◇◇月城一颯◇◇ 夜走

 家族と、事故の直前程度のことしか覚えていなかったわたしに、ほぼすべての記憶が戻ってから二週間が経つ。

 あの後、Canalsの借り上げていたワンルームマンションの一室に迅速に引っ越した。人通りが多くて目立った事がしにくく、Canalsの他の社員とは被らない場所だ。


 わたしは以前と同じようにCanalsに勤めさせてもらっている。

「小学校でも中学でもいじめに遭っていた、だから思い出さない方が幸せだ、辛い過去とは訣別するんだ」と叔父に諭されて育ち、記憶をたぐる事を避けていた。記憶が甦りそうになると、あえて別のことに意識を向け、封印する。

 今だって充分辛いのに、これ以上厳しい現実に向き合う事が怖い。自信がない。

 それをこじ開けてくれたのが、皮肉にも両親の仇だと教えられてきた村上健司だ。

 思い出してみれば、驚くなかれ初恋の相手で、事故当時の中学二年時でさえ、わたしは彼のことが好きだったのだ。


 ほとんど人の引けたオフィスのガラス張りの副社長室の中で、二十六歳になった村上くんがパソコンのキーボードを叩いている。時刻は午後十時をまわっている。

 この奇異な感覚にいまだに慣れない。

 あれから世界は完全に二極化した。色彩に満ちたこのオフィスの中では心が軽い。その分、叔父の家にあたる部分はグレーから真っ黒になった。

 村上くんを憎んでいたなんて、わたしの感覚はいったいどこまでバグっていたんだろう。


 オフィスの中で、わたしは爪を隠すのを辞めた。「赤堀さんの力になりたくて勉強したんです」と主張して、本来の実力でコードを書くようになったから、彼女の負担は減った。完全交代で仕事ができる。作業をわたしだけに任せることができるようになり、赤堀さんの退社時間は早くなった。


 わたしももっと早く退社してもいいんだけど……。どうしてもガラス張りの副社長室の中に意識が向いてしまう。

 そして、見ている限り、村上くんが残っている時に秘書の浅見さんは、必ず副社長室の真ん前の席にいる。Canalsはフリーアドレスだけれど、自ずと座る場所は決まってくる。そして秘書である浅見さんの他に、あの席に座る人はいない。

 わたしと同じようにガラス張りの副社長室に視線を向けている。これは秘書として当たり前の行動? 違う理由のような気がするのは思い過ごしだろうか。


「あーもう、さすがに……」

 急かされてもいないのにこれ以上仕事をするのは不自然に思えて、わたしはパソコンの電源を落とす。フラップを閉じ、デスクを片付ける。パソコンを自分のロッカーに運んで静脈認証で開けるとそれを中の棚に置き、代わりにロングコートを取り出した。そして籠に入れている荷物を取りにもといた席に戻った。そこでちらりとまた副社長室の中を確認してしまう。

「え……?」


 村上くんが、音がするほど乱暴に立ち上がったところだった。手には社用携帯が握られている。社用携帯を切ると、今度は副社長室内にあるロッカーの中の通勤用リュックをあさり出した。ロッカーには私物を入れているようだから、あさっているのはおそらく私用の方のスマホだ。

 スマホを取り出してどこかに電話をかけている。副社長室の中で、いや、オフィスの中で私用のスマホなんか触っているところを初めてみた。

 電話を切ると、パソコンの電源だけ落とし、フラップも閉じずにロッカーから通勤用リュックとダウンジャケットを引っ張り出す。


 一般社員と違って役員である村上くんの私物は、ガラス張りの副社長室の中に全て収まっている。電話を切ってから一分もせずに副社長室を飛び出し、鍵をかけながら浅見さんに帰ることを告げている。

 わたしは籠から鞄をひったくると、さりげなく村上くんを追ってエレベーターホールに向かった。

 席を離れる時に浅見さんの方を伺うと、村上くんのあまりに迅速な行動に追いつけないようで、呆けたようにその場に立ち上がったままだ。帰り支度がほぼ済んでいたわたしとは違う。


 エレベーターホールに行くと、八基あるエレベーターの下降ボタンをすべて押した状態で、イライラとケージが来るのを待っている村上くんがいた。

「副社長」

「月城……」

「……どうしたんですか? すごい勢いで出ていくからーー」

「母親から電話があったってビル管理から電話で……。よっぽどのことかとかけ直してみたら、夕凪が、帰ってない」

「えっ。でも夕凪ちゃん大学生ですよね? 飲み会とかじゃ……」

「いや、普段はそうなんだけど、ここんとこ……。いや、もうな。一週間前につき合ってるやつと別れたんだよ。それから大学も行かないで家に閉じこもってたと思ったら、ふらっと出てってこの時間まで帰ってこないって……。連絡もつかない」


 わたしに隠すのが面倒になったのか、不安からか、真実がそのまま口から出てしまっている。

「あてはあるの? どこにいるか心当たりは?」

「ないよ。でも探さなきゃ」

 焦りが加速し、エレベーター前のリノリウムの床をつま先で小刻みに蹴る。

「ちょっと待ってて! 十秒で戻るからエレベーター来ても乗らないでよ!」

 わたしはそう断ると、上方階に向かうボタンを拳で二度連打して、そのまま踵を返した。


「月城っ?」

 わたしはロッカーまで走った。向かい人差し指を押し当ててそれを開くと、今入れたばかりのパソコンを取り出して抱え、エレベーター前に走った。

 エレベーターの上下ボタンを見ると下方に向かうケージはいってしまった後だった。この非常事態でも、わたしを信じて乗らないでいてくれたことが嬉しい。

「月城、どういう……。俺行かないと」

「わかってるよ。でもあてがないのに闇雲に探しても見つからないよ。わたしが必ず見つけるから!」

「は?」

「こっち。四十二階でやろう」

 やっと来た上方階行きのケージに村上くんのダウンジャケットの袖を引いて乗り込む。

「多目的ルーム? 何を……あっ!」

「夕凪ちゃんのスマホのデータ、ありったけ出して。メールアドレスとか、電話番号。ラインとか他のSNSも。知ってるのは全部」

「了解」


 エレベーターの中で村上くんは自分のスマホを操作している。夕凪ちゃんのデータに関するものを、片っ端からスクリーンショットに撮っているようだ。

 エレベーターから降りたわたし達はCanalsの多目的ルームに走った。IDカードで開けると、すぐ近くの長テーブルにパソコンを載せ、腰を据える。

「これ、夕凪のスマホのデータ。メアドとか諸々。さっきスクショした」

 スマホの写真画面を何枚もスライドさせてわたしに見せる。

「これだけあれば、すぐだよ」

 わたしは夕凪ちゃんのデータから、彼女のスマホの位置情報を引き出すため、パソコンを操作し始めた。悪いけどハッキングさせてもらう。


 数分で位置が割り出される。

「湘南だ」

「え?」

「ほら、ここみたい」

 パソコン上にはグーグル地図が表示され、夕凪ちゃんの位置にピンが立っている。

「ここだな? この位置情報って俺のスマホと共有できる?」

「うん。貸して!」

 わたしは村上健司の差し出したスマホのグーグル地図アプリに、探り当てた夕凪ちゃんの位置情報を送信した。

「サンキュー! マジで助かったわ。すげえな、月城。そんじゃ気をつけて帰ってくれよ、もう遅いから」

 一刻を争う、って雰囲気の村上健司は、もう多目的ルームのドアノブに手をかけている。


「どうやっていくの? わたしも行く!」

「いや。明日だって会社だし。もう遅いよ」

「途中で夕凪ちゃんが移動したらどうするの?」

「え……。夕凪の位置、追えるんじゃないの?」

「ハッキングだからどんな不具合が出るかわかんない」

「マジか……」

「行こう。急がないと」

 わたしは自分から先にドアノブを大きく開いた。

「ありがと。ありがとう月城」

 それからわたし達はタクシーで村上くんの自宅マンションに帰った。村上健司はミケとチャピのご飯を用意してから、またすぐに外に出る。今度は彼の車に乗り込んだ。村上くんの車は黒い大型の4WD、SUVだ。こんな時なのに彼らしいな、と思ってしまう。

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