第9話

「ちょっと、どけてくれるかしら」

 そう言われた男子生徒は戸惑っていた。

「あのう、ここは僕の席なんだけど」と言い返した。

「そんなこと知ってるわ。だけど、私はそこに座りたいし、そうするとあなたが邪魔でしょう。それとも、あなたの膝の上にじかに座ったほうがいいのかしら」

 校内一の美女である菖蒲ヶ原雪子にそう言われた男子は、その光景を思い浮かべてしまった。

「チカンよ。痴漢。夜な夜な全裸で歩き回るヘンタイ女よ」

 彼女の言っている意味がわからず、ん、ん? と、男子の目が白黒に点滅する。

「菖蒲ヶ原さん、それは痴漢じゃなくて痴女。てか、ここでなにしてるんだよ。特進クラスじゃないのに、佐伯の席をとるなってさ」

 注意したのは慎二だ。雪子がいちゃもんをつけている男子の後ろの席にいた。

「どっちでもいいじゃないの。あなたは痴漢で、私は痴女。さあ、どうなの」

 相変わらずの意味不明さだが、雪子の態度は居丈高で、威圧されるほど強気だ。仕方なくといった様子で、その男子生徒は立った。

「ありがとう、佐伯君」

 その男子とすれ違う時、体をそうっと密着させて吐息を吹きかけるように礼を言った。

「いやあ、べつに、そのう、菖蒲ヶ原さんに喜んでもらえればいいんで、へへ」

 名前を言ってもらったことと、体を触れんばかりに寄せてもらったのが効いたようだ。佐伯は昼食である母親の手作り弁当を持って、いい気分のまま教室を出て行った。

 空いた席に雪子が座った。後ろにいる慎二に向かって、小悪魔的な笑みを見せつけている。 

「席をとるのにわざわざ大げさだよ。ふつうに頼めば譲ってくれるのに」

「私は、なにかと面倒くさい女なの」

 それは大いに納得できると頷いた。

「それにしても、男を篭絡するのが上手くて泣けてくるよ」

「お礼を示しただけよ。なんなの、嫉妬しているの」

「べつに、そういうことじゃないけど」

 そう言って、慎二は昼食の定番である半焼きそば・半卵サラダパンを齧った。心なしか、目線が下向きになっている。

「ここ最近はずっと無視されていたから、この瞬間が意外というかなんというか。一生口をきいてくれないと思ってた」

「あんなことを仕出かしたくせに、この私が気安く応じると思って?」

「正直言って、申し訳なかったと思っている。ごめん。ほんとにごめん」

 頭は下げなかったが、その真剣なまなざしが心からの謝罪であることを告げていた。

「もういいわ。済んだことだし、私はいつまでも引きずる女じゃないから」

 心が広いのよ、と付け加えつつ可愛い笑みを浮かべる。しばらく気が重かった慎二だったが、心を灰色に染めた緊張からやっと解きほぐされた心境だった。

「今日はそれを言いに、わざわざ二組の教室に来たのか。みんなが見てるけど」

「あなたとお昼を一緒にと思ったのよ」

 クラスのほぼ全員がチラチラと見ていた。雪子は気にするふうでもなく、派手な花柄で包まれた細長のお弁当箱を取り出して、自分の胸の下に置いた。二秒ほど意味ありげな視線を正面の男子に投げつける。

「ひょっとして、それって俺の分とか」

「これは菖蒲ヶ原雪子の手作りお弁当。お母さんではなくて、私が直接、じかに洗っていない生手で作ったお弁当よ。さあ召し上がれ」アニメみたいに両手を差し出て、良き笑顔を見せた。

「なんか、その言い方にあんまし清潔感を感じないんだけど」

「雪風東高校のスーパーアイドル・極上のお姫様が作ったのよ。十二分にきれいなんだから」

「自分のことをアイドルとかお姫様とか言っちゃってるのは、相当に痛い女だよな」

「なによ、ちょっと自虐的な冗談を言ってみただけじゃないの」

 雪子が少しむくれて見せた。その表情がもの凄く可愛く思えて、まんざら痛女でもないのだなと納得する。

「ええーっと、それでほんとうにもらっていいの。このお弁当」

「菖蒲ヶ原雪子の手垢や、あとは雑多な汁が付着しているけど、食中毒にはならないから安心して」

「意味深すぎて清水の舞台から飛び降りられないよ。いちおう、胃腸はあんまり丈夫なほうではないんだけど」

 躊躇する慎二にかまわず、雪子はお弁当を包んでいる布を解いてふたを開けた。

「うわあ、美味そう」

「ほんとだあ。すげえ、いろんなおかずが入ってるぞ」

「きれい。さすが菖蒲ヶ原さんだわ」

「わたし、こんなにきれいに作るのムリ。やっぱり菖蒲ヶ原さんはすごい」

 いつの間にか、二人の周りに四、五人の男女が集まっていた。露わになったお手製お弁当を見て、感嘆の声があがる。

「そうだ。よかったらみんなで味見してくれない。あんまりないけど」

 自分のお弁当を差し出すと、二組の生徒たちはお互いの顔を見た。期待と戸惑いが交錯し、誰も手を付けないまま数秒が経過する。日本人らしく周囲をけん制しながらの遠慮であるが、男子の一人が手を出すと堰を切ったようにいくつもの手が伸びてきた。そして、お弁当箱は、あっという間にカラとなった。

 雪子は、男子のみならず女子にもファンが多い。彼女の手作りというだけで、彼ら彼女らは色めき立つ。味も格別だと賞賛し、お礼を言って解散した。 

「菖蒲ヶ原さんって、意外とめざといというか」

「可愛いだけだったら反感買うでしょう。男子にはもちろん、女子たちにも嫌われないように、いろいろと気を使うのよ。アンチになると面倒だから。当り前でしょう」

 世渡り上手な同級生を、慎二はうらやましいと思った。

 津吉が、自分に与えられたお弁当に手を付けた。初めはそうっと、中盤からガツガツと食べ進む。

「うは、これ美味いぞ。めっちゃ美味い」

 ごくごくありきたりのおかず群なのだが、味は抜群に良かった。

「前にも食べたけど、このたまご焼きは素晴らしい。甘くてコクがあって、しかもふわふわだ。オムレツ、なにそれおいしいの、って感じ」

「ふふ、そうでしょう。菖蒲ヶ原家の卵焼きは絶品なのよ」

 クリっと丸い菖蒲ヶ原の目が細くなって見ていた。慎二は手作りお弁当を完食し、ごちそうさまを言った。

「いやあ、美味かった。いつもパンなんで感動ものだよ」

「そう、よかった。全部食べてくれて作った甲斐があったわ。お礼は高くついちゃったけど、女の子の手作りお弁当をたらふく食べられたんだから文句はないわね」

 聞き捨てならない言葉を聞いて、慎二の目が点になる。

「ええーっと、ちょっとわからないんだけど、いまの話では、このお弁当を食べたことによって、俺が菖蒲ヶ原さんにお礼をしなきゃならないってことなんだけど」

「当然じゃないの。なにかをもらったら、なにかを返すのが当たり前でしょう。人生は等価交換よ」

「いや、そんな話、聞いてない。聞いてないよ」

 雪子が意味深にニヤリと笑みを浮かべて、慎二を見る。

「じつはね、今夜お父さんと大喧嘩するのよ」

「菖蒲ヶ原さんが」

「そう、私が」

 慎二の半焼きそばパンを食べ終えた雪子は、はしたなく指先を舐めてティッシュで拭いた。

「どうして」

「前に話したでしょ。私、お父さんとはうまくいってないの。顔を合わせればケンカになるから、お互いに避けていたんだけど、今晩は一緒に食事をして、そして大爆発なのよ」

「まるで今夜のことがわかっているような」

 そこまで言って、慎二は納得したように頷いた。

「プレコグか。今晩の出来事を予知したということか」

「そういうこと」

 教室内がざわめいている。学食などに行っていた生徒が戻ってきて、特進クラスの菖蒲ヶ原雪子が、クラスの日陰者である慎二とお弁当を食べて談笑している場面を目撃したからだ。

「ここは騒がしいから、外に出ない」

「そうしたほうがよさそうだな。あと、ありがとう。そして、ごちそうさま。思いがけずに美味しいものを食べられたよ」

「何度も言うことないわ。等価交換なんだから」

 等価交換の意味するところを考えながら、慎二は雪子の後に続く。校舎内をつらつらと散歩しながら適当な場所を探すが、どこに行っても生徒の姿があった。

「学校の外に出ましょうか」

「いまからだと、帰りが遅くなるよ。お昼時間はもうすぐ終わりだし」

「午後の授業はサボるにかぎる。だって、甘いものが食べたいでしょう」

「さっきのたまご焼きで満足。十分甘かったから」

「あれはおかずでしょう。私が食べたいのはデザート」

 二人は学校から近いカフェにいた。慎二はブラックコーヒーを、雪子はキャラメルマキアートとアップルパイ、フルーツタルトなどを注文する。

「ずいぶんと食べるけど、太っちゃうんじゃないのか」

「焼きそばパン一つしか食べてないから大丈夫」

「俺の財布は大損害だけど」

 ここは慎二のおごりとなってしまった。

「等価交換とはよく言ったもんだな」

「あら、これは等価交換の範疇に入らないわよ。本番は今夜。あなたには汗をかいてもらうから」

「ええーっと、まさか親子喧嘩の仲裁をさせられるとか」

「そのまさかね」

 慎二は、ぬるくなったコーヒーを飲み干した。トイレが近くなるので少なめサイズだったが、トールにしておけばよかったと後悔する。

「とにかく、親子ケンカがすっごく盛り上がるのよ、悪い意味で。それで頭にきたお父さんが、私を家から追い出すの。いえ、その言い方は正確じゃない。叩き出す、っていうのが本当ね」その言葉を吐き出すときは険しい顔になった。 

 話がややこしくなりそうなので、さらなるカフェインで頭の中をスッキリさせ、ついでに糖分を補給し持久戦に備えたいと慎二は考えた。追加を買ってくるのでいったん席を離れることを相手に告げると、ツナミモレットチーズサンドを頼まれて、まだ食べるのかと呆れてみせる。結局、サンドイッチだけはなくて、レアチーズケーキまでおごらされてしまう。

 慎二はカプチーノをちびちびと飲みながら話を進める。

「それで、菖蒲ヶ原さんはどうなるんだ」

「とうぜん路頭に迷うことになるわ。可哀そうに、小雪がちらつく夜の寒空の下、雪子は肩をすぼめて街をさ迷い歩くの。まるでマッチ売りの小公女よ。涙なしでは語れないわ」

「まだ十分に暑い季節だけど。てか、いろいろ盛ってないか」

「なによ、想像力にかける男は地下を歩きなさいよ、えい」

 雪子は卓上にある砂糖の瓶をもって、これでもか、という量をカプチーノに注ぎ込んだ。

「あ、ちょっと、なにするの。それは入れすぎだって。ただでさえ甘いのに、これじゃあアリだって持て余すよ」

「モハメド・アリは偉大なボクサーだったわ。ねえ、知ってる?金やプラチナは超新星爆発ではなくて、中性子星同士の衝突で造られるの。重い元素って、恒星の爆発ぐらいでは生成されないのよ」

「いきなりなんの話なんだ。ボクシングと天体物理学が相容れないって」

「とにかく、あなたは今晩私の家に来て、父と娘のケンカを仲裁するということ」

「いやいや、ちょっと待って。それって、ものすごく難易度が高いんじゃないか。菖蒲ヶ原家に関係のない一介の高校生がのこのこ行っても、絶対に取り合ってはくれないし、場合によっては、俺がひどいことになりそうな気がする」

「大丈夫よ。お父さんは作家といっても空手三段で、性格は温和なサディストだから」

「全然大丈夫ではないだろう。行かない、俺は行かないからな」

 空手の有段者にボコられている自分を想像して、慎二は頭を振る。

「いいえ、来るのよ。それは決まっていることだから」

「ひょっとして、俺が菖蒲ヶ原さんの家に行って、親子喧嘩を仲裁している未来を予知したのか」

 その問いに、雪子は微笑をもって答えた。

「それと、あと五秒ほどで慎二の担任がここに現れて、いろいろと面倒なことになる」

「えっ」

 慌てて周囲を見渡すと、ちょうど入口からやってきた担任教師と目と目が合った。

「おい、新条。なんでおまえがここにいるんだ。いまは授業中だろうが。サボりとはいい度胸だ」

 スポーツ刈りで細めのグラサンをかけた担任教師がやってきた。一見して触るな危険、そのスジの人と見紛うほどの危険臭を放っているが、れっきとした教師である。

「いや、これは、そのう、違うんです」

 見苦しい言い訳を試みるが、十数秒後、慎二は連行されるに至った。菖蒲ヶ原は、とくに注意されることもなく放置である。 

「放課後、校門で待っているから」

 担任の後ろを歩く新条へ、そう言い放った。一緒に帰ろうという意味だと悟り、それが吉なのか凶なのかは後になってからわかるのだ。

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