ息をしている。

 生にしがみ付き、誰かに寄り掛かって生きて、支えが消えてもまだ息をして、次の拠り所に身を寄せて。私はまた名前を、役割を、求める。

 そんな自分が、心底私は嫌いなんだ。


「…………」


 沈黙が訪れる。居心地の悪い静寂しじまに揺れ、私はスマホを握る手にグッと力を込める。突き刺さった刃が抜けない。何も変わらず、私はまだ息続いきつづける。

 気付いていた。分かっていた。知っていた。だけど、私は逃げた。自分を縛りつけていたしがらみを断ち切り、真っ赤に繋がっていたえにしと解き、都合の悪い事は見て見ぬフリをして、逃げ出した。

 その所為で、あの人は。私の大切だった人は——


「……本当にごめん」

『何が?』

「こんな時間に電話掛けて。凪、明日も仕事だよね」

『そうだね。だけど、謝る必要はないよ』

「……凪は、変わらないね」

『そうかな?』

「うん。あの頃と変わらず……ずっとずっと……優しい」


 私はもう一度、空に向かって真っ白な息を吹きかけた。


「…………また、連絡する」

『……葉月?』

「ありがとね。凪と話せて、少し落ち着いた」

『……本当に?』

「なんで疑うのさ」

『だってそれは——』


 言葉が途切れる。続きの言葉は無い。スマホの奥で、凪の呼吸音が響いていた。


『……いや、うん。落ち着いたのなら、良かった』

「あは。何それ」

『……じゃあ、わたしはもう寝ようかな』

「うん」

『おやすみ。葉月も早く寝るんだよ?』

「うん。そうする。おやすみ」


 結局何も言わず声を飲み込んだ凪に、私はたずねるなんて事はしない。凪が私の事を詮索しなかったように、彼女が言わなかった物を探る事はない。……探る勇気も、私は持ち合わせていないし。

 トゥルン。

 軽快な音をたて終わる通話。

 刹那、私を包むは気味が悪い程の静寂。寒空の下、ベランダでぼんやりと紫煙を燻らせる私は、一人。雲ひとつない伽藍堂がらんどうの夜空に侘しく添えられた月と一緒だ。


「……ふぅ」


 鼻を鳴らし、ホッと何度目かの溜息。知らぬ間に強張っていた身体から力を抜き、空を見上げた。

 独りぼっちの世界は寂しくて、だけど何故か安堵する。孤独は怖いと思っているのに、安心感を抱くのは私を形容する人間がいないから。一人だけなら、何になれずとも関係がない。

 故に、私はいつだって一人の時間が好きだった。


「…………!」


 凪との通話を終え、一体どれ程そこに居たのか。

 人々の喧騒が微かに聞こえる夜の中、立て付けの悪い引き戸の音は、カラカラと鮮明に響いた。


「あっ……」


 何本目かも分からないタバコをふかし、静けさに身をゆだねていた私は、思わずビクッと肩を揺らして後ろを振り返る。

 部屋に灯った暖色の光。吹く風が分厚いカーテンの裾を柔らかく揺らして、立ち上ったタバコの煙が形を変える。

 紫煙の重い匂いに混じって、鼻腔をくすぐるシャンプーの香り。生ぬるい空気が肌を撫でる。

 部屋の中から現れた彼女が、ムッと不機嫌そうな面持ちでそこに立っていた。


「も〜。こんな所にいたんですね」


 向けられた、茶の色が滲む黒の目に私が映る。

 ドキリ。

 身体の中心で音が鳴った。

 数瞬、呆然と立ち竦んでいた私ははたと指先を焦がす熱に気がつき、慌てて吸っていたタバコを空き缶の中に捩じ込む。

 Tシャツの上から生地の薄いパーカーだけを羽織った彼女が、ペタペタと安っぽいサンダルの音を鳴らして私の隣に立った。


「探しましたよ先輩。家中探しても、見当たらないから」

「あはは」

「ま〜た外で迷ってるんじゃないかって思いました。でも位置情報は家のままだし。あたしちょっと焦ったんですからね?」

「ごめんごめん。ちょっと外の風に当たりたくなってさ」


 私の腕に抱きついて、私の肩に頭を乗せた星奈はプクプクと不満を溢す。幾分か私よりも背の低い彼女が、あざとく上目遣いで私を見上げた。


「……配信、終わったの?」

「とっくの前に終わりましたよ〜? 全く、こ〜んな寒いのにいつからここにいたんですか」

「えぇっと……いつからだろ。ポケーッと外見てたから分かんない」

「なんですかそれ」


 ゆっくりと彼女の手が伸びる。ひたりと頬に触れた柔らかな掌が、さらりと顎の形を確かめるように撫でた。

 しっかりと保湿をしている彼女の手は心地良くて、その暖かさに私は目を細める。

 不機嫌と心配の二つを映した彼女の顔がすぐそこにあって、彼女との距離の近さにドキリと心臓が跳ねた。


「……冷たい」

「星奈はあったかいね」

「先輩が冷たいだけです。なんでこんな身体冷えるまで外にいたんですか」

「んー、わかんない」

「……はぁ」


 呆れたように溜息を吐いた彼女は、しかしその双眸そうぼうには鳥肌が立つほどの優しさがたたえられていた。

 ただただ愛おしげに、愛する人を見る眼差し。

 ドキリ、ドキリ。

 私の心が悲鳴を上げる。グッと締まった喉から、キュゥっと情けない息が漏れた。あまりにも真っ直ぐ鋭い光が、私を貫く。身体が熱くなり、ジワリと汗が滲み出た。

 私はそろりと彼女から目を逸らす。


「……タバコ、吸ってたんですか?」

「ん、ちょっとね」

「ちゃんと一日五本の約束、守ってますか? 最近、吸う頻度増えてるように感じるんですけど」

「あはは。大丈夫、守ってるよ」

「それなら、いいんですけど」


 息を吐くように飛び出た言葉は、真っ赤な嘘だ。只管ひたすらに真摯な憂慮ゆうりょの問い掛けに、私は容易たやすうそぶいた。

 一日に五本まで。四日で一箱。健康に悪いからと提示され、結んだ彼女との約束事。

 喫煙をやめろとは言わないが、せめて本数を減らして欲しい。いつの日か、美麗びれいな顔をクシャリと顰めて言われた彼女の願い。本当は喫煙自体をやめて欲しいと思っている。言葉尻にひっそりと本心を付け加えながら、私に甘い彼女の最大限の譲歩によって決められた約束を、ここ最近の私は破っている。

 一日五本は、六本へ。一日六本は七本へ。

 日を追うごとに一本ずつ一本ずつ増えていくタバコの本数。今や一日に半分減るペースでタバコを吸っている私であるが、だというのに一日五本の約束を守っていると嘘を吐いた。

 しれっと、何でもない事のように。その行為が星奈に対する裏切りであると、理解しながら。


「……戻りましょ先輩。寒いです」

「ん、分かった」


 彼女の手を引かれ、部屋に戻る。

 暖房をつけていてくれたのだろう、暖かな風が冷たくなった身体に染み渡り、私はほっと息をつく。

 ペタペタとフローリングを歩き、ソファに二人で腰掛ける。

 すると彼女はその身体を横に倒し、私の膝を枕にして寝転がった。


「星奈?」

「んっふふ、膝枕〜」

「……眠いの?」

「眠くないですよ〜?」


 ヘラリと、頬を緩めて嬉しそうに彼女は笑う。パタパタと両足を動かし、かと思えばグリグリと私の腹に顔を埋めた。腰に回された腕にギュッと力が込められ、彼女の髪が少しだけ乱れる。

 膝の上、その目で弧を描く彼女は、大きな子猫。喉をゴロゴロと鳴らすことはないが、下手っぴな甘え方は子猫そのもの。

 くつくつと喉を鳴らす彼女に、私は手を伸ばして彼女の丸い頭を優しく撫でた。


「えへ。先輩の膝は、あたしのもの〜」

「いや、私の膝は私のものだけどね?」

「違いますよ? 先輩の膝は〜、あたし専用の枕なんで〜?」

「えぇ? そうなの?」

「そうで〜す。ふふ、リスナーのみんな羨ましがるだろうな〜。あたしは先輩に膝枕してもらえるって言ったら」

「逆じゃない? みんなアンタの枕になりたいし、アンタに膝枕してもらいたいでしょ」

「いやいやいや。ぜ〜ったいリスナーの中にいますよ、先輩の膝枕羨ましがる人」

「うーん」


 よくある、恋人同士のありふれた会話だ。シチュエーションとしても、恋人に膝枕することはなんらおかしなことではない。私達の光景は、至って普通なもの。何故って、私達は互いに愛しあう恋人の関係性であるから。

 だけど、あぁ、どうしてだろう。

 いや、理由など分かっている。彼女との大切にすべき時間に対し、罪の意識を抱いているその訳を、分からないわけない。

 どうすることもできない罪悪感が、私の上から伸し掛かる。罪人がこのような幸せに浸っている事実に、吐き気がする。

 何度だって言おう。私は罪人だ。何にもなれないと分かっていながら、何かになった気で誰かを傷つけて。大事な友人の時間を奪っていると分かっていながら、何も言えず彼女に甘えて。愛する人にすら嘘をついた、罪人なんだ。

 本来なら、その悪事を裁かれ罰を与えられなければならない人間なのだ。罰せられなければならない愚者が、私だ。

 だと言うのに、今私に与えられているのは甘美な幸福だ。恐ろしい程の愛だ。真っ新な光の暖かな幸せを。私を信頼し切っている彼女からの純粋な愛を。私は与えられているのだ。

 ドキリ、ドキリ。

 心臓が、悲鳴を、あげる。与えられた幸福が、愛が。湧き出る罪が、嫌悪が。相反そうはんした概念が胸中で渦巻き、ぐちゃぐちゃの混ぜこぜになって、心を痛ぶる。

 それは果たして、酷く、息苦しい、感覚だった。


「先輩は知らないと思いますが、先輩は先輩が思っている以上に魅力的な人ですよ」

「……分かんないなあ」

「ふふ、自覚無い所も含めて、魅力的なんです。先輩は鈍感だから気付いてなかったでしょうけど、高校の頃先輩密かに人気でしたから」

「え? なにそれ」

「ふふ。やっぱり知らなかった。先輩と付き合えた今だから言えますけど、先輩狙ってる子結構いましたからね?」

「……本当に知らないわその話」

「んっふふ。本当に、今だから言える話。だから自慢したいですもんあたし。あの頃先輩が好きだった人に、一ノ瀬葉月はあたしと付き合ってるんだぞ〜! って」

「あはは」


 それでも、もう少し……もう少しと、ぬるま湯のような現場から抜け出せないのは、私が弱いから。

 一度知ってしまった幸せを手放すこともできず、罪の意識に駆られながら無様にも縋り付いている。いずれ訪れるであろう処罰のその瞬間に覚悟を決めたフリをして、その実私は怖がっている。

 目を閉じ、耳を塞いで、現実逃避。

 そうすれば、もう少しだけこの優しさだけの時間を、続けることが出来る。

 なんて事を、思っているから。

 好きなんだ、彼女の事が。私の大切な人。抗えない、否定できないくらいに。彼女のことが大事だ。誰よりも、彼女の事を想ってる。守りたいと思う相手。彼女の幸せを一番に願っている。彼女が幸せなら、私はどうなったっていい。彼女の為ならなんだって出来る。

 だから私は__


 仮初かりそめの穏やかな夜は時を刻む。

 嘘を吐いて、笑って、彼女との一時を噛み締める。

 いずれ終わりを告げる、地獄のような幸せを。

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