第13話

 菖蒲ヶ原家での夕食と、その最中の騒動からしばらく経った。

 学校での雪子と慎二は、一緒に昼食をとることが多くなった。ただし、あまり人目につくと噂になってしまうので、なるべく人のいない場所を選んだ。二人にその認識はないのだが、密会と呼ぶにふさわしい行為である。

「それで、どうなの。家のほうは」

「どうって、まあ、ふつうかな」

 購買のパンではなく、母親の手作り弁当を遠慮がちに披露しながら、慎二はボソボソと言う。 

 二人がいるのは屋上へ通じる階段の最上段だ。数十センチの隔たりをもって並んで腰かけている。そのままではお尻が汚れてしまうので、校務員室の前に置かれていた段ボール片を拝借して敷いていた。

「ふ~ん」

 雪子の手が素早く伸びて、慎二の弁当箱からアスパラの牛肉巻きをつまみ上げて口に運んだ。

「ああー、まだ俺が食べてないって。欲しいならあげるから、ひとこと言ってくれよ」

「古今東西、女は突然奪うものなの。ママに甘えられるのも、強欲な女がいてこそなんだから」

「相変わらず、言ってることが意味不明なんだけど」

 可愛い顔がフフフと笑う。

「ところでさ、菖蒲ヶ原さんのほうは最近どうなの」

「まあ、ふつうじゃないのかしら。お父さんと食事をしても気まずくないし。でも夜中にドラムを叩くと、ちゃんと怒られるよ」

 雪子がケイタイを取り出して画面を見た。なにかの通知があったのか、ブルッと震えたようだ。

「スマホ、買ったのか。それってこの前発売されたばかりのすごく高いやつだ」

「お父さんがね、買ってくれたのよ」

「久しぶりに菖蒲ヶ原さんと散歩して、うれしかったんだなあ」

「なに言ってんの、そんなに甘くないわ。猛烈にねだったから買ってくれたんだから」

「菖蒲ヶ原さんがおねだりする画が想像できないよ。ある意味、すごく興味深い」

 想像できない絵図らを想像して、慎二はニヤついていた。鷹女の目は、それを見逃さなかった。

「だったら見せてあげようか」

「え」

 数十センチの隙間を滑るようにして女体が接近してきた。雪子の胸が慎二の腕に振れるか触れないか、ギリギリの距離である。まっすぐ前を見ている男子高校生の頬に触れんばかりに、女子高生の唇が迫る。

「ねえ、ほしいの。とってもほしいの。だからね、おねがい。ねえ、いいでしょう、うふ」

 吐息が皮膚の産毛を撫でた。美女子の物欲しそうな瞳が猛烈に妖しくて、慎二はゴクリと生唾を飲み込んだ。ドラミングしている心臓に手を当てて、精神の動揺が鎮まるのを切に願っていた。

「っていうような具合よ。どう?私になにかを買ってあげたくなったでしょう」

 シュッと上体が滑って元の位置に戻った。雪子の体は離れたが、慎二の腕の周辺には人肌よりもやや高めの温もりが残っていた。

「いや、そのう」

 コンクリートのように固まってしまった慎二を見て、雪子はやり過ぎたかと心の内で舌を出した。

「ジュース買ってくるね」

 フフッと表情をゆるませて、妖女がタタタッと軽快に階段を降りて行った。残された慎二はしばらくボーっとしていたが、思い出したように弁当に喰らいつく。最後の一口で喉につっかえてしまうが、消化器官の奥へ流し込む液体がなかった。

 目を白黒させて胸の上のほうを必死で叩いていると、見知らぬ女子が階段を駆け上がってきて、トマト果汁たっぷりの缶ジュースを差し出してくれた。彼女の手からひったくるようにして飲んだ。

「ふう、ありがとう。助かったよ」

 半分ほどに減ったトマトジュース缶を、その太った女子生徒に返して慎二は一息ついた。

「これは等価交換だからね。後で倍にして返してもらうから」

 女子生徒は、ビール樽のように肥えた横腹に手を当てて、いかにも居丈高に言った。

「倍になると等価交換ではないような。ってか、その言い方、知っている女子にそっくりだ。声まで似ている」

 女子生徒が制服に付けている校章の色で、彼女が二年生だとわかった。

「はあ?誰のことを言っているのよ。私以外に慎二が女子と知り合いになることなんてないじゃないのさ」

「ええーっと、君とは初対面なはずだけど、どこかですれ違ったりしたかな」

 食べ終えた弁当箱のふたを閉めて、慎二が立ち上がった。目の前の女子生徒よりも一段高いうえに、もとの身長差も加わり、だいぶ見下げる格好となった。

「俺は二組の新条だけど、まあ、下の名前を知っていたから、わかってると思う」

 女子生徒は少しばかり口を開けて見上げていた。それにしてもよく肥えた女子だなと、制服をはち切れんばかりに膨らませている肉体を興味深そうに眺めていた。

「あのねえ、私の悩殺演技にドギドキしたのはわかるけど、そこまで我を忘れなくてもいいのよ。もう一度リコピンを摂取して落ち着きなさい」

 そう言って、トマトジュースの缶を差し出した。一度口をつけてしまったので返しても意味がなかったと思い、慎二はすべてを飲み干した。

「ジュースのお金を払うよ」と言って、財布から小銭を取り出した。

「だから、私のおごりでいい。アップルパイより安いんだから」と、その女子生徒は受け取らない姿勢を示した。

「いや、でも、悪いし。そうだ、名前を教えてよ。ええっと特進なのかな」

 見かけない女子なので、特進クラスの生徒であると見当をつけた。

「特進クラスの菖蒲ヶ原雪子ですけど、なにか」

 太った女子生徒は、面倒くさそうではあるが、腰に手を当てたキメのポーズで応えた。

「あのう、菖蒲ヶ原さんだったらジュースを買いにいってるけど。ここにはいないよ」

「はあ? だからリコピンたっぷりの健康ジュース買ってきてあげたじゃないの」

「もし菖蒲ヶ原さんに伝言があるなら伝えとくよ」

「どうして自分へのメッセージを慎二に頼まなきゃいけないのよ」

「ええーっと、自分へのメッセージがあると伝えればいいのかな」

「バカなの。ねえ、バカでしょう」

「菖蒲ヶ原さんにバカと伝えるのは、ちょっとしんどい。あ、まだ名前を訊いてないんだった」

「いい、バカ男、よく聞くのよ」

 その太った女子高生は階段を登りきって慎二の横に来た。そして、あり余るお腹の肉をプルンと波打たせてポーズを決めた。パンパンに膨らんだ制服がいまにも弾け散ってしまいそうである。

「私が菖蒲ヶ原雪子ですけど、なにか」

 慎二が黙っている。彼女も凝り固まっていた。十数秒が経過した。

「あのう、ひょっとして自分が菖蒲ヶ原さんだと思っているのか」

 その女子生徒の体格は、直径比で雪子の二倍はあり、顔もまったく似ていなかった。いわゆるブサイクというわけではないが、アイドル顔負けの美少女である雪子と比べると、純粋な美の観点からの判断は厳しくならざるを得ない。ただし、ふくよかな顔立ちは愛らしく、けして不快というわけではなかった。

「思うもなにも、私が菖蒲ヶ原雪子、で・す・け・ど、な・に・か」

 吐き出された言葉の一文字一文字に、彼女の全重量がかかっていた。

「う~ん」と慎二は唸る。あくまでも自分の名前を偽る女子をチラチラと見て、このまま触り続けていい物件なのかを考えていた。

「菖蒲ヶ原さんみたいになりたいってのはわかるけど、ちょっとムリがあるような。もう少し、レベルを下げてみようか」

 かなり気をつかった妥協案である。

「菖蒲ヶ原雪子は菖蒲ヶ原雪子なの。どうやったらレベルが下がるのよ。何度も言うけど、バカなの。カナヅチで叩いてあげるから溺れて死になさい」

 強情さと居丈高な物言いは雪子に似ていた。少し残酷ではあるが、現実をその目で確認させるしかないと慎二は考えた。

「では菖蒲ヶ原さん。手鏡は持ってるかい」

「持ってるわ。当り前じゃないの。手鏡と銀紙は女子高生のたしなみなんだから」

 どこかで聞いたことのあるセリフだった。

「ほら、これよ」と言って差し出すが、慎二が必要としているわけではない。

「それで自分の顔を見てよ」

「いったい、なに。ほっぺたにご飯粒でもついているっていうの」

 ぶつぶつと文句を言いながら、その女子生徒が手鏡を顔の前にもってきて、まじまじと見た。

「えっ、後ろに誰かいるの、背後霊?」

 彼女が振り返りキョロキョロと見回すが、超常的な存在を認識することはなかった。

「なにが見えた?」

「なにがって、私以外の女子。こう言っては失礼だと思うけど、体調管理ということに関して、かなり杜撰な子ね。ビリー隊長の動画を観たほうがいいと思う」

 眉間に皺を寄せて、苦いものを食べた時のような表情をする。

「わかった。じゃあ、もう一度手鏡を見て」

「なにがわかったのよ。ビリー隊長の特訓はすごいんだから」

 そう言って、もう一度手鏡を見た。今度は反射するあらゆる角度を試して、念入りに写していた。

「どう?」

「・・・」

 しばし凝視して手鏡から目線を外すと、愛らしく丸い顔がシブい表情となっていた。慎二がなにか言おうとすると、キッと睨んで右足を振り上げた。

「はんぐっ」

 その肉厚のつま先が男子の中心点をヒットし、両手で股間を押さえた慎二が床に沈んだ。

「な、なにするんだよ、ここは」

「中心で愛を叫ぶ場所なんでしょ」

 ハッとして慎二が顔を上げた。大事な場所の痛みを失念して見つめている。

「どうしてそれを」

「だから私が菖蒲ヶ原雪子ですけど、ってセリフを言うのが面倒になってきたけど、もう一度言うから、耳の穴をかっぽじって聞きなさい」

 その女子生徒は、糸で縛った焼き豚みたいにはみ出した脇腹に手を当てた。

「私がサイキックでプレコグニションな菖蒲ヶ原雪子ですけど、なにか」

 見慣れたポーズであるが、今宵のそれは迫力が違うと感じていた。

「ひょっとして菖蒲ヶ原さん、なのか。本物の菖蒲ヶ原さん」

「モノホンの雪子よ、衝動的なジャンプが大好きなピーピング・トム君」

「だけど違うような気がするのは、気のせいではないような気がするんだけど、いや、気のせいじゃないか」

 目の前の女子が雪子本人であるとの思いが強くなったが、まだ腑に落ちないようである。

「回りくどい言い方がイラつくわ。気がするんじゃなくて、おもいっきり違う。全然別人よ。この体を見てわからないの。バカなの」

 よく肥えた樽腹をポンポンと叩き、やや怒りの表情である。

「いや、わかってるよ。さっきから、それとなく言ってるじゃないか」

「男だったらハッキリ言いなさいよ。わかりづらいわ」

 フンと、鼻で息を吐き出して背中を向けた。それから顔だけひねって、慎二を見つめる。いつもの雪子と違い、三重顎の積層感に迫力があった。

「それにしてもジュースを買いに行っただけでそんなに太るなんて、一斗缶の油でも飲んだのか。ポテチの爆食いとか」

「あなたはほんとにバカなの。ふだんの私からここまでになるには、毎日ジャンクな食事をして自堕落な生活をしても一年以上はかかるわ。ものの数分で激太りするわけないじゃないの。油飲むとか、どこの妖怪よ」

 今度は体もしっかりと慎二を向いた。

「それに顔が違う。たとえ私がおデブさんになっても、こんなタヌキ顔にはならないわ」

「そんなに悪くはないよ。包容力があって、力強い母性を感じる」

「おふくろさん、って言いたいんでしょ」

 図星であったが、慎二は否定も肯定もしなかった。すっとぼけて明後日の方向を空見する。

「ねえ、わからないの、これは超常的な現象よ。ただごとではないわ」

「超常的って、ひょっとしてサイキックとか」

 肉量のありすぎる樽ボデーがプルンと縦揺れし、肯定の意志を示した。

「それ以外に考えられないじゃないの」

「ええーっと、サイキックだとして、どういう類の能力なんだろう」

 瞬間移動や予知能力、念動力、読心術などは知られたところであるが、姿を変えられるというサイキックがあったのか、慎二は頭の中のスーパーナチュラルファイルを検索していた。

「これって、シェイプシフターじゃないの」

「しぇいぷしふたあ、って、なんすか」

 聞いたことのない言葉に、慎二はポカンとする。

「ケイタイでググりなさいよ」

 楽をさせてくれない同級生に促されて、ケイタイの画面を操作する。

「ええーっと、姿を変えられる妖怪ってあるけど」

「妖怪って、私のどこが妖怪なのよ。ふざけないで」

「妖怪的な能力をもったサイキック、ってことだよ」

「まあ、それね。サイキックの定義が広がったのよ」

 解釈として妥当な線で、お互いの考えが一致した。

「俺たちのサイキックは、あの時から全然出ないんだけど。どうして急に変身なんて能力が発揮されたのかな」

 二人のサイキックは、それぞれの家族関係が改善してから発動しなくなっていた。ある日突然自分の身に超能力が備わったのは、家族間の不調和が原因であると、いちおうの結論を得ていた。

「菖蒲ヶ原さん、ひょっとして家族の誰かと揉めたりしてるんじゃないか」

「お父さんとは良好だって言ったじゃないの」

「じゃあ、お母さんとか」

「お母さんとも仲はいいわよ。最近は家にいて、お弁当も作ってくれているんだから。っていうか、お父さんと仲良くなったから家の中の雰囲気がすっごくいいの。いまの菖蒲ヶ原家は家族団らんで、アリのお尻ほどのストレスも感じないわ」

「アリの尻にどれほどのストレスがあるのかわからないけど、だったら原因は他ということになる」

「そういうことかしら」

 昼食後の喧噪で廊下が騒がしくなっている中、二人は考え込んでいた。

「菖蒲ヶ原さんに変身できるというサイキックがあるのはわかった。でも、とりあえず元の姿に戻らないか。もうすぐ昼休みが終わるし、その姿で教室に戻ると騒動になるよ、絶対に」

「そうね。もうそんな時間になっちゃったんだ。お昼を食べそびれちゃったわ」

 ふくよかボデーの雪子が鼻から溜息を吐く。鼻腔内に余計な肉厚があるのか ぴーと間のぬけた音も一緒に漏れ出ていた。

「それで、どうやるのよ」

「なにが」

「なにがって、どうやったら私が元に戻るのかって訊いているの」

「俺は知らないよ。菖蒲ヶ原さんがシェイプなんだかで変身したんだから、自分で元に戻せるだろう」

「まあ、それもそうね」

 ふくよか雪子が真顔になると、気をつけの姿勢となった。大きく息を吸い込み、腹式呼吸にて下腹に気合を込めた。

「はあーーーーっ」

 本人は全身全霊の集中のつもりであるが、客観的に見て女相撲取りがシコを踏んでいる格好であった。しかも、どうしようもないくらい素人である。

「やだ、集中しすぎて、たれそうになっちゃった」

 ぼそりと呟き尻に手を当てた。慎二は素知らぬ顔でノーコメントをつらぬく。あらためて、ふくよか雪子が姿勢をただした。

「ほえーーーーーーーーっ、はあーーーーーーいいいいーーーーっ」

 その様子を見ている者の背中に寒気が走るほど恥ずかしく、どうしようもないほど滑稽であった。

「クッ」湧き上がる爆笑の圧力を真顔で跳ね返す慎二であった。

 ふう、と一息つくと、爽やかなキメ顔を見せた。

「それで、どう。私は元に戻ったの」

「ええーっと、そのう、なんていうか、ふとましい菖蒲ヶ原さんも素敵だよ」

「ヘンな日本語を使わないで。要するに戻ってないってことね」

「どうやら、その変身能力も自分の意志では制御できないみたいだな」

「私たちのサイキックは常にそう。はあ~、ダイエットしなきゃ」

 ため息をつくふくよか雪子の鼻から、ふたたび、ぴーと音が出た。笑いそうになった慎二がサッと顔を逸らし、肩で息をしていた。

「とにかくこのままじゃマズいわ。対応策を練らないと。慎二、帰るよ」

「帰るって、まだ午後の授業が残ってるんだけど」

「この体で私が教室に行けるわけないじゃないの。菖蒲ヶ原雪子のブランド力が落ちるでしょう」

「俺はノープロブレムだけど」 

 薄情な男に重量感のある鋭い視線が突き刺さった。

「わかりました。帰るよ。でも生徒玄関から出たら先生に見つかっちゃうような気がする」

「前みたいにダッシュで走れば大丈夫。こう見えても、私は足が速いんだから」

 足が速いことを証明するために、その場で足踏みをする。あまりバタバタやると床が抜けてしまうのではないかと、慎二は本気で心配していた。

 雪風東高校内に昼休み終了のチャイムが鳴った。生徒たちが気怠そうに、それでいていそいそと各教室に戻る。その中を逆走する男子女子がいた。

 誰もいなくなった生徒玄関へと行き、上履きと外履きを履き替えて外へ出た。以前にも試したことがあり、その際は素早く脱出できた二人だが、今回は女子が遅れていた。職員室の窓を気にしながら、慎二が雪子に寄り添って走った。幸運にも脱走が露見することもなく、二人は学校近くのカフェで一休みすることができた。

「ふー。この体、駆動方式に改善の余地がありね。内燃機関の熱量がありすぎて、ややオーバーヒート気味だわ」

 ふくよか雪子は、カフェについてもなお息づかいを調整している。

「メカニカルな話をする女子は格好いいと思うよ」

 涼しい顔をしている慎二を、連れは不服そうに見ていた。

「これでも、そう思うの」

 重厚な肉体を、キレのあるダンサーのようにブルブルと震わせた。

「いや、そのう、あまりにもセクシー過ぎて目の毒になるよ。とりあえず椅子に座ろう。コーラをおごるから」

「ゼロカロリーにして」

 ふくよか雪子の前によく冷えたコーラが置かれた。さらに追加オーダーとして、クランベリータルトLLサイズ、ダブルチーズチキンサンド、厚切りバタートースト、豚まん、ドーナッツ、特濃ナポリタン大盛りが追加された。

「ゼロカロリーの意味がないような気がするけど。というか、机が足りない」

「この体は燃料消費量が多いみたい。とにかくお腹がすくのよ」

 ふくよか雪子はガツガツとは食わない。毛虫が葉っぱを永遠に食い続けるがごとく、音もなくゆっくりと少しずつ消費してゆく。ただし、その食欲に切れ目はなく、連続した時が流れていた。

 約一時間後、すべてを平らげたふくよか雪子が、ようやく本題を切り出した。

「私がどうして変身能力を身に着けたかは、ちょっと端に置いとくわ。いまはどうやって元の雪子に戻るかが先よ」

「俺たちのサイキックは常に衝動的というか、突然だから、そのうち戻るんじゃないかと」

「あやふやなこと言わないでよ。全然戻る気がしないんだから」

 ふくよか雪子が自覚している通り、変身する気配は感じられなかった。

「こんなに食べなきゃならないのは、楽しいのだけど不都合が多いわ。健康に悪そうだし、水戸さんの仕事が増えちゃうし。はあ~、なんか物足りない」

 すべてを食べ終わってからも、メニュー表をチラチラと見ていた。

「困ったことになっちゃった。このまま家に帰るわけにはいかない」太っちょのトドメとばかりに、砂糖たっぷりのドーナッツを頬張りながら言った。

 ふくよか雪子がスマホを手にする。何度かタップして耳に当てると、慎二に対し意味ありげな目線を流した。

「ああ、お父さん、雪子だけど」

 通話の相手は父親のようである。

「今晩ねえ、彼氏の家に泊まるから」

「ぐへっ」と、氷で水みたいに薄まったコーラを器官に詰まらせてしまう慎二であった。

「そうそう、前に紹介した新条君よ。ほら、もうすぐ試験だから、一緒に勉強しようと思って。あはは、うんうん、うんうん。心配しなくて大丈夫よ。そういうことはしない人だから。あ、それとお母さんにも伝えておいてね」

 二秒ほど真顔になってから、ふくよかな雪子が最新バージョンのスマホを慎二に差し出した。

「お父さんが、あいさつしたいって」

「ちょ、待ってくれよ。聞いてないって。まさか俺の家に泊まるつもりなのかよ」

「この姿で帰れないでしょう。どこの野良デブかっ、てお父さんに叩き出されちゃうわよ」

「いや、でも」

 ケイタイからがなり声が吐き出されていた。発売されたばかりの最新電子機器だけあって、激高する父親の臨場感を余すことなく伝えている。それに触ると火傷しそうなのか、慎二は受け取りをためらっていた。

「ほら、早く出てよ。物書きは気が短いんだから」

「いや、しかし」

 一般的な女子高生よりもだいぶ太めの手が、ほらほらと催促している。仕方なく、その薄っぺらな電子機器を手にとった。

「あ、あのう、もしもし」

 応答はなかった。

「もしもし、もしもし、もしもし、あれえ、だれも出ないなあ」

 通話が途切れたと思った慎二が油断した刹那だった。

「貴様――――っ。雪子の体に指一本でも触れてみろーっ。生きたまま人喰いピラニアのエサにしてやるーっ。マフィアに解体させてやるー。ぐっちょぐちょの、ゲロ、グロ、ゴアにしてやるー」

 ミュートは抑えているはずなのだが、ほぼフルボリュームの怒声が解き放たれた。スマホを耳から遠ざけて、顔をおもいっきり背ける慎二の手から、ふくよか雪子が自分の持ち物を奪い取った。

「お父さん、そういうわけだから。チャオ」と言って通話を強制終了してしまう。なにもなかったかのようにすまし顔で、ゼロカロリーコーラの残り汁をじゅるじゅると啜った。慎二は浮かない表情である。

「なんか、すごい剣幕だったけど。額の血管が切れているのが目に見えるよ」

「可愛い一人娘が冴えない男の家に泊まるのだから、心配して当然じゃないの」

「冴えない男の身も心配してくれませんかね。菖蒲ヶ原さんのお父さんと道でばったり会ったら殺されそうだよ。散歩が不可能だ」

「安心しなさい。やるとなったら、お父さんは徹底的に卑怯よ。すごく汚い手を使うんだから」

「それ、安心できる要素がどこにもないんだけど」

 すべてを食べ終えたふくよか雪子が、よく肥えたお腹をポンポンと叩いて親指をあげた。サムズアップをして満足感をあらしている。慎二が泣きそうになりながらお会計を担当し、二人はカフェを出た。

「ちなみに、いやらしいことを仕出かそうとしたら、殺すからね」

 女の子の宿泊に際し、注意事項の説明を忘れない。

「あはは、それは大丈夫大丈夫。そんな気にはならないから。全然問題なし。まったくナッシング」

「その言い方、なんか癪に障るわね。まあ、いいわ。そうと決まれば、今夜の寝床に行きましょう。あ、それと慎二のご両親にはどう説明しようかしら。考えてみれば、私のお父さんよりそっちのほうが手強そう。とくにお母さま」

「父と母は、今日から旅行に行っちゃったよ。もう新幹線に乗っている頃かと」

「あら、そうなの」

「なんか、あの日以来やたら仲良くなっちゃって。父の仕事が一段落したんで有休をとって、北海道の富良野あたりでワインを飲んで酔っ払うって言ってた」

 ふくよか雪子がふたたび親指を突き出した。ウインクして、さらに笑顔を振りまく。面倒くさい演技やら説明をしなくてはと考えていたが、その必要がなくなったので上機嫌だ。

「レッツ雪子さん。キーーーーーん」

 両手を低い翼のように展開して走り出した。肉量のある女子の疾走はなかなかに迫力があるなと、慎二は感心しながら後を追った。

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