第2話

「どうかなさいましたか」


 悠真様の食事の手が止まっている。

 そして、彼の視線が私に注がれていることに気づいてしまった。


「侍女を呼んだ方が、食事しやすいか?」


 私の食が進んでいないことを気にかけてくれた彼は、私が食事しやすい環境を整えるために優しく提案してくれた。


「侍女? え、あ、そういえばいらっしゃらないのですね……」

「食事の時間に他人がいると、常に監視されているみたいで気分が悪い」


 この場にいるのは私たち二人ということもあり、ほかの人の反応を気にすることなく彼は素直な感情を吐露する。


「なるほど……承知いたしました」


 一人きりでの食事が当たり前だった私は、食事中に会話がなくても気にならない生活に馴染んできた。

 食事をしながら考えごとに耽るのは日常茶飯事だったけれど、彼には余計な気を遣わせてしまったかもしれない。


(平常心、平常心……)


 平常心を装って、私のために用意された食事に手を伸ばすために箸を取る。

 夢の中で抱いた悲しさなんて、現実には持ち込んではいけないものだと自分に言い聞かせていく。


「だが、結葵が二人きりの空間を好まないなら、人を呼んでも……」

「もともと、誰かに囲まれた生活は送ってこなかったので平気ですよ」


 いつもの自分を、悠真様に見せたい。

 見た夢は、何も意味を持たないもの。

 私は、彼に心配されるような人間ではないことを伝えたい。


「没落寸前の北白川家か」


 筒路森つつじもりの財のおかげで、北白川はかつての栄華を誇るような偽物の輝きを放っている。

 北白川が過去の名声を取り戻したものだと周囲に勘違いさせていくことが、政略結婚を仕組まれた私に与えられた使命。

 そんな仮初かりそめの裏側を知っている彼は優しくもなく、軽蔑でもなく、複雑な感情を抱いているように見えた。


「その没落寸前の北白川家の娘を、嫁に貰うわけですけどね」

「おかげで、君の家は随分と潤っているんじゃないか」

「筒路森様のおかげです」


 朝食だけが用意されている部屋で、私と彼は二人きちの時間を過ごす。

 食べられる物があるだけでもありがたいのに、二人きりという贅沢な時間までいただいてしまって、なかなか食事が喉を通っていってくれない。


「そういえば、ご両親に一度もご挨拶したことがないのですが……」

「あの人たちは別邸で余生を過ごしている。俺が誰と結婚しようと、筒路森の未来がどうなろうと関心はないだろ」


 まるでご両親に興味がないような、冷めた言い回しをされた悠真様。


(誰と結婚しても、筒路森の未来がどうなっても関心はない……)


 筒路森の当主と北白川家の娘との婚約は、私たち姉妹が物心つくころから決められていたと思っていた。

 その取り決めを締結したのは互いの両親であると思っていたのに、悠真様のご両親は誰が筒路森の世継ぎを産むことになろうと興味がないとおっしゃられた。


「そうおっしゃるのなら、私はその言葉を信じます」


 最初は政略結婚という関係性で結ばれていたのは本当のことでも、当主が代わることで事情も変わったということ。


「これで私は、蝶と言葉を交わすことに集中することができます」


 悠真様のご両親は、北白川の美貌に惹かれていた。

 私の両親は、蝶と言葉を交わすことができない真っ当な娘を悠真様の元に嫁がせたかった。

 でも、筒路森の現当主である彼は紫純琥珀蝶と言葉を交わすことができる娘を選んだ。


「いざ迎えに行ったら、紫純琥珀蝶しじゅんこはくちょうと話すどころじゃなくなって驚かされた」

「……蝶は、壊すとおっしゃっていました」


 妹の美怜は記憶を喰われたくないあまりに取り乱して、場を大きく荒らしてしまった。

 怒声が響き、平穏な場が失われてしまうことにも繋がってしまったけれど、それは未来を変えることにも繋がった。


「何を壊したいのかにもよるが……」

「ですが……」


 逆接の言葉が、同時に重なった。


「……おかげで、結葵を見つけることができた」

「私も、ご当主様と出会うことができました」


 晴れやかな表情が広がって、妹に悠真様を返さなければいけないと後ろめたさから少しだけ解放された気がする。


(もしも、蝶が飛ばない平和な世界が訪れるようなことがあったら……)


 そのときは、悠真様が生涯を共にする方を自由に選ぶとき。

 元婚約者の私が、彼の心を縛り続けることは私にはできない。


「私が両親にできることなんて、何もないと思っていたので……」

「……暴力を振るわれても、精神的な苦痛を受けても、それでも血の繋がりが大切か」

「産んでもらった礼を返さなければいけません」


 事実を口にしただけなのに、その言葉は凶器のように私の心へと突き刺さった。

 産んでもらった礼を返したいという気持ちは本物でも、その気持ちが揺らいでいることに気づいているからかもしれない。


「……君が望むことなら、どんなことでも協力するべきなんだろうが」


 悠真様は冷静な表情を崩さないまま言葉を続けようとしていたようだったけれど、それ以上の言葉を紡ぐことをやめた。

 私も言葉を続けることなく、この話はここで終わりを迎えた。


(私があまりにも頑固すぎて、呆れられたのかもしれない……)


 産んでもらった礼を返せば、両親は北白川の中へと招き入れてくれるのではないか。

 そんな甘い夢を抱いてしまうのは、間違っていることなのか。

 子として産まれてきたからには、当然の感情なのか分からない。


「結葵、火傷するなよ」


 湯呑に新しく茶を淹れようとしただけのことなのに、彼は私のことを気にかけてくれた。


「いくら不慣れでも、火傷なんてしませんよ」


 一瞬だけ、瞳を伏せた。

 深呼吸をしてから、真っすぐ彼のことを見た。


「お気遣いありがとうございます」

「……そんなに気を遣ってばかりいると、疲れるからな」

「ご当主様こそ、いろいろと余計な世話を焼きすぎだと思います」

「病み上がりの人間を気遣うのは当然のことだろ」


 恋仲同士が、どんな会話をするものなのかは分からない。

 悠真様との会話は恋仲同士がするようなものではないかもしれないけど、それでも話を続けてみたいと思ってしまう。


(いま以上の関係に進展したい……)


 そんな浅はかな願いを抱いてしまうのは、少なくとも彼から冷酷冷淡な筒路森という印象を持つことができないからかもしれない。

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