第6話

『犯罪者の筒路森つつじもり、だったな』

『殺人鬼の間違いでは?』

『おお、怖い。怖い』


 少年が反論しないのをいいことに、少年少女たちは次から次へと言葉を重ねていく。


『そのような言葉、失礼だと思わないのですか』


 育ちと品格の欠如した言葉を羅列されたことに、幼いながらにも私は気づくことができた。

 幼いなりに凛とした表情をして、少年少女へと私は立ち向かっていく。


『筒路森は、世界を救うために存在するのですよ』


 少し年上の少年少女たちを恐れることなく、幼き日の私は一歩ずつ彼らへと近づいていく。


『もういい! それらはすべて事実だ……』

『人を軽んじることでしか、自分を測れないのは悲しいことですよ』


 私が少年少女たちに向けた言葉は、少し尖りすぎていたかもしれない。

 少年少女を束ねていた主導者らしき少年は怒りの感情を発散させるために、幼き少女である私を突き飛ばした。

 私が石畳の上に倒れ込むと、筒路森の少年はすぐに私へと駆け寄ってくれた。


『今、医者を……』


 次の瞬間、風のざわめきと共に淡い紫色が空から舞い降りてきた。

 淡い紫の翅が優雅に羽ばたくたびに、鱗粉のような粉が庭園を訪れたすべての少年少女たちを包み込んでいく。


『絶対……君を、たすけ、る……』


 蝶が見せてくれた記憶は、そこで途絶えた。

 私の記憶に流れ込んできた美しい山茶花の庭園は消え失せ、目の前にはただただ悠真様の書斎が広がっている。

 もっと蝶の記憶を辿ろうと欲を出してしまいそうになったけど、繋いだ手に力を込められる。


「待て、待て、待て……今のは、なんだ……?」

「蝶が見てきた光景を、辿ったものだと思われますが……」

「確かに、それは俺が望んだことだが……こんな大昔の出来事を、結葵に見せなくても……」


 自らを責めるように、彼の表情が恥じらいの色を帯びていく。


「蝶の記憶に存在した……その、筒路森の少年は……」

「俺だ……」


 耳元まで赤く染まった顔を隠すように、指先で前髪を下ろす。


「一部の記憶が欠如してたのは、このときに記憶を消されたからか……」


 気まずさと戸惑いを隠しきれないことが、よく伝わってくる。


「だが、結葵に見せたかった蝶の記憶は、これじゃなくて……その、普段の俺を見てほしかっただけで……」


 けれど、むしろ私は、そのままでいてほしいと思ってしまった。

 初めて見る彼の新しい一面に、自分の心が揺さぶられていく。


「なんで、こんな格好の悪いところを……」


 やがて彼は深く息を吐き、肩を落としていく。


「悪い、今日はここまでにして……」

「こんな……こんな、都合のいい物語があるのでしょうか……?」

「結葵?」


 紫純琥珀蝶しじゅんこはくちょうは、穏やかな青い空が広がる時間帯には滅多に姿を見せない。

 それでも蝶は、あのとき、あの瞬間の私たちを見かけて、手を貸してくれた。

 記憶を失うという代償を支払うことになってしまったけど、こうして私たちは再会を果たすことができた。


「もう一度、もう一度だけ、蝶の記憶を辿っても宜しいでしょうか」


 自分の瞳を輝かせることなんてできないけれど、願いを聞き入れてほしいと懇願するように彼の目を見つめる。


「蝶が、偽物の記憶を作り出した可能性もありますから」

「結葵? どうした……」

「だって、あの蝶の記憶に映った少女は、私……ですから」


 彼は、言葉を失ってしまった。

 こんな夢物語のような都合のいい展開が、現実の物語で紡がれるわけがない。

 失われていた記憶が色鮮やかに甦るなんて信じられず、私は座卓の上で体を休める硝子箱の中の蝶に語りかけようと意気込んだ。


「本当、か?」

「きっと、蝶が幻想を見せようとしたのかも」

「幼い頃に出会っていたなんて、そんなお伽話のような出来事が起こるわけ……」


 繋いだ手に、ぎゅっと力を込められる。

 これ以上、繋がり合うことなんてできない。

 それなのに、私たちは深く繋がり合う。


「夢物語にしないでくれるか」


 ただ静かに、彼の様子を見つめる。


「あの少女が、俺の初恋なんだから」


 彼のぎこちない微笑みに、私も笑顔を返したい。

 でも、心の中に込み上げてくる感情の熱さに、自分がどういう表情を浮かべていいのか分からなくなる。


「っ、そんな……夢みたいなことが……」

「そこで、なんで泣くんだ?」

「なんでか……私にも、わからなくて……」


 悠真様と一緒に、あの日の記憶を辿った。

 それは蝶の気まぐれだったのか、蝶の意地悪だったのかを知る術はない。

 けれど、幼い頃に交わし合った、すべての言葉が頭の中に響き渡ることに幸福を覚える。


「ずっと独りで、筒路森を背負っていくものだと思っていた」


 彼の人差し指が、私の涙を拭う。


「恐れを抱かれたまま、死ぬものだと思っていた」


 繋いだ手を引き寄せられ、私は彼の腕の中へと包み込まれる。


「独りぼっちの俺を見つけてくれて、ありがとう」


 耳元で囁かれる熱の温かさに、堪えようと思っていた涙が再び溢れ出す。


「結葵」


 彼の温もりを懐かしく感じながらも、新しく感じる温もりがあることにも気づく。

 この瞬間こそが、私たちの始まり。

 彼の熱が、教えてくれる。


「見せたい記憶は違ったが……これで、俺の気持ちを信じてもらえたか?」

「はい……」


 互いに、顔を見合わせる。

 額と額をくっつけるほど近くに互いの存在を感じると、動悸が急に早くなるのを感じた。


「運命を感じたという気障な台詞は、間違いではなかったな」

「はい」


『はい』としか言葉を返すことのできない自分を残念に思うけれど、おぼろげだった記憶が鮮明に甦ることの幸福に私は溺れていく。


「これは、政略結婚じゃない」


 彼が、笑む。


「俺が、結葵を選んだ」


 嬉し涙という言葉があるのを知ってはいたけれど、その涙の意味を知らずに生きてきた。

 これから待っている未来にも、嬉し涙の意味を知る機会など私には待っていないと思い込んでいた。


「これから生きる未来を、結葵と共に生きたい」


 でも、私は、今日。


「悠真様の未来に、添い遂げたいです」


 嬉し涙という言葉の意味を知ることができた。

 あまりにも多くの幸福を受け取ると、人は涙してしまうという初めての経験を彼に教えてもらう。

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