第7話 彼の作られた記憶




 天祥の全身を無惨に切りきざむ刃の数々……。


 その傷ついた痛々しい姿に、夜鳴媛は無意識に涙ぐみながら、刃を一本づつ慎重に取り除き、傷口を、『癒しの祝福』で止血していく。


 山奥深く、彼女の手から発する青白い光が闇のなかで輝いていた。


「天祥……、なんて愚かなことをしたの。あなたは、わたしを泣かせているのよ。わかる? 天祥……、死ぬなんてけっして許さない。そんなことをしたら、わたしが冥界まで追っかけて殺してやる。だから、目を覚まして、天祥……、こんなことは耐えられない。耐えられないの」


 夜鳴媛は神巫かんなぎとして気高く生きる術を学んだが、頼むという経験はなかった。

 彼女は生まれてはじめて必死に懇願した。


 どれほどの時が過ぎただろう。

 止血をすませ、治療を終えた後も、天祥は昏睡したまま、いっこうに目覚める気配がない。


 いつの間にか、夜が明けようとしていた。


 一条の光が広場に降り立ってすぐ、清らかな空気を射るように、金色の筋が何本も地上を照らした。

 朝靄あさもやが、陽光を得て宝玉のようにキラキラと輝く。木の葉の一枚一枚に光があたり、あざやかに緑をきわ立たせた。


「天祥、夜が明ける。あなたが守った世界は、……こんなにも美しい」




 夜鳴媛が必死に祈りを捧げても天祥は昏睡したまま。全身は傷だらけだが、致命傷となるものはなかった。


 だからこそ、何かがおかしいと感じた。


 結界をはる前、ふたりは互いに心を解放し精神でつながった。彼がひとりで耐えてきた孤独や苦しみを知ったのだ。


 そして、今、血まみれの無防備な姿を晒して、疲れ果てた天祥は、もうこの世には未練がないように思える。


 ──可哀想な人。


 彼のこれまでの過酷な過去を癒してやりたいと思う。辛い過去の痛みを忘れさせ、幸せで満たしてやりたい。

 こんな感情は愚かなものにちがいない。

 人がほかの誰かを癒せるなど、思い上がりにすぎないだろう。


 それでも、と彼女は思う。

 愚かでもいいから、もう一度、彼の愛にあふれた目で見つめられたい。


「そうでしょう、天祥。お願い、わたしに後悔などさせないで。お願いだから……、目を開けて」


 天祥は、まるでいっさいを拒否するかのように目醒める様子がない。


 なぜだろうか?


 この昏睡は、どこか異様だ。

 数刻をむだに願い、拝み、祈り、はじめて身体の傷ではなく、彼の精神が傷ついてしまったのだと気がついた。


 出会ったときから、天祥の自分に対する愛情は深かった。

 なぜ、初対面に近い彼女を命に代えて守ろうとしたのか。それは義務という言葉で説明するには足らず、愛というには過剰で、彼を縛る強い執着に思えた。


 彼の精神にある葛藤が、目覚めを阻害しているのかもしれない。


 戦い前、彼女はひとつの感情に触れたことを思いだした。


 ──わたしを深く愛するよう、彼は幼いころに運命づけられ、仕向けられてきたのだ。


 そう感じた理由を彼女は自分でも説明できない。


 天祥のまぶたを開く、彼の瞳孔は開いたまま、その様子は意識をもたない傀儡くぐつのようだ。


 彼女の内にある霊的な感覚が揺れる。


 ──彼が抱える精神の傷を癒すことができれば、あるいは、この昏睡から目覚めさせることができるかもしれない。


 夜鳴媛は決心すると、口のなかで呪文を唱えた。


 手のひらから、かすかな光がこぼれ落ちていく。まるで夜空に散った星々のように、いくつもの小さな輝きが、彼の胸にそっと降り注いでいく。

 冷たく乾いた血の衣に、その傷ついた身体に、光は浸透するように染み込んでいく。


神巫かんなぎの命において、汝の、心のうちを開け」


 次の瞬間、彼女は天祥の精神世界に入っていた。


 そこには、空っぽの暗闇しかなかった。

 周囲を見渡し、一歩を踏み出すと、水の音がする。

 足もとが水盤になっており、浅く水で満たされていた。


 闇に目が慣れると、大きな水玉があちらこちらに浮かぶのが見えた。

 

 ──これは心象を形にしたもの。ひとつひとつに彼の記憶があるようだ。


 彼の記憶の水玉。ひとつの水玉には幼い天祥が遊んでおり、彼女に向かって笑いかけてくる。しかし、その笑顔はどこか歪んでいた。


 ──これは……、この記憶は歪だ。もしかすると、植え付けられたものかもしれない。何かの作為があって、記憶が改竄されている。本物の天祥の心はどこにあるのか。この幼子の笑顔の向こう側、さらに奥底へ。


 夜鳴媛は足もとの水盤の、さらに下へと身体を沈ませる。


 一筋の光に守られ、水盤の……、下へ、下へ、下へ、潜っていく。

 

 あらたな水盤の上に立っていた。

 そこでは水玉ではなく、水滴がポツン、ポツンと落ちてくる。

 水滴のひとつひとつに天祥の記憶が封じ込まれていた。


 ──これは古い過去の記憶。誰かに封印されている。


 夜鳴媛は手のひらを差し出す。

 ポツン、ポツンと水滴がたまって、記憶の水脈が形造られる。


 水滴を潰すと、封印された記憶が開き、黒く淀んだ世界が色づいていく。かつて天祥のことを無色透明で、人としての存在感が希薄だと感じた。

 これが、その原因なのだろうか。


 ポツン……。


 彼女は産室にいた。

 若い女が髪を振り乱して悲鳴をあげている。ヒー、ヒーという声が喉もとから絞り出すように漏れていた。


「もう少しです、御内室さま。赤児の頭が見えております。もう少しにございます」


 汗にまみれた女は悲鳴のような声で叫ぶ。手にもった紐にすがりながら、必死にいきむ。と、赤児がついに生まれでた。


「男児にございますよ。ほんに、おめでとうございます」


 赤児はうぶ声をあげていなかった。ただ、目が何かを捉え訴えている。

 夜鳴媛はその視線の先を見て慄然とした。


 人びとの背後で、ひっそりと様子を伺う、美しいが冷酷な顔をした女が立っていたのだ。


 見間違いようがない。

 それは、彼女がかつて斎宮の幻で見た彼女の実母だ。


 ──なぜ、母が天祥の誕生の場にいる。


 母はそうっと背後から忍び寄ってきた。

 その手には短刀が握られている。


 しかし、奇妙なことに誰もその様子に頓着しない。


 ──誰か、母を止めて!


 思わず彼女は叫んだが、その声は誰にも聞こえない。ここは消された記憶の底なのだ……。


 母親が天祥の母の胸に刃を突き立てた。

 周囲の誰も止めない。まるで、それが正しい行為のように見守っている。


「ぎゃっ」と、激しい声をあげ、天祥の母は息絶えた。


 ──これは……。


 夜鳴媛は震える手で口をおおった。

 天祥を救うために入ったはずの彼の精神界で、もっとも残酷な秘匿された記憶に触れてしまった。


 記憶は空間を昇り、空っぽの彼の心を満たしていく。


 ポツン、ポツン、ポツン……。


 誰かが作為的に嘘をつく。

 実母は産褥で亡くなったと彼に植えつけ、赤児に残った記憶を消し去った。


 その上で、いつわりの記憶を上塗りしていく。


 記憶には夜鳴媛の母の姿が鮮明にあった。

 声が聞こえる。声の主は彼女の母のものだ。


「天祥、あなたがすべての心を捧げ、自分の命以上に愛すべき子がいます。母の願いを聞いてくれるわね」

「はい、養母さま」

「これから産まれてくる神巫を、あなたは莲氏れんうじの子として、命に代えても愛し守りぬきなさい。それがあなたの唯一の使命よ」


 四歳の天祥が養母を見つめている。彼女は妊娠していた。


「それは、どんな子なの」

「あなたが愛する運命の子よ」

「わかりました、養母さま」

「いい子ね、天祥」


 母の顔は夜鳴媛に似ていた。


「その子は、どこにいるの」

「もうすぐ生まれる」

「待ち遠しいな」


 天祥は自分の母を殺した女の腕のなかで、偽りの笑みを浮かべる……。


 彼の封じ込まれた記憶が解放されていく。

 ぞっとした彼女は、その場から逃げるように呪文を唱えた。



 

 現実世界に戻ると、さらに陽は高くなっており、鳥たちのさえずる声がした。

 その鳴き声が聞こえないほど、夜鳴媛は衝撃を受け、全身の震えを抑えることができない。


 天祥は……?

 彼女の白い衣に沈むように横たわっている。


 血の気が失せ、蒼白だった顔が、かすかに色をおびはじめた。彼の身体に血が通う様子を、夜鳴媛は哀しみと共に見つめた。


「目覚めて」


 彼の胸が上下し、彼の身体に再び温かい血が通う。


 瞼がわずかに動き切れ長の目が開く。まだ遠くを見るような翳りが残る表情……。


 目の焦点があったとき、世界は完全に変化した。


 夜鳴媛は胸のうちにあふれる喜びを殺し、静かに天祥へと指を伸ばした。全身の細胞が震える。


「天祥……」


 彼の視線はまだ焦点を結んでいない、しばらく茫然として、それから、やっと夜鳴媛を認めた。

 

「よかった、目覚めてくれた」


 夜鳴媛は彼の目の奥に何かが芽吹くのを感じ取った。

 それは愛ではなく、驚きでもない。――もっと濁った、深淵のもの。


 彼は夜鳴媛を射抜くように見つめた。

 全身からじわりじわりと熱を帯びたような感覚が伝わってくる。その熱は、命が再生した温もりではなかった。すべてを焼き尽くすような黒々とした憤怒だ。

 夜鳴媛は息を呑んだ。


 彼は、かつて見たこともないほど冷酷な表情を浮かべ、まるで最悪の敵にでも出くわしたかのように、彼女を見つめた。


「おまえは何者だ」


 そう冷たく言い放った声は底知れぬほどの怒りをたたえていた。





  ー 『神託により契約の契りを命ず』前編完結 ー

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