第33話 友情の終わり

 人影のない廊下に六限目開始のチャイムが鳴り響いている。

 授業をすっぽかしていることに気付いているのか、いないのか。一心不乱に足を進めるピニャはどこまでいくつもりなんだろう。まるで意味もなく校舎をぐるぐると回っているようにさえ思えた。そしてその姿は何かから逃げているようにも見えた。そこにあるはずの彼女の背は、実際の距離以上よりもずっと遠くにあるように思えた。


 階段を最上階まで上がって扉を開く足どりは重い。

 結局、彼女が最終到着点としたのは、曇天に陰る屋上だった。

 今にも雨が降り出しそうな空模様だ。

 屋上に立つ片瀬が目をゴシゴシと擦ってから振り返る。

 泣き腫らした瞼が赤に染まっていた。


「……ハチは、あたしを、利用してたんだね」


 寂しげに呟く彼女の声が鼓膜を打つ。

 その音を聞きながら、俺は考えをまとめていた。

 先ほどの出来事から、いま自分が置かれている状況を予想する。


 俺のカバンから出てきた黒のショーツ。

 スカートの下にジャージを履いていた昼間の姿。

 日暮が下着を発見した時に昼間が見せた怒りの形相。

 三つのことから、昼間のパンツが何者かの手によって盗まれていたことがわかる。そして、その犯人を予想する中で、体育の授業中、離脱して、姿をくらませていた俺に白羽の矢が立ったのだろう。もちろん、冤罪だ。しかし、それを証明する術はない。決定的な物的証拠として、黒のショーツが俺のカバンから出てきたからだ。言葉でなら何とでも取り繕える。やってないと声高らかに宣言することなら簡単だ。けれどそれは無実の証明たりえない。たとえば血のついたナイフを持った人間の前に腹を刺された人間が倒れていたとして「俺は刺していない」と弁明されても到底信じられないだろう。決定的な証拠が、どういうわけか、俺のカバンから姿を現した。その時点で俺は詰んでいたのだ。


 でも。

 それでも。

 信じてもらえないかもしれないけど、俺はピニャに言わなければならない。

 彼女には信じて欲しいから。

 俺の無実を知って欲しいから。

 下唇を噛み締めてスカートの裾をギュッと握りしめる彼女に俺は懸命に弁解した。


「違う、ピニャ。俺はやってない。お前だって知っているだろう? 俺はもう昼間のことが好きじゃないって。別の人が好きなんだ。俺は男が好きなんだよ。そんな奴が女子のパンツを盗むか? 状況的には俺以外に犯人は思い浮かばないかもしれないけど、冷静に考えれば他にも──」

「──うるさいっ! もういいっ! もうやめてっ!」


 俺の言葉を遮るように片瀬が声を荒げた。

 彼女の顔がくしゃりと歪む。自嘲するような自責するような、それでいて悲哀に心苦しむ表情だった。

 もはや俺と彼女の間に信頼はなかった。友情はなかった。大きな溝が二人の間に横たわっていて、どれだけ言葉を投げかけたとしても、そのすべてが谷底へ転がり落ちていってしまう。対面して分かる。はじめてピニャから拒絶を感じた。敵乱心を宿した瞳が俺を真正面から射抜いていた。


「……本屋さんで、あたしと会った時、あのときに騙そうって思いついたの? あたしが本屋にいるのを見つけて、わざとBLコーナーで話しかけられるのを待っていたの? 男が好きだって嘘ついて、浮かれて信じ込むあたしを見て馬鹿みたいって心の中で笑ってたの? 思惑通り、また昼間さんに近づけて嬉しかった? あの子と話せて幸せだった? 悠馬への友情なんてはなからないのに、そう装ってあたしたちを騙して楽しかった?」


 一気呵成に畳み掛けてくる彼女の言葉には、この一瞬でとうてい咀嚼し切れないほどの複雑な感情がこもっていた。

 怒りに歪む眉の下、桜色の瞳からはまた涙がこぼれ落ちている。

 俺は必死で彼女の間違いを訂正しようとした。


「違うっ! 違うんだ、ピニャっ! 俺は本当に男が好きで──」


 けれど、やはり、俺の言葉はいまのピニャには届かない。

 熱せられた鉄板に水を垂らしても蒸発してすぐ消える。

 怒りに湧き立つ心に届く言葉などありはしない。

 苛烈に燃える眼光、少女は叫んだ。


「──じゃあ、誰が好きなの!? 結局あなたは一度も好きな人を教えてくれなかった! 何度聞いても適当に誤魔化して、あたしが協力してあげるって声をかけても全部うやむやにしてた! ねぇ、本当にそんな人いるの。本当に男の人が好きなの? 嘘じゃないんだったら、あなたの好きな人をあたしに教えてよ。昼間さんが好きじゃないなら、本当に好きな人をあたしに教えて!!」


 肩で息をする片瀬は俺の答えを静かに待っていた。

 迷う。

 俺は悠馬が好きだ。

 けれど、ピニャも悠馬が好きだ。

 もし、その事実を知った時、彼女がどのような反応を示すのかがわからない。

 不快に思われないだろうか。嫌われてしまわないだろうか。

 俺は、家族以外で唯一、男が好きな俺を理解してくれた彼女に疎まれることを恐れていた。いや、事ここに至って、そのようなことを考えること自体が間違いなのかもしれない。俺とピニャの友情は、このまま何もしなければ、崩壊してしまう。だとするならば、意を決して彼女の望む通り、本心を伝えるべきなのかもしれない。

 覚悟を決めた。

 もはや手遅れに見えるふたりの関係を、それでも諦めたくなかったから。

 フーディーの裾で涙を拭いながら俺を見つめるピニャに告げた。


「……俺が好きな人は、お前の好きな人と同じだ」

「……どういうこと?」

「俺が好きな人は、……つまり、……手塚悠馬なんだっ!!」


 桜色の瞳が見開かれる。

 数瞬、空白の時間が生まれた。

 俺の告白を飲み込むための時間。

 互いの息遣いが聞こえてしまいそうな静寂があった。

 停止した時間を破ったのは、片瀬が歯を噛み締めるギリリという音だった。


「──ふ、ざ、けるなぁぁああ!!」


 プラチナピンクの髪を振り乱して吠えたピニャが猛然と俺に詰め寄った。

 胸ぐらを掴まれる衝撃にのけ反る。

 体を持ち上げられて踵が浮いた。

 転げないように爪先で踏ん張る。

 ギラつく双眸が正面から俺を睨めつけた。

 シャツの襟が喉につっかえて苦しい。

 けれど、彼女の手を払いのけることなどできるはずがなかった。

 怒りに震える唇が、いつも通りの声音で、言葉を紡ぐ。

 それはきっと、ピニャが最後に見せた優しさだった。


「……そんな嘘つくなんて、酷すぎるよ、ハチ」

「嘘じゃない」


 失望。諦観。


「……」


 握りしめられていた少女の手が襟首から外れる。

 俯く彼女の顔は見えない。

 言葉を探す。

 なにか、なにかないのか。彼女の心を繋ぎ止められる言葉は。

 ここままだと俺は大切な友人を失ってしまう。

 理解者がいなくなってしまう。


 黙りこくっていたピニャが顔を上げた。

 怒りに歪む形相。けれど、俺にはその顔が、涙を必死に堪えているように見えた。その表情を見て、俺は言葉を失った。何も言えなくなっていた。この場でこれ以上の言葉を重ねてもすべてが無駄だと感覚で理解した。

 風切音が鳴る。

 片瀬の右手が俺の頬をビンタした。


「……信じたあたしが馬鹿だった」


 俺の横をすり抜けて、彼女は屋上の扉へ向かう。

 呆然と立ち尽くす俺に向かって、片瀬比奈は静かに告げた。


「──友達だと思ってたのに」


 曇天の日陰に冷えた金属扉が、その重みに軋みながら閉まる、不快な音が響く。

 ぽつぽつと、大粒の雨粒が落ちて頬を打った。

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