第4話 後輩と風邪

 雨が降っている日の放課後の校舎というのはどうしてか少し非日常的だ。


 運動部が窮屈そうに校内トレーニングをしていたり、雨が止むのを待っている生徒らが手持無沙汰で校内をふらふらしていたり、所属クラスという区切りがなくなったのかと思うくらいあらゆる生徒が思い思いの教室で談笑していたりする。他クラスの前を通ったり中に入ったりするのに少し緊張するあの現象も、雨の日だけはきっと起きない。総じて、雨の放課後の学校は全体的に、内緒話をしているかのように閉鎖的でどこか秘密基地的な、こっそりとした雰囲気を持っている気がする。


 しかし、俺と鹿波かなみが青春を浪費しているこの天文部の部室に限っては何もかも普段と変わりなかった。俺たちは既に、そんな世界の些細な法則すらも意に介さぬほどまともな青春から逸脱していたのだ。


 この毒舌系後輩少女は、いつもどおりの澄ました顔で、時折ほんの小さく笑ったりしながら、今日も今日とて俺のことを舐め腐っていた。


「あの、心がかっこいい先輩。折り入って少し相談があるんですけど」


「……なんだ、ナチュラルに俺を舐めてる後輩」


「もうすぐ文化祭じゃないですか。それで、私のクラスでも当日に向けて準備が進んでいるんですけど、過度に楽しもうとするばかりの人たちと面倒な準備を押しつけられて不満が溜まっている人たちの間で、意見というか……意気込みの相違がありまして……。その影響でクラスの雰囲気が不安定になっていて、傍から見ていて大変そうなんです。こういうとき、心がかっこいい先輩はどうしたらいいと思います?」


 長机の定位置で漫画を読む俺の正面に座り、広げたノートに目を向けてペンを走らせたまま鹿波かなみは言った。ひとまず俺への呼称は置いておいて話を進める。


「……別にどうもしなくてもいいんじゃないか? 仲間と協力して何かを成し遂げるのも青春だし、その過程で生まれる諍いや失敗だって青春の一部なんだろ。鹿波かなみに何か実害が出てたりするのか?」


「いえ、とくにはないです」


「ならいいだろ。……文化祭がきっかけでできた不和なら、文化祭が終わってしばらくすれば元に戻るんじゃねえの? 知らねえけど」


 やや無責任だと思うが、青春の当事者である一生徒がクラス全体の責任を負おうとする考えのほうがそもそも間違っている。春先の件からクラスで浮いてしまっているらしいのに、そのクラスの状況がどうにかならないかと思案するところが鹿波のいいところだな、と思った。


「なるほど。さすが先輩、心がかっこいいだけではなく考え方も深いですね。……そうですね、私もこのまま静観することにします」


 少し感心したような声音でそれだけ呟いて、早くも興味を逸したのか鹿波は再び課題に注意を向けた。流れるようにその手が動き、問題を次々と解いていく。俺は一ミリも勉強をする気のない手で漫画のページを捲り、ぼやいた。


「何か参考になったならよかったけどよ。……それとな、その呼び方を濫用するのはよせ。この前の喜びが薄れちゃうから」


「……じゃあ、特に何もかっこよくない先輩」


「ごめん、俺が悪かった。これからも俺の心を褒め続けてくれ」


「はいはい。先輩はかっこいいですね、心が」


「倒置法に拭いきれない悪意を感じるな……」


 すらすらとペンを動かしている姿勢から意地でも俺を素直に褒めないぞ、という強固な意志を感じていると、問題を解き終えたらしい鹿波は「はあ」とこれ見よがしに溜め息をついてノートを閉じた。


「まったく、呼び方一つで注文が多いですね、めんどくさい……。なんですか先輩、欲しがりさんですか。メイドさんは当分おあずけですよ」


「おい、その言い方はやめろ。まるで俺が望んでるみたいに聞こえるだろ」


「メイドの格好させてもえもえきゅんまでやらせたじゃないですか、タダで」


「メイド服見せにきたのももえもえきゅんやったのもお前なんだが!? あれで金まで取るつもりだったのか!?」


 もはや新手の詐欺だろ。そして、結構な頻度で鹿波に狙われている俺の財布がまずい。何がまずいって、メイド鹿波に接客されてしまったら財布の中身が軽く吹き飛んでしまいそうなうえ、そんな破滅もまた一興だな、なんて雅やかに思いそうになっている自分も含めてまずい。鹿波、末恐ろしいやつだ……。


 内心で軽く恐怖している俺の心情も露知らず、文庫本を開いている鹿波の口元はほんの少しだけ楽しげだった。そういう、実はこっそりとこの時間を楽しんでますよ、みたいないじらしいリアクションが一番ずるいと思う。それに弱いせいで、まるで俺が罵倒されてもぞんざいに扱われてもなんだかんだ楽しんでる性的倒錯者みたいじゃないか。


 納得のいかない顔をしている俺を見て鹿波は言う。


「でも先輩、メイドの私に喜んでましたよね。それともあれは演技をしてくれてただけで、本当はあんまりかわいくありませんでしたか?」


 まっすぐと俺を見つめてそう問うてくる。こういうとき、しれっと誤魔化せない自分の拙さを実感して頭を抱えたくなる。


「いや、まあ……かわいかったけども」


「そうですか。じゃあよかったです」


 しどろもどろに言葉を詰まらせながら口にする俺と、澄ました表情を一切崩さずすんなりと受け取る鹿波。一人で恥ずかしがっている俺は物凄く負けた気分になった。いつものことだった。いつもどおり、そんな空気が別に嫌ではなかった。


 鹿波は、愛想も悪いしすぐに毒を吐くし普段から俺を揶揄いまくるが、不思議と小悪魔的というわけではない。喩えるなら、上位存在がお気に入りの玩具を慈しみながら手のひらで弄んでいるような……という形容をしようと思ったが、そうなると必然的に俺が下位存在になってしまうのでやめた。俺は先輩だぞ。先輩より優れた後輩などいねえ。


 さっきから話の内容がまったく入ってきていなかったが、とりあえず手遊びに漫画を読み進める。鹿波も文庫本のページを捲り、綺麗な姿勢で静かに読書に勤しんでいた。相も変わらず本を読む彼女の表情は興味なさげで、そのまましばらく互いに喋らなかった。


 雨滴が渡り廊下のトタンで弾けるぱらぱらという音が小さく聞こえる。ぱしゃぱしゃと足音を鳴らしながら友人の傘に入って昇降口を降りていく誰かや、雨を受けて葉を揺らす花壇の金木犀をぼんやりと想像した。


 静かな部室に、本を繰る音がまばらに響いていた。そんな時間の心地よさを今更ながら意識した。鹿波のいる放課後にも随分と慣れ親しんだな、なんて思った。


 自然とそんなことを考えていたのがむず痒かったからか、俺は小さなくしゃみを一つした。


「……先輩、風邪ですか?」


 目敏く気づいた鹿波が訊ねてくる。


「ん? いや、体調は普通のつもりだけど。……もしかしたら誰かが俺のこと噂してるのかもな」


 くしゃみから風邪を連想する鹿波がなんだか微笑ましくて、同じく定番のセリフを返す。


「風邪ですね」


「……どうして言い切るんだ」


「先輩が誰かの話の種になってるわけないじゃないですか。噂されてるとしたらどうせ陰口とかでしょうし、それはちょっと可哀想なので風邪ってことにしておきましょう」


「なんだその悲観的な優しさは。否定できないのが悲しいよ俺は」


「私にまだ友人がいたら先輩の話もしてたかもですね」


「……友達と、俺のいいところの話をするんだよな? 陰口じゃないよなそれは!?」


「陰口じゃないですよ、たぶん」


「言い切ってほしかったなぁ……」


 鹿波にまだ友達がいるならそもそもきっと俺とは知り合っていない、という結論にたぶん俺と同じく鹿波も思い至って、そこで言葉が途切れた。また漫画に目を向ける。すると、俺の正面の席に座っていた鹿波が立ち上がり、部室の隅にある棚の中を探し始めた。


 そうして戻ってきた鹿波の手に握られていたのは、脇に挟むタイプの、かなり年季の入った棒状のデジタル体温計だった。


「……俺が風邪かもって話、冗談じゃなかったのか?」


「冗談じゃありませんよ。先輩、今日はどことなく元気がなさそうだったので、何かあったのかなと思ってたんです」


 そう言いつつ、鹿波は一緒に持ってきた救急箱の中からアルコールなどを取り出し、先端の金属部分を消毒する。


「だから、今日の私は先輩を気遣って少しだけ優しくありませんでしたか?」


「さあ。口は悪いけど、鹿波って大体いつも優しいしなぁ。いつもと違うみたいな気はあんまりしなかったけど」


「……その評価を受けて喜ぶべきなのか残念がるべきなのか、複雑な気分です。……はい、消毒が終わりましたよ。とりあえず熱を測ってください」


 目の前に体温計が差し出される。鹿波が備品として学校から借りて部室に置いていたその体温計は、仕舞われていた年月を思わせるようにプラスチックが色褪せていたが、しっかりとその役割は果たせるようで、鹿波が電源を点けるとピピと調子の外れた音を立ててから待機状態に入った。


 しばらく液晶と睨み合う。そのうち、なかなか体温計を受け取らない俺を不思議に思ったように鹿波が視線を送ってきたので、言い訳をするように俺は言った。


「……くしゃみ一つでさすがに大げさじゃないか? わざわざ消毒までしてもらって申し訳ないんだけどさ、俺、体温計とか嫌いなんだよ。寝とけば治るのに、なんか病人みたいで苦手なんだ」


「何を子供みたいなこと言ってるんですか。みたい、じゃなくて、実際に風邪を引いていたらちゃんと病人です。それを判別するために熱を測るんですよ」


「ええー……でもなぁ……」


 決して潔癖症などではないが、体温を測っている最中の、自分を品定めされているようなあの感覚が嫌なのだ。同じ理由で病院に行くのも苦手だったりする。


 なおも渋る俺を見兼ねたように溜め息を一つついて瞠目した鹿波は、呆れたような眼差しをこちらに向けて沈黙した後、ぽつりと言った。


「……体温計と私のおでこ、どっちがいいですか」


 すぐには意味がわからず、呆けたまま鹿波を見つめる。無表情のまま彼女もこちらをじっと見ていた。


 あまりに唐突だったので理解が遅れたが、それはつまり、体温計と鹿波の額のどちらで熱を測るか、という問いだった。自分のおでこを使って相手の熱を測る方法を、そしてそのときに取らなければいけない体勢を、俺は一つしか知らない。


「ちなみに、体温計ではなく私のほうを選んだ場合は少し心の準備が必要なのでお時間をいただきます」


 そんなの俺だって心の準備が必要だ。そして、その心の準備はきっといつまで経っても完了しない。


「なんだその二択は、卑怯だろ……。……体温計でお願いします」


 かくして、俺は体温を測ることになった。


 機器自体が古めかしいものだったからか、体温を測るのにやたらと長い時間がかかった。その間、鹿波は器用にも意識だけはこちらに向けつつ手元の文庫本に視線を落としていた。計測完了の音が鳴ると金属部分を再び消毒して、体温計を大人しく鹿波に渡した。


「……微熱ですね」


 何も悪いことをしていないはずなのに何故か後ろめたい。悪戯がバレた子供のような心境だった。それから、救急箱を元あった場所に返した鹿波は机の上にあったノートや文庫本などを鞄の中に片づけ、席から立ち上がってぴしゃりと言った。


「体調が悪いなら今日の部活動はもう終わりです。鍵は私が返しておくので、先輩は大人しく帰ってください」


 何かしらの反論も、そもそも反論する理由も思いつかないままあれよあれよという間に部室から閉め出され、職員室へ寄る鹿波と別れて帰路に就いた。あまりにも迅速な対応で、なんだか狐に抓まれたような気分だった。


 雨のせいか、いつもよりぽつんとした帰り道だった。


◇◇◇◇◇


 翌日。鹿波が懸念していたとおりにばっちりと風邪を引いて学校を休んだ。咳が酷いし体が怠い。ちょうど目が覚めた夕方頃、インターホンが鳴ったので出てみると、雨の降る住宅街の玄関先に見慣れた姿があった。


「……なんでお前がここに?」


「こんにちは、先輩。……先輩が寂しくしているかと思ってお見舞いに来てあげました」


 表情筋が死んでいるみたいな顔でそう言ってのけたのは、鞄を肩にかけ、傘を差し、驚いている俺をまっすぐ見つめている鹿波だった。


「どうですか? 私が来て嬉しいですか?」


 ほんの少し微笑みながら鹿波は落ち着いた口調で言う。どうしてそう、照れも恥じらいもない澄ました様子でそんな健気なセリフを言えるのだろうか。愛想がないにも拘わらずちゃんと俺のことを考えてくれているのだとわかるのだろうか。風邪で心が弱っているせいか、鹿波が物凄くかわいく思える。


「ああ。……お見舞いに来てもらうのとか初めてだし、そりゃ嬉しいよ。ちゃんと嬉しい」


「ふふ、知ってますよ。顔を見れば一目瞭然です」


 じゃあ訊くな、とは言わないでおいた。わざわざお見舞いに来てくれたことへの感謝や喜びくらいは、訊かれずともちゃんと言葉にするつもりだったから。


「先輩が望むのであれば私は何度だってお見舞いに来てあげますよ」


「それだと俺が何度も寝込まなきゃいけなくなるんだが」


「冗談です。私だってそんなこと望んでないですよ。……とりあえず先輩の部屋に行きましょう。病人なんですから、大人しく寝ているべきです」


 いつもどおりの口調ながら鹿波の意思は固く、俺はほぼ強制的に自室まで連行された。何故か俺は年下の女の子を自室に連れ込んだりするのではなく、年下の女の子に俺の部屋へと連れ込まれていた。何もかもが逆だった。


 部屋に入ると、鹿波は部屋の中央にあるテーブルの前に腰を下ろし、鞄の中から数枚のプリントを取り出して机の上に置いた。


「おお、今日の授業で使ったプリントか。助かるよ。授業についていくのも必死だからな。鹿波が来てくれなかったら完全に置いていかれるところだった」


「天文部の顧問の先生から渡すよう言われたんです。もしプリントだけじゃ内容がわからなかったとしても、いざとなれば私が教えてあげるので安心してください。……さて、先生からのおつかいはこれで終わりです」


 甲斐甲斐しくプリントを揃えて机の隅に置いた鹿波は、さらに鞄の中でレジ袋をがさがさと鳴らしながら物を取り出していった。


「はい先輩、これ。ゼリー飲料です。飲み物もあるので、喉が渇いていなくても飲んでください」


「おう。……これ、鹿波が買ってきてくれたのか。悪いな。今代金を払うから……」


「お金は要りませんよ。何か返したいなら、いつか私が風邪を引いたときに先輩も私のことを看病しに来てください」


 鞄の中身を覗きながら事もなげに鹿波は言った。無能な俺はただベッドに座りながら鹿波が色々と用意するのを眺めていることしかできなかった。


「先輩、台所をお借りしてもいいですか? 果物を買ってきたので、よければ剥いてきます」


「え? あ、ああ。いいけど」


 俺がそう返すと、ありがとうございます、と言い残して鹿波はすたすたと部屋を出て階段を降りていった。台所までの道のりを迷うような家でもないから案内は必要ないだろうが、その手際のよさに何故か取り残されたみたいな気がした。今日の鹿波はなんだか事務的だ。俺を揶揄おうともしないし、普段の毒舌だって鳴りを潜めている。おかげで、黙々と作業をしている彼女の横顔の綺麗さとか、靡くたびに重力を感じさせる艶やかな髪とか、そういったものばかり実感させられて少し居心地が悪い。いつものように明け透けに物を言い、他愛ない会話をしてたまに笑ってくれる鹿波じゃないことに、漠然と距離を感じた。口数が少なく棘もない彼女はただの綺麗な少女でしかなくて、俺はそれが少し物悲しかった。


 それからややあって、小皿を手にした鹿波が部屋に戻ってきた。


「すみません。包丁やお皿を勝手に使わせてもらいました。後で洗っておきます」


 こと、と机に置かれた小皿には、食べやすい大きさに切られたりんごが入っていた。ご丁寧に爪楊枝まで刺してある。


「洗い物くらい俺がやるけど……いや、わかった。わかったから、そう露骨に不満そうな顔をするな。二人で半分ずつ洗おう」


「まあ、それならいいですけど……」


 苦笑する俺に、不承不承といった感じで鹿波が頷く。


「改めて、わざわざありがとう。……それじゃ、いただきます」


「はい、どうぞ」


 俺の正面に座った鹿波は、俺が果物を食べている様を見ていた。注視するわけでも退屈そうにしているわけでもなく、本当にただ眺めているだけといった、何を考えているのかよくわからない表情だった。俺はそんな風に見つめられ、無言のまましゃくしゃくと果物を食べていた。ぎこちないむず痒さがあったが、そう感じていることも互いに理解し受け入れている、なんとも不思議な沈黙だった。嫌な空気ではなかったが、鹿波を相手にほんの少しでも緊張したのは久しぶりだった。


 それから、俺が果物を食べ終えると二人で皿や包丁を洗った。洗い物が少なかったこともあって、その最中には一言程度しか話さなかった。洗い終えると、鹿波は俺の部屋から鞄を取ってきて、玄関で靴を履いてから言った。


「じゃあ、用も済んだので帰ります」


 鹿波がこの家に訪れて二十分も経たないうちのことだった。もう帰るのか、とつい訊きそうになり、慌てて口を噤んだ。口が滑りそうになるのは風邪で弱っている心のせいにして、「ああ」と素知らぬ顔で返した。


「……今日は助かったよ。ありがとな」


「……いえ。では、お邪魔しました」


 そう簡潔に返して、これっぽっちも後ろ髪を引かれる様子もなく、鹿波は扉を開けて玄関の向こう側へと消えていった。あまりにもあっさりと帰っていったものだから、先程まで鹿波がお見舞いに来てくれていたこと自体が、風邪が見せた幻覚だったんじゃないかという気もした。俺は、とうに閉まってなんの音も立てなくなった玄関扉をしばらく見つめていた。


 まあ、病人がいる空間に長居したくないのは当然か。無駄話なんかをしていて風邪をうつされても困るだろうし。今日の鹿波の態度は、病人に対するものとして理に適っている。なんらおかしいところはない。そもそも、わざわざお見舞いに来てくれること自体が十分に献身的だ。それはわかっている。ちゃんと理解している。


 それなのに、どうして俺は寂しさなんて感じているんだろうか。


「まったく……何を期待してるんだ、俺は」


 鹿波がいなくなって、誰もいない午後の家の静けさはより顕著になったみたいだった。随分とあの後輩に甘えている自分を自覚し、溜め息を一つついた。

 そんなときだった。

 がちゃ、と再び玄関の扉が開いた。路面を叩く雨音が鮮明に聞こえて顔を上げる。

 そこには、家を出ていったはずの鹿波が立っていた。何かを言おうか言うまいか悩んでいるみたいな仏頂面をした、俺の後輩が立っていた。


 そして、彼女は俺よりも先に口を開いた。


「……あの、誤解がないように言っておきます。私は別に、先輩に風邪をうつされたっていいんですよ。優等生なので、少し休んだところで影響はありませんから。ただ、かわいい後輩に風邪をうつしてしまうのは先輩自身が嫌がるかと思いまして。それでなるべく手短にお見舞いを済ませただけです。なので、その、……あんまり誤解しないでいただけると嬉しいです」


 本来は言うつもりがなかったのか、物凄く不服そうだった。


「……そんなことをわざわざ言いに来てくれたのか?」


「ええ、そうですよ。まったく、先輩が別れ際に寂しそうな顔をするからです」


 それはなんというか、物凄く優しい呆れ方だった。世界で一番優しい冷たい態度だった。


 そうだ。どれだけ口が悪くても、態度が冷たくても、愛想がなくても、鹿波は根本的に優しいのだ。感情表現が素直じゃなく、その気遣いまで含めてわかりづらいだけの、優しい素敵な女の子なのだ。そんなことを思い出した。


「ありがとう、鹿波。……めんどくさい人間で悪いな」


「いえ、先輩がめんどくさい人なのはいつものことなので」


 そう愚痴るように零す鹿波は、きっと俺がどれだけ面倒な人間のままでも嫌いになったりはしないんだろうと思った。やれやれ、みたいな態度を取りつつも、何も言わず隣にいてくれるのだと思う。だって俺と同じく彼女も、相応に不器用で面倒な人間なのだから。


「……なんか、寂しさを見抜かれてたって事実が物凄く恥ずかしいんだが」


「大丈夫ですよ。先輩が恥ずかしい人なのは今に始まったことではないので」


「余計に大丈夫じゃなくなったな!?」


「それに、先輩に勘違いされたくないという理由で戻ってきてしまったせいで、私も今少しだけ恥ずかしいので」


「あ、そう。だったらもっとかわいげのある顔をしておけよ……」


 恥じらいなど微塵も見えない表情を浮かべる鹿波にそう愚痴を零す。


 絆とも言えない、歪で、けれども心地いい繋がりがそこにはあった。雨の降る玄関先で俺は小さく笑った。鹿波も微かに口元を緩めていた。


 そんな、風邪を引いた日の寂しくない午後の一幕だった。

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