恋愛学園の舞踏王様(プロムキング)

ikki

第1話 復讐への助長

始めに言っておこう。


「これは、俺——八王子純太(はちおうじ じゅんた)が、舞踏王様(プロムキング)になるまでの、物語だ。」


 そしてこの物語の始まりは、誰にも見せたくないほどに惨めで、情けなくて、最低な場所からのスタートだった。


「何でだよ! 何でなんだよッ! 俺のことが好きだったんじゃないのかよッ!」


 絶叫にも似た声が、夕暮れの保健室に響き渡った。窓の外には赤く染まる空。水平線に沈みかけた夕陽が、静かに世界を切り替えていく。だがこの部屋だけは、そんな風景とは無関係だった。そこにあるのは、誰にも見られることのない絶望だけだった。


 俺の叫びは虚空に溶け、誰にも届くことはなかった。聞いてくれる者はおらず、慰めてくれる者もいない。ただ、白く乾いたシーツと薬品の匂いだけが、何事もなかったように空間を満たしていた。


「ピコンッ♪ ラヴポイントがゼロになっちゃった……ピコンッ♪ ラヴポイントがゼロになっちゃった……」


 「あんたは、向日葵に騙されちゃったの!お解り?残念でしたー!キャハッ」


向日葵の言葉が何度も脳内にリピート再生される。

小悪魔のような笑い方だった。

まるで異界から、現代に召喚された存在。

その目は無垢なふりをした悪意で満ちていて、笑い声は鈴のように軽やかなのに、聞く者の心を切り裂く毒を孕んでいた。

 向日葵の声が、どこか現実離れして聞こえた。人間の感情じゃない。痛みも、罪悪感も、何も通っていない。

それはもう、人の皮をかぶった悪魔だったのかもしれない。


何かの間違いだって思いたかった。誰かが仕組んだ悪質なドッキリか、もしくは夢であってほしかった。

でも、痛いくらいの現実だけが、そこにあった。


焦燥感に苛まれながら、俺は今にも叫び出しそうだったが……何も言えなかった。

喉の奥が詰まったみたいに、声が出ない。思考も止まる。ただ、向日葵のその言葉だけが、また頭の中を何度もリピートされていく。


「あんたは…向日葵に…騙されちゃったの…」

そんなはずない。だって、俺は……信じてたんだ。

この気持ちは、ちゃんと伝わってるって。届くって。勝手に、そう思い込んでた。


胸の奥が、ずきりと痛んだ。

その痛みは、時間が経つほどにじわじわと広がって、呼吸すら苦しくなっていく。

笑ってた彼女の顔が、もう思い出したくもないのに、脳裏に焼きついて離れなかった。


 学園指定のラヴウォッチ——生徒同士の好感度を数値化する、狂った制度。その数字がゼロになるというのは、完全なる「敗北」を意味する。人としてではない。「異性としての価値がない」と言われたのも同然だった。


 俺は膝をつき、保健室の冷たい床に手をついた。震える右手で胸元を握りしめる。締めつけられるような痛みが胸の奥でうねり、呼吸すらままならない。どれだけ息を吸っても空気が足りない。喉が熱く、心臓が脈打つたびに、全身が焼けるように苦しかった。


「痛てぇ……くそっ、なんで……恋って、こんなに……イテェんだよっ……!」


 絞り出すような声が口をついて出た。自分でも情けないと思った。だけど、止まらなかった。心臓が張り裂けそうだった。息を吸うたびに過去の記憶が蘇る。笑い合ったあの昼休み。放課後の下校路。たった数日前までは、確かに、好き合っていた筈だ。


 俺は腕で顔をこすった。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、無理やり拭って、何かを掻き消すように、何かを忘れようとするように。だけど、そんなことで痛みが消えるはずもなかった。


 そして、俺の中で何かが音を立てて崩れた。


 いや、もしかしたら最初から壊れていたのかもしれない。ただ、それに気づかないふりをしていたんだ。それでも向日葵の優しい笑顔を思い出してしまう。

「俺…こんなに、向日葵が好きだったんだ…」


 そのとき——


「コツッ、コツッ……」


 廊下の奥から、規則正しい足音が近づいてきた。静寂を引き裂くように、乾いた音がリノリウムの床に響く。誰も来ないはずの保健室。放課後のその時間、教室の灯りはすでに落とされ、昇降口も閉まり始めているというのに。


 扉がゆっくりと軋む音を立てて開いた。


 反射的に顔を上げる。


 そこに立っていたのは、一人の女子生徒だった。


 夜の帳が降り始めた窓辺から差し込む月光に照らされて、その姿はまるで悪を切り裂き、風のように颯爽と人々を救い出す、ダークヒーローが降臨したかのような光景に俺は、不覚にも心奪われてしまっていた。


 黒髪の少女。長く艶やかな黒髪は月の光を受けて静かに揺れていた。整った制服の着こなし。すらりと伸びた足。そして何よりも、あまりにも冷たいその瞳。全てが、異質だった。


 彼女はゆっくりと歩み寄り、俺の前でぴたりと足を止める。まるで、汚物でも見るかのような目で、俺を見下ろしていた。


 そして——


「……哀れな男ね」


 その言葉は、刃のように鋭かった。低く、冷ややかで、しかし耳に残るほど印象的な声だった。言葉のナイフが心に突き刺さるというのは、こういうことかもしれない。俺の鼻水と涙でグシャグシャになった顔は、彼女からすれば滑稽な顔にしか見えなかっただろう。


 悔しい、はずだった。


 なのに、不思議と怒りは湧かなかった。ただ、何かが始まろうとしている。そんな直感めいた予感だけが、胸の奥で静かにざわついていた。


「ピコンッ♪ ラヴポイントがマイナス1になっちゃった……ピコンッ♪ ラヴポイントがマイナス1になっちゃった……」


 またしても、機械音声が響く。さっきまでゼロだった数字が、さらにマイナスへと転じた。まるで人生の底が、さらに深く掘り下げられたような感覚だった。


 だけど…


 そのときだった。俺の中で、何かが確かに「始まった」のだ。


 だから、もう一度だけ言わせてくれ。


「これは、俺——八王子純太が、舞踏王様(プロムキング)になる物語だ。」

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