第2話 彼は誰時(かわたれどき)
ポツ……ポツ……、パタパタパタ……。
まだ夜が明けきらぬ刻限、孤独を数えるように雨が戸板を叩いている。
ポツ……ポツ……。
規則的な雨音は止むことがない。
寝返りをうち、そこには存在しないはずの亡霊の姿を追い求める。
ナカテの息遣いだけが現実へと彼女を押し留めた。
呼吸音を抑えるナカテは起きている。きっと、声をかけるべきかどうかなどと、どうでもいいことで頭を悩ましているのだろう。
「めんどくさい……」
あきらめて起き上がったとき、夜鳴媛がつぶやいた言葉はそれだった。
それは、天祥の態度がひどいとか、悲しいとか。そうした甘えた感傷からくるものではなく、ウジウジする自分に呆れたからだ。
寝室の外は薄暗く、ともに眠るナカテ以外、使用人はまだ来ていない。
パタパタパタ……、ポツ……ポツ……。
彼女の母が天祥の母を刺し殺した理由は何だったのか、どうどう巡りのように繰りかえし考えた。
知っていることは少ない。
二十五年前に殺人を犯した母は、二十一年前に夜鳴媛を産み、その後、火刑に処されたということだけだ。
ことだけという言葉に、彼女は口を半ば開いた。
なんという血生臭く、腐敗臭さえ漂う、穢らわしい生涯だったのか。
夜の
暗闇の地平線に、ほんのりと陽がさしはじめる
白い靄が戸口のすきまから忍び寄ってきた。
夜鳴媛の横顔がほんのりと、何かの光源によって浮かびあがる。
白い夜着を着崩した姿は夢幻のようであり、優美な容貌は、いっそこの世のものとは思えないほど、さえざえと美しい。
──待ちわびている。
空間の亀裂から魔性の声がする。
これは……、天祥の念話ではない。あきらかに異質なものであって、天祥から伝わった温もりなど微塵も感じない。
天祥は一見冷たいが、実際は不器用なほど愛情深く、それゆえに孤独で寂しい人間だ。
聞こえた声は低く深くしゃがれているが、自信にあふれ、人を惑わす妖魔的な色気があった。声で魅了し惹き込むような。こういうのを魔性というのだろう。
──誰?
ぼうっとした薄暗闇に、白く骨ばった手があらわれる。
手はすうっと伸び、次に腕が……。それらは筋張ってはいるが滑らかで、肌は青白く、そして、徐々に人の形へと
彼女と同じ銀色に近い薄い青髪。
ぼんやりとはしているが、全体的には優美で均整のとれた姿形。
喉が塞がれてしまったかのように、声がでなかった。
何か言わなければと焦る。このままでは得体の知れぬ者に魅了され引きずり込まれてしまう。
夜鳴媛は唇を強く噛む。と、一滴の血がしたたり落ちた。
その痛みに声が漏れた。
「去れ!」
異形のものは、かき消えていた。
夢なのか、現実なのか。単に幻想だったのかと思う一方で、これは現実だと感じ、全身が震えるほど恐ろしくもあった。
室内に光が漏れはじめた。
もう夜明けなのだ。
夜鳴媛は立ちあがり、
庭には奴婢だろうか。頬かぶりをした老婆が庭の雑草をむしっている。まだ、夜が明けてもいないうちから働きはじめたようだ……。
「夢にちがいない……それとも、何かがわたしを誘っているのか」
その正体を知っていると確信した。
斎宮で教わった敵、ジンなのだ。ジンは普通の怪異とは違い、知性を持っている。
『人でもあり、神でもある存在』と、師匠は言った。『それがジン』
『なぜ、ジンを倒す必要があるの』
『災いをもたらす、人とは相容れない存在だからです』
ジンが襲ってくる。
その時、天祥と再び戦いの場に赴くのだろうか。
彼が記憶を取り戻したことによって、夜鳴媛は
ジンの血をもつ夜鳴媛が『神巫』の資格を持ってしまった。ジンを封じ込める存在である一方、天祥の敵であるのかもしれない。
母がジンの子である夜鳴媛を産んだのは、魔性の存在を愛していたからだ。天祥への暗示は夜鳴媛を守るためだろう。
──わたしを深く愛するよう、彼は幼いころに運命づけられ、仕向けられてきたのだ。
「あああ、もう、嫌になる」
その声に応えるように
眠れぬ長い夜が終わったようだ。
半刻もすれば第一太鼓が鳴り、夜と昼の門番が交代し、侍女たちが朝食や着替えをもってくる。
そうやって屋敷全体が活気を帯びていく。
権勢を誇る
斎宮にいる頃よりも食事も待遇もよくなったが、ただ、それだけのことだ。
そっと、戸板を開けた。
「媛さま?」
背後から声がした。ナカテの眠りは浅く、ちょっとした物音ですぐ覚醒する。子どもの頃から武芸を仕込まれ、身体に染み込んでいるのだ。
「ナカテ、まだ早い。眠っておれ」
すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。
外では人びとの日常がはじまろうとしている……。
先ほどの老婆ひとりが笹を刈り、池に落ちた木の葉などを取り除く雑役をしているだけだ。
夜鳴媛は夜着のうえに頭から薄い
「そこのもの」
自分では優しいつもりだったが、その意図はまったく伝わらなかったのか。
声をかけた老婆は、とっさに平伏した。貴人から直に声をかけられる立場にない身分だ。卒倒しそうなほど怯えさせたのかもしれない。
「この屋敷で、いつから働いておる」
「……」
「怯えずとも良い。答えよ」
老婆は声がでないようだ。よほど、恐ろしいのか。どうしたものか、もっと近づくか。あるいは、菓子でも渡そうか。
迷っているとナカテが隣りに起きてきた。
「媛さま、何をなさっているのです。あのもの、声も出ないほど怯えていますよ」
夜鳴媛はナカテを無視して、優しげな声で問うた。
「そなた、ここには長いであろう」
地面に額をつけたまま老婆は返事をしない。それを見たナカテは首をふっている。
「わたしが聞いて参ります。まったく急に声をかけるなど、年老いた者を殺すおつもりですか」
「そんなに、わたしは怖いか」
「怖いです。では、わたしが聞いてきましょう。幼い頃から奴婢ならば、事件を覚えているでしょうし。ともかく、なかにお入りください。そんな、あられもないお姿で、わたしが恥ずかしゅうございます」
夜鳴媛が室内に戻ると、老婆はさらに深く叩頭した。
(つづく)
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