第2話

「お父さま、お母さま、見てっ」


 近くの部屋から、妹の華やかな声が聞こえてくる。

 今日は妹の美怜と、筒路森つつじもり家との縁談がまとまる日と言っていた。彼女たちの声には喜びが溢れ、未来への希望が輝いていた。


「これで、私たちは幸せになれるのよ」


 胸に、鋭い針が突き刺さったような感覚に襲われた。

 妹の未来は眩しく輝いているのに、自分の未来は閉ざされたまま。

 ただじっと畳を見つめながら、私は自分の人生に絶望した。


「こんなにも美しいお召し物、久しぶりっ」


 祖父が立ち上げた事業を父が引き継いだけれど、その事業は軌道に乗らなかった。

 祭りでの一件が止めを刺し、北白川家は没落していった。


「これなら、ご当主様に気に入ってもらえるかしら」


 没落した北白川家と揶揄される中、生まれてきたのが父と母の美貌を受け継いだ姉妹。

 でも、姉の私は紫純琥珀蝶しじゅんこはくちょうの言葉を理解する不出来な娘だった。

 気味悪がられ、呪われた子だと言われ、生きる資格すらないと言われた。


(殺して……殺して……私を、蝶と一緒に葬って……)


 みんながみんな、人を殺すことは罪だと理解しているから、誰も私を殺しに現れない。

 罪を背負いたくないという人々の意見は一致して、今日も私は一畳分の部屋で生かされている。


(苦しい……)


 誰にも存在を認めてもらえないけれど、今日も私は一畳分の部屋で呼吸をすることを許されている。


「よく似合っているよ、美怜みれい

「ありがとうございます、お父さま」


 顔だけが美しいことが功を奏したのか、没落した北白川家に縁談の話が持ち込まれた。

 北白川と祝言を迎えたい人間などいるはずもないのに、顔の美しさに惹かれた多くの華族から声が上がった。


「ずっと、ご当主様に好かれるかどうか不安だったの」


 その中でも、最も多くの金を北白川家に注いでくれる華族に娘の美怜を差し出そう。

 父の策略に乗っかった華族の中で、もっとも多額の額をつぎ込んできたのが筒路森家だった。


「この家には、あの子がいるでしょう。蝶と話ができる子が身内にいたら、私はご当主様から嫌われてしまうと思っていて……」


 筒路森家に妹が嫁ぐことで、北白川家には多額のお金が入る。

 筒路森家は美しい娘を手に入れ、あとは妹の血を引く世継ぎの誕生を待つだけ。


「すまない、おまえの姉が不出来なばかりに……」

「私が嫁ぐことで、北白川家を救うことができるのなら本望ですわ」

「美怜……ありがとう」


 ありあまる財力だけでなく、人々を魅了するほどの美貌を筒路森家は手に入れたかったということらしい。


「私はお母様とお父様も不自由なく生活してもらうために、この縁談をお受けしますの」

「美怜、幸せになるのよ」

「お母様、泣かないでください」


 蝶と会話ができるのは、異常なこと。

 蝶と会話ができるのは、この世で私だけということ。

 私が遭遇したは、私の未来を変えてしまうことに繋がった。


(すべては、私が悪い……)


 妹の様子を気遣うために差し伸べた手は振り払われ、私は赤みを帯びた手の甲を擦り合わせる。


(風邪を拗らせれば、もうすぐ死ぬことができる……)


 お客様を出迎えるための部屋は筒路森家から贈られたガスストーブの暖かさに包まれているけれど、私に与えられた部屋には空気を暖める類のものは存在しない。

 冬の寒さを乗り切るには、あまりにも心もとない。


(もうすぐで、楽になれる……)


 私が、蝶に言葉を返さなければ良かった。

 私が蝶に言葉を返さなければ、私はまだ家族の輪の中へと置いてもらえた。

 今頃は私もどこかの華族に嫁ぐことで、父と母の役に立てたかもしれない。

 でも、そんな絵空事を描いてしまう自分に、嫌悪感を抱いてしまう。


「大嫌い……」


 筒路森家と妹の縁談がまとまることを祝福するかのような、晴れやかな空が広がる時間帯。

 私の話し相手になってくれる蝶が飛ぶ時間ではないため、私の話し相手は一向に現れない。


「こんなときばかり……独りにしないで……」


 紫純琥珀蝶が飛ぶ時刻は決まっている。

 そんな、蝶が飛び交う時間を知っている自分のことを、自分でも気味が悪いと思ってしまう。


「きゃぁぁぁぁ」


 あまりの寒さで体が凍りつきそうになるような感覚を恐れたのか、私はいつの間にか深い眠りに陥っていたらしい。

 母の叫びで目を覚まし、障子戸の向こう側に広がる蒼い空を見た。


(まだ陽は沈んでいない……)


 空は明るさを保っている。

 空が太陽と共に生きることを選んでいる時間帯で、似つかわしくない悲鳴と騒音が鼓膜を叩き始める。


「何が……」


 部屋から出ることは、禁じられていない。

 でも、蝶と話すことができる私が外へと出ることで、多くの人たちに迷惑をかけてしまう。私が出しゃばることで、筒路森家と妹婚約が破談してしまうかもしれない。


「っ」


 障子戸に、ある影が映り込む。


「何かありましたか」


 迷うことなく、空と部屋を繋ぐ障子戸へと近づいた。

 そして、私は影を作り出した存在へと会いに行く。


「壊す……?」


 蝶は、私の言葉に返事をくれた。

 やはり私は蝶と言葉を交わすことができるということを、嫌というほど痛感する。


「待って! 待ってくださいっ!」


 私の言葉は届いているはずなのに、蝶は私の呼び止めを無視する。

 祝言を壊すという言葉だけを残して、蝶は輝くように光る青い空から逃げていく。


「なんで……」


 部屋から出ることは、禁じられていない。

 でも、外で何かが起きていたとしても、こんなにも弱り切った身体で何ができる?

 何もせず、このまま死が迎えに来るのを待つのが私にとっての幸い。


(でも、でも、でも……!)


 私は、まだ家族のために何もできていないことを思い出す。

 せっかく授かった命で、まだ誰も笑顔にできていないことを思い出す。


「止めなきゃ……」


 筒路森家との婚約が破談になってしまったら、筒路森家の言いなりになってきた北白川家は確実に滅んでしまう。


(蝶をなんとかできるのは、私しかいない)


 両親が何不自由なく暮らせるように、北白川家に多額の財産をもたらすことこそが、妹に与えられた役割。


(私の役割は……)


 どこかの華族に嫁ぐという義務を果たすことができなかった北白川家の姉

 そんな私が唯一、北白川家のためにできることと言ったら蝶を止めることくらい。

 蝶の目的なんて何も分からないけれど、蝶が両名の婚約を壊すと伝えに来てくれたことには意味があると信じたい。 

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