第38話 断罪と赤い林檎

 床に平伏す日暮をぼんやりと見下ろしながら、あらゆる感情でぐちゃぐちゃになっている脳みそを懸命に働かせようとする。彼女は断罪を求めた。当然だ。それだけのことを俺たちにしたのだから。彼女の語った事情を聞けば、その行動の道理を理解することはできる。できるが、納得できるかはまた別問題だ。なにせ、存在しない罪を理由に裁かれようとしていたのだから。見当違いの暴走に振り回されて、結局俺は悠馬との友情を失うはめになった。恋が終わったのだ。とうてい簡単に許せる話ではなかった。


「それで、どうするっすか?」


 左近寺が昼間、ピニャ、俺の順に視線を送って問いかけた。

 ダメだ、全然頭が回らない。とち狂って「死刑!」とか言いそうである。それはさすがに司法が許さないし、やりすぎだ。うんうん頭を悩ませていると、すでに考えをまとめていた昼間がよく通る声でペナルティを言い渡す。それはかなりのゴリラ的正義執行だった。


「一発殴らせて。それでチャラでいいよ。ぼくはね。ついでに片瀬と犬神も殴っときなよ、腹立つでしょ」

「もち、いかせてもらいます」

「あ、ああ、そうだな」

「はい、可決。じゃあ執行します。日暮、そこに立って歯を食いしばるっす」


 流れるように手筈が整い、ホワイトボードの前に立たされた日暮が目を瞑って断罪を待つ。ポキポキと指を鳴らし、準備を整えたトップバッターの昼間が、思いっきり腰の入ったグーパンを鮮やかな手並みでみぞおちに突き刺した。

 バトル漫画みたいな一撃である。

 本気じゃん。すげぇな、おい。

 くの字に体を折った金髪お嬢様が床に崩れ落ちる。

 鼻を鳴らして昼間は吐き捨てた。


「ぼくを利用しやがって。犬神よりおまえの方がよっぽど信用できないよ」


 金井がニコニコ笑顔で拍手している。左近寺も満足げに頷いていた。

 俺はちょっと引いていた。想像よりガチだった。

 しばらくして、咳き込む日暮がふらふらと立ち上がる──その瞬間目掛けて、待ってましたと言わんばかりにピニャのグーパンが鼻っ柱にぶち込まれる。よ、容赦ねぇ。折れたらどうしようとか考えないんだ。さすがピニャ。思い切りが素晴らしい。


 片瀬の一撃を受けた日暮は後方へ頭から吹き飛んでホワイトボードにドンガラガッシャンと衝突した。鼻血は出ていないようだが、鳶色の目は涙で潤んでいるし、鼻付近が真っ赤に染まっている。尻餅をついて鼻を押さえる彼女を見下ろして、ピニャが睨みを利かせて言い放つ。


「最低! くず! 簡単に許してあげないから! 二度とハチに酷いことしないで!」


 うきうき肩を弾ませてチンパンジーみたいに喜ぶ金井と左近寺。ヒーローショーとか好きそうだね。

 さて、俺の番である。

 ゆらゆらと立ち上がった日暮が真面目な顔で目を閉じて直立した。状況が異なっていたならば、キスをねだられているように見える綺麗な立ち姿だ。長いまつ毛が影を落とし、ふっくらとした唇がゆるく結ばれている。


「やったれ、ハチ!」

「遠慮するなよ、犬神」


 ピニャと昼間の檄が飛ぶ。


「奥歯飛ばしたれ!」

「ケジメつけさせるっすよ!」


 続く金井と左近寺の声。

 ……顔はマズいよな。女の子だし。いや、そんなことどうでもいいか。俺は被害者でこいつは加害者。裁かれて然るべき相手。遠慮をする必要などない。……けどなぁ、抵抗感あるなぁ。暴力って嫌いなんだよ。……適当に肩あたりを殴って終わるか。


「ハチくん」


 迷った末に殴る場所を決めた俺が拳を振りかぶった時、鳶色の瞳が真っ直ぐこちらを見て、日暮奈留は言う。


「顔面グーパン全力で」


 透き通るような声で言い渡された指示に迷う思考が吹っ切れた。

 犬神湾太郎、行きます!


「──ぶっとべ、メスブタっ!」


 奇しくも、ピニャと同じ場所に俺の全力パンチが着弾した。

 ふたりの友情パワーで日暮の鼻梁びりょうが破壊される。

 再びホワイトボードに吹き飛んだ彼女の鼻からスプリンクラーのごとく赤い鮮血が舞った。


「「「「おーっ!」」」」


 打ち上げ花火のどでかい一発を見た時のように感嘆の声を漏らす四人の観客。まばらに拍手をして、美しく決まった俺の一撃に心からの賛美を送ってくれていた。いやいや、さすがにちょっとは心配してあげようぜ。そう考える俺は甘いのだろうか。

 誰も助けに行かないので、仕方なく、鼻を押さえて地面にへたり込む日暮のそばへ寄ってポケットティッシュを差し出す。


「ほら、制服に着くと面倒だぞ」


 俯いているので、日暮の顔が見えない。

 しかし、ガラス細工のようにほっそりとした肩は小刻みに揺れていた。

 さすがに泣いてしまったようだ。


「──ぐ、ぐふっ、ぐふふ」

「え?」


 小さく鳴るねっとりと湿り気のあるサブイボが立つような音。

 耳を疑った。

 まさか、笑い声じゃないよな。こんな状況で笑わないよな。

 日暮が鼻血でべちゃべちゃになった陶磁のような顔を上げる。鼻をティッシュで押さえてはいるため、顔半分が隠れている状態。口元は見えない。それでも、俺は気付いてしまった。勘づいた。三日月のように歪んだ目の奥にある瞳がうっとりとした熱を帯び、透き通るような白い頬が赤い林檎のように色付いているのを見て確信した。

 こいつ、


「ああ、辱められている。虐げられている。ふ、ふふ、ふふふ、ぞくぞくするわ」


 変態じゃん。

 早急に、くぐもった笑い声を漏らし、ぶつくさ呟く変態金髪マゾ女から離れる。

 どうやら俺以外は変態の出現に気付いていないらしい。

 確かに、こうして離れてみれば、肩を震わせて悲嘆に暮れているか弱い少女にしか見えない。何やらぶつぶつ言っているが内容までは聞き取れないし、あの不気味な笑い声も呼吸を乱して喘いでいるように聞こえる。あそこまで接近したから分かったのだ。あの表情を見たから理解できたのだ。


 学業運動ともに優秀。美人でスタイルもよく、立ち振る舞いも優雅でいて美麗。物語の中のお姫様がそのまま現実世界に飛び出してきたかのような美少女の正体は、鼻を殴られ血を出し喜ぶ、まさかの変態マゾ女だった。

 こんな奴に俺は追い詰められていたのか。屈辱だ。


「取り乱してごめんなさい。次のペナルティは何かしら」


 しばらくして、鼻血が止まり、落ち着きを取り戻し、いつも通り完璧美少女の姿に変貌したマゾが、毅然とした表情で円卓を見渡す。俺の頭はただでさえ熱を持つほどグチャグチャだったのに、日暮の意外な一面を知ったせいで、さらに訳がわからなくなってしまっていた。こんな状態でペナルティなど考えられるはずもなく、沈思している間に、先に考えをまとめたピニャが声高らかに託宣を告げる。


「あたしからのペナルティは悠馬に一ヶ月接近禁止!」

「一ヶ月だけでいいんすか? どうせなら永遠にしてもいいんすよ」


 左近寺の問いかけに腕を組んで唇を尖らせた片瀬が答える。


「それをしたらひぐっちとやってること同じになっちゃうじゃん。あたしは正々堂々みんなと戦って悠馬を勝ち取るつもりだから。盤外戦術で誰かを蹴落とすなんて論外。だけど、今回したことはものすごく腹が立つから一ヶ月は近づかないでもらうの」

「なるほど。片瀬らしいっすね」

「いいじゃん、ぼくもそういう考えの方が好きだ。面倒な企てをする誰かさんと違って」


 ちくりと刺すような昼間の合いの手に日暮の肩がぴくりと揺れる。みんなは毒づかれたことで彼女がショックを受けていると思っているのだろう。変態マゾな一面を見てしまった俺から言わせれば、たぶんこいつは昼間からの口撃を喜んでいるんだと思う。そう思えて仕方がない。ああ、完全に日暮を見る目が変わってしまった。


「昼間からのペナルティは体罰、片瀬からのペナルティは一ヶ月の接近禁止。さて、ハチ、あんたはどうすんの?」


 いつの間にか横に並んでいた金井がそう言って俺の肩に手を乗せる。

 うわー、どうしよう。日暮、マゾだもんな。むしろ今までのペナルティとか喜んでそうなんだが、ちゃんと罰になっているのか。ややこしい。どうすりゃいいんだ。こちとら悠馬に振られて傷心なんだぞ。まともに思考なんて回らないんだ。そこにこんなノイズが加わったら脳みそパンクしちまうよ。ダメだ、何も思いつかない。

 目を回して立ち尽くす俺に助け舟を出したのは、まさかまさかの日暮だった。

 流れるように彼女は語る。


「私がハチくんにしたことはとてつもなく罪深いわ。下着泥棒という不名誉な濡れ衣を彼に着せ、昼間さんからの信頼を失墜させ、片瀬さんとの友情を引き裂いて、彼の秘めていた恋愛嗜好を開示させ、彼の恋を終わらせて、何も悪くない彼に土下座までさせてしまった。そう簡単にペナルティが思い浮かばないのも当然よ」


 だから、と彼女は言葉を継ぐ。


「ハチくんの言うことを何でもひとつ、聞き入れる権利を彼に渡したい。彼が手塚くんのことを諦めろというのなら涙を飲んで従う。金を用意しろというのなら実現可能な範囲で準備するわ。それで私に償わさせてほしい。こんなペナルティじゃだめかしら?」


 日暮の提案は問題の先送りだった。だが、その提案は今の俺にとってありがたい限りだ。喜んでその進言を呑んだ。こうして、日暮奈留への断罪は終わりを迎えた。 

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