白銀のイコㇿ

ねこぷりん(猫姫)

序章 「白銀」1906年10月

旭川駅に降り立つと、冷たい風が肌を刺し、曇天の空がまるで時間を巻き戻したかのように重く広がっていた。10月上旬の北海道は、雪の季節を目前に控えた静寂の中にある。20代半ばの男性が、風に煽られる荷物を持ちながら周囲を見回した。彼の記憶の中にある旭川の駅はすっかり変わり、まるで別の場所に来たようだった。この変化の早さこそが、明治時代の激動を象徴しているのだろう。


駅前には馬車が数台停まり、男性はそのうちの一つに乗り込むと御者に行き先を告げた。


「カムイコタンのそんな場所へ?今からですか?」


御者は少し困惑して尋ねた。男性は静かにうなずいた。


馬車が揺れる中、彼の目には旭川の街並みが次々と映る。その風景には懐かしさと驚きが混在し、記憶の中の旭川とはまるで異なる姿がそこにあった。馬車が街の中心を流れる石狩川いしかりがわへと差し掛かると、大きな橋が見えてきた。数年前に完成した「旭橋あさひばし」――それは、文明開化を象徴するような堂々たる構造物だった。まるで新時代の幕開けを告げるようにそびえ立つその橋を、馬車が渡り始めたとき、ふと小雪が降り始めた。


御者は「参ったな」という顔で馬を急がせる。一方、男性は静かに降り始めた雪を見上げ、まるで目に見えない何かを感じ取ろうとするように、じっとその白い世界に目を留めていた。旭橋の壮麗さに目を奪われることもなく、彼の心は、これから向かう未知の場所へと既にあるようだった。


馬車は40分ほど進み、やがて街から離れた丘のふもとで止まった。辺りはひっそりとした静けさに包まれている。この一帯は旭川の開拓者たちが最初に切り拓いた地で、今では少し時の流れに取り残されたような場所だった。


「本当にここでよろしいんですか?」


御者がいぶかしげに尋ねると、男性は辺りを見回し、慎重に確かめるようにしてから頷いた。


「ありがとう。ここで間違いない。」


彼の声は低く穏やかでありながら、どこか決意のようなものが滲んでいた。


運賃を弾んでもらった御者は、それ以上の詮索を控えた。不思議な雰囲気を漂わせるこの男に、余計な言葉は不要だったのだ。


「旦那様、もうすぐ暗くなります。これからの旭川は、白銀はくぎんの世界です。どうかお気をつけて。」


そう告げると、御者は馬車を街へと引き返していった。


白銀はくぎん…」


彼は空を見上げ、小さな声でそうつぶやいた。その言葉は、この地に生きる人々が共に感じる感慨そのものだった。厳しい冬がもたらす一面の雪は、全ての生命を眠りにつかせるような静寂をもたらす。その中に潜む神秘と、雪解けの後に訪れる大地の豊かさ――しかし、もっとも厳しいこれからの冬、この地の象徴はやはり「白銀」だろう。


持参したカバンを開け、中から一本の小刀を取り出した。鞘にはヒビが入り不思議なアイヌ文様が彫り込まれていた。その小刀は、まるで彼の運命を握る鍵のようだった。彼はしばらく無言でそれを見つめた後、決意を固めるように強く握りしめた。


(彼女は、ここにいる――)


そう胸中で呟くと、彼は静かに山道を登り始めた。冷たい風が彼の髪を揺らし、小雪は次第にその勢いを増していく。次第に雪が降り積もる丘の頂に向け、男性の足取りは揺るぎなかった。その背中には、これから紡がれる新しい物語の始まりを告げる力強さが漂っていた。

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