島原聖少女
CHIHARU
第1話 火事場で出会った虚無僧は……
浅葱と浅太郎は、必死に競い合っていた。
どちらが早く〝一人前の大人〟になれるかと。
**********
寝苦しい夜を過ごし、ようやく深い眠りに落ちた頃だった。
乱打される半鐘の音で、浅太郎は夜具を蹴飛ばし飛び起きた。
階段をばたばた駆け上る音とともに、
「浅太郎。起きろ。火事だ」
父、三崎屋重右衛門の叫ぶ声がした。
隣家の屋根越しに、明々と燃え上がる夜空が見えた。
「親父。よく見ろ。遠いじゃないか」
こちらまで延焼の恐れはなさそうだった。
「旦那さん~。どうどす」
軽い足音とともに、重右衛門の妾のお髙が昇ってきた。
「この方角やと、島原のほうかも」
淺太郎は赤く染まる空を見上げた。
「郭うちかどうか、ここからはわからへん。とにかく、わしが見て来る」
狭い階段を踏み鳴らして下りていく。
「旦さん、怖おす」
お髙もとんとんと軽い足音で重右衛門を追う。
浅太郎が、日和下駄を突っ掛け、通りに一歩、踏み出した、そのときだった。
「大変です」
男衆の庄吉が姿を現した。
「あ、浅太郎坊ちゃん。つ、槌屋さんが……」
水面に浮いた金魚のように、口をぱくぱくさせた。
槌屋は、太夫や芸妓を呼んで宴席を催す揚屋である。
「うちの〝こったい〟さまが……。ひ、火の中に取り残されました」
庄吉は体を震わせ、言葉を途切れさせた。
「うちのこったいて……。どっちだ。睦月か如月か」
「き、如月太夫さまが、逃げ遅れました」
庄吉の口から出た名に、背中からどっと汗が噴き出した。
「えらいこっちゃがな」
重右衛門が頓狂な声を発した。
「行くで。庄吉」
新道をばたばたと駈け出す。
浅太郎も続く。
うちの初めてのおなごは如月やと固ぅ心に決めてるのに。
なんとしても如月が無事であって欲しい。
火事場である島原遊郭までは三町ほど。
ひたすら駈けた。
島原遊郭の大門が見えた。
人混みを蹴散らして火消し人足や町衆が、吸い込まれていく。
太夫と天神は娼妓ではない。気に入られて馴染みになれねば抱けない。
置屋の跡取り息子と抱えの太夫となれば、近くにいながら遠い間柄だった。
如月を助けられれば、良い仲になれるのではないかとの妄想が膨らんだ。
恋が成就したら、晴れて一人前の男だ。
浅葱を出し抜いてみせる。
混乱を極める道筋の通りを泳ぐように抜け、火事場に近付いていく。
浅太郎は息を呑んだ。
火の勢いは強い。真昼の明るさだった。
「この様子やったら、如月は、もうあかん……」
重右衛門が、額に深い皺を寄せて首を横に振った。
重右衛門の姿に気付いた、お信が、
「なんぼ『置屋に男気は要らん』ちゅうても、肝心のときにいたはらへんてどないえ」
体をわなわな震わせながら詰め寄った。
「如月を早ぅ火の中から助け出しとくれやす。な、あんた」
きんきんした癇癪声を出しながら、お信は重右衛門の胸を力一杯叩いた。
置屋の大事なお宝は女だった。ことに太夫となれば、一人前に育て上げるまで高くつく至宝である。
顔立ちの整った幼女を買い取り、禿のときから五体を磨き上げる。舞、琴、三味線から和歌や俳句、生け花に書……注ぎ込む金子は半端ではない。
太夫を失えば、三崎屋の浮沈に係わる。
「誰か助けに行かぬのか」
「はは。男になるか。のぉ、野口」
「拙者は、攘夷の大義がござる身なれば……」
壬生村に寄宿する貧乏浪士たちの声が聞こえてきた。
よく通る大きな声は、芹沢鴨だった。
今夜も大いに酒が入っているらしい。
炎が軒先を舐め上げる。ぱちぱち弾ける音やごーごーと渦巻く音が、人々を威嚇する。
一歩も進めなかった。
炎の熱が肌に痛い。煙に咽せ返る。目を開けているのも辛い。火の粉が容赦なく降り注ぐ。
大きな柱が凄まじい轟音と共に燃え落ちた。
「もうお仕舞いや。如月はもうあきまへん」
お信が身も世もなく地面に泣き伏した。
そのときだった。
赤々と燃え盛り、火の粉が舞う中、黒い影が戸口に浮かび上がった。
どっとどよめきが起こる。皆の目が一点に集まり、一斉に固唾を呑む。
朧だった影は見る間に形を成し、姿を現した。
浅太郎は思わず目をこすった。
諸方から拍手がどっと湧いた。
上背のある男と、小脇に抱えられた小柄な女だった。
「如月。如月。大丈夫か」
重右衛門とお信が二人に駆け寄った。
男は中之町通りを横切っていく。
着流しで総髪の男は、如月の体を、店先の縁台にそっと横たえた。
「如月。しっかりしぃ。如月!」
お信が如月に取りすがって華奢な体を揺すった。
傍らに突っ立つ浅太郎の握った拳のうちが、じっとりと汗ばむ。
小さな呻きとも吐息ともつかぬ声とともに、如月が意識を取り戻した。
安堵が、浅太郎を柔らかく包む。
男は路地に向かった。暗い路地の奥からなにやらごそごそ取り出す。
虚無僧の被る深編み笠――藺製の天蓋と錦の袈裟や笛袋だった。
施米や施銭を納めるための
虚無僧は、浪人の仮の姿が多い。
男は知恩院にある一心院の虚無僧だと思われた。
「ありがとうぞんじます」
重右衛門とお信が、礼を尽くして丁寧に頭を垂れた。
「どないに礼を言うてええのやら……。このお礼は……」という重右衛門に、虚無僧は、
「いやいや。礼には及びませぬ」
陰気に笑った。言葉には、どこか野暮ったい田舎訛りが感じられた。
「私どもの気が済みません。せめてお名前だけでも……」
あくまで食い下がる重右衛門に、虚無僧がおもむろに天蓋を被りかけたときだった。
「愉快。愉快。なんとも豪気千万。虚無僧にしておくにはもったいない男じゃ」
自慢の鉄扇を持った芹沢鴨が、大股で歩み寄った。
芹沢一派の平山五郎と平間重助、野口健司、壬生浪士組随一の剣客永倉新八の大柄な姿が続く。
「あっぱれ。あっぱれ」
取り巻き連中が、芹沢に付和雷同して口々に騒ぎ立てる。
虚無僧は芹沢一行に向って黙礼した。
ほかにも〝みぶろ〟は来ているかと見渡すと、野次馬に紛れて土方歳三の白い顔が目に付いた。
近藤の金壺眼もすぐ脇で光を放っている。
浅太郎は、壬生浪士組が屯所として占拠している八木源之丞邸の三男、八木為三郎と同い年だった。しょっちゅう遊びに行くため、壬生村に居着いた得体の知れぬ浪士軍団にも詳しかった。
当初は、衣替えの季節になっても、夏の衣服に窮する浪士が多かったが、今では会津侯より給金が出るようになり、隊士の数も三十五名ほどに増えていた。
「おお。浅太郎」
沖田総司が、屈託がない、明るい声で話しかけてきた。
「近頃はとんと八木邸に姿を見せぬではないか。ははん。この前、厳しく稽古をつけてやったので、臆したのだな」
沖田は浅黒い顔に白い歯を煌めかせ、浅太郎の肩を乱暴に叩いた。
顔を見ただけで、脛の打ち傷が痛み出す。
「うちかてもう十四どす。今までみたいに遊んでばっかりはおれまへんのや」
虚実織り交ぜて言い訳した。
沖田は、暇さえあれば近隣の子供の相手をしてくれるが、いつの間にか撃剣の話題から手ほどきへと移行してしまう。あげく、相手をびしびし打ち据える悪い癖があった。
槌屋はあらかた燃え落ちたが、人足たちの働きで、延焼もなく収まりそうな具合になった。
気付くと、如月は三崎屋に運ばれたらしく、縁台に姿はない。
「ささ、うちへ……」
「いや。拙者は、これにて……」
重右衛門夫妻と虚無僧との攻防は続いていた。
虚無僧が重右衛門の腕を振り切るようにして立ち去りかけたときだった。
「おぬしは、葛山武八郎ではないか」
群衆の中から、副長助勤を勤める古参隊士、安藤早太郎が進み出てきた。
「おお。安藤殿。お久しゅうござる。その節は世話になり申した」
葛山は被ったばかりの天蓋を脱いで、深々と礼をした。
「いやいや。ごぐごく当たり前のことをしたまで」
四十を超え、若い隊士の中では目立って年長者である安藤は、顎を撫でながら鷹揚に頷いた。
「今ではこの通り、活計にも困らぬ身とあいなり申した。五年前のあの折り、安藤殿に声を掛けていただいた御陰と存ずる」
葛山は初めて笑みを浮かべた。
「浅太郎は知らんだろうが、安藤さんは壬生浪士組に参加するまで十年ほど虚無僧暮らしであったのだ。あの虚無僧の先輩というわけだな」
沖田のお節介な説明の御陰で、浅太郎は合点がいった。
「安藤さまのお知り合いどしたとは心強おす」
仲居頭のお峰が、ここぞとばかりに心得顔で口を挟んだ。
「安藤さまからも仰っとくれやす。このままやと、うちらは恩知らずのそしりを受けます。焼け焦げた衣服だけでもまどわせて(弁償させて)もらいとおす」
お信が、安藤の袖にすがるように泣きついた。
「葛山。ここまで言われてすげのぉ立ち去るのは、いかん。な、わしも同道するゆえ三崎屋に出向かんか。わしの顔も立てんか」
否と言わさぬ勢いの安藤の言葉に、葛山は「さようまで仰せとあらば……」と渋々従った。
「さ、さ、どうぞ、どうぞ。うちの見世はすぐその先どすさかいに」
重右衛門夫妻とお峰は、嬉々として葛山と安藤を先導し、三崎屋に向かった。
三崎屋の紋が染め抜かれた大暖簾を潜ると、出迎えの仲居が一斉にお辞儀をした。
「揚屋や茶屋には参るが、置屋に揚がるは初めてじゃ」
安藤が無遠慮に辺りを見回しながら、式台で草履を脱いだ。
「まずは、私どもの座敷で一献。そのうち如月も身仕舞いを整えますゆえ」
重右衛門が、安藤と葛山を奥座敷へと丁重に案内する。
置屋である三崎屋は、揚屋のように遊客を接待する楼閣ではないから、煌びやかに飾っていない。宴を催すための大広間もなかった。だが贅を尽くした造りと調度を誇っている。
仲居たちが裾を引きずりながら、仕出し屋から急いで取り寄せた膳を銘々の前に並べた。
「わしは行きがかりで参っただけのこと。すぐにも帰る所存でござったのに」
安藤は人差し指で鼻先を擦った。
「ご遠慮なさらずに。今宵は安藤さまも立派なお客人でございますよ」
重右衛門が手をぽんぽんと叩いて合図をした。芸妓や舞妓もやってきて、酌をし始める。
「こったいさまを救うてくれはった虚無僧はんて、歌舞伎役者はんみたいに、えらいええ男はんやおへんか」
舞妓同士が、小声でひそひそ囁き合う。
当の葛山は、何を考えているのか、押し黙ったままだった。極彩色の艶やかな島原で、葛山だけが墨絵の世界の住人に見えた。
「ところで娘御はご壮健かな」
安藤は盃を手にしながら、重右衛門に向かって横目で訊ねた。
「浅葱はあいにく臥せっておりますのどす」
重右衛門はにこやかに答えた。
「浅太郎も浅葱も、ときおりわけのわからぬ病で寝付きますのどす。気鬱どすやろか。『甘やかして育てたせいや』て郷里の父にもよう言われるのどすえ」
お信がほつれ髪を撫でつけた。
「そうそう。浅太郎。安藤さまはなあ。うちら夫婦の恩人どすえ。ほほほ。安藤さまはなあ……」
お信が言いかけた言葉を、重右衛門がついっと端折った。
「安藤さまが虚無僧してはった時分や。油小路通の居酒屋で偶然出くわしたのが始まりや」
重右衛門は感慨深げに、一つ息を吐き出した。
「ほんで、安藤さまから『子作り』に霊験あらたかな品を譲ってもろたんや。そないしたらすぐ、ややこが授かってなあ」
重右衛門の話に、お信が再び口を挟んだ。
「ほんまに安藤さまの御陰どす。うちは死産ばっかし繰り返してましたさかいなあ」
お信が頭を垂れると、安藤は嫌みなほど背を反らせて頷いた。
「ややこがどないしても欲しかったお信は、気がふれたみたいになっとったのどすが……」
嬉しげに話す二親の言葉に嘘はない。
だが、口中に砂の味を感じた。
「わしも人助けできて、何よりと思うておる」
安藤は芝居がかった素振りで豪快に酒を煽った。
「こったいさまがお待ちどす~。お部屋まで、ちいと、おいでくだされませ~」
禿がふたり現れてちょこなんとお辞儀をした。
「ささ、葛山。わしに遠慮せんと、行って来い」
安藤は右手で追い立てるような仕草をした。
「安藤殿も、ご一緒ではござらぬのか」
無表情だった葛山の顔に当惑の色が浮かんだ。
「如月が礼を言う相手は、おぬし一人であろうが」
「し、しかし……」
葛山は目を宙に泳がせ、逡巡した。
「わしらはここで、ゆっくり待つ。それゆえ気にせずともよいぞ」
下卑た含み笑いをしながら、安藤は大きく頷いた。
「こったいさまが、お待ちかねどすえ。ささ……」
如月付きの引舟が、葛山の手を取って廊下を去っていく。
すらりとした葛山の後ろ姿を見送っていると、浅太郎の心の琴線がびんと弾かれた。
色里で礼儀を尽くす言えば、やはり……。
心は千々に乱れ始めた。
「安藤さまには、十数年来、何かとお世話になっておりますなあ」
重右衛門が自ら安藤に酌をする。お信はいつの間にやら席を外していた。
「いやいや、わしこそすまぬことじゃ。盆、暮れの付け届けなんぞ無用と申しておるに」
安藤は脇息にだらしなく凭れかかって、注がれた酒を胃の腑に流し込む。
「この頃は、島原もようやく息を吹き返したしだいで、ありがたいことどす」
お信に代わってお峰が、団扇で安藤をゆるゆると扇ぐ。仲居頭のお峰のほうが、お信よりよほど女将らしい貫禄を醸し出している。
お信は近江八幡で薬種問屋を手広く構える大店、安木屋の娘だった。
傾きかけていた重右衛門の見世が現在のように持ち直したのも、お信の郷里の財力だった。
お嬢様育ちのお信は、御新造さまであっても、女将ではない。
禿から叩き上げのお峰が、見世を切り盛りしていた。
重右衛門が浅太郎とともに暢気に妾宅暮らしができるのも、見世の差配を任せられるお峰のおかげだった。
「壬生浪士組の皆様は、今や会津侯の思し召しも目出度く……。今後、ますます飛躍なさると期待いたしております」
愛想笑いを浮かべながら、重右衛門は安藤を持ち上げた。
だいぶ目が据わってきた安藤は、
「壬生から十町ほどの距離を、芹沢、近藤両局長は、駕籠を仕立てて参られるように相成った。そのうちわしらも、駕籠を連ねて毎夜参るようになるぞ。大名行列のようになあ。はっはっは」
乱杭歯の口の奥まで丸見えにして笑った。
「だんはん。その節はせいぜいご贔屓にぃ。揚屋からの差紙(招請状)には、うちの太夫、芸妓の名をおたのもうしますえ~」
お峰が色っぽい流し目で安藤を見た。
「わかっておる。わしは年長ゆえ、芹沢、近藤両局長には一目も二目も置かれておる。『宴を催すおりは、三崎屋抱えの女に限る』と進言するによって安心せい」
安藤は胸を反らせ、厚い胸板をどんと叩いてみせた。
重右衛門はいつの間に用意していたのか、懐から紙包みを取り出して安藤の袖のうちに潜ませた。
こうしている間にも、如月と虚無僧が何をしているかわかったものではない。
浅太郎は、ついに居ても立ってもいられなくなった。
厠へ行く素振りで、浅太郎は外縁に出た。
長い渡り廊下の先、階段を上って、手前にある如月の部屋を目指した。
暑くもないのに、額に汗が染み出す。
廊下の奥にある睦月の部屋からは、明るい笑い声が響いてくる。
如月を禿から育て上げた、姉分の睦月は、もう二十五で、来年には退郭するという気楽な身の上である。
柱の影からそっと顔を出して、如月の部屋のうちを窺った。
酒肴を前に、如月がなにやら小声で話し、葛山は黙っている。
しばらく沈黙が続いたかと思えば、また、如月が何か声をかける。
だが、葛山は頷くだけで話が続かない。
合間に引舟が笑い声を立て、硬いままの座を取り持とうと必死である。
浅太郎は常ならぬ空気を感じた。
いかに無口で無愛想な客人とて、如月が座持ちせられぬはずはない。
如月はつまらぬ虚無僧風情に本気で惚れてしまったのだ。
早くに到着していれば、火の中に飛び込んだのは、浅太郎だったはずだ。
悔しさが募った。
乱れ籠を捧げ持った古参の仲居が、とんとんと階段を上ってきた。
衣服は、虚無僧の衣装としても使えそうな藍の綿服だった。
「忝ない。お借りした小袖は、明日にでもお返しに参るゆえ」
葛山は立ち上がり、そそくさと着替えを始めた。
「では、これにて……」
「まだ、よろしおへんか」
引舟と葛山との問答がしばらく続いた。
如月はじっと座したまま、深い睫毛に縁取られた瞳で葛山を見つめている。
葛山が座敷を辞する気配に、浅太郎は慌てて階段を駆け下りた。
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