第2話 もう少し寝かせて
「……さん、おおとりさん」
おおとりさん……?
「……私?」
「貴方以外誰がいるんですか! 大鳥さん、おめでとうございます!!」
「ありがとうございます……?」
何がおめでたいのか分からないけれど、祝われたので取りあえず感謝の言葉を返す。
目がシパシパするし、思考は水を吸ったスポンジみたいに重い。寝起きなのか? 私は。
そもそもここはどこ?
ふらふらと頭を揺らすようにして、辺りを見回す。
まず目に入るのは、人・人・人、人だらけ……。
「待って、ゲロは!?」
「げろ?」
蛙の鳴声みたいな声が目の前から聞こえた。
呆然と声のしたほうを見る。
「どうして
「どうしてって、薄情なこと言いますね」
蛙の鳴声を発した人、もとい中学生の時にお世話になった塾の松下先生は、傷ついた顔をした。
普段自分の発言のせいで相手がそんな顔をしたら、申し訳ないと思っていなくてもとりあえずすぐに謝る。だけど、今はそれどころじゃなかった。
だっておかしい。
受験が終わって高校生活が始まってからは、塾の先生と会うことはなかった。一回もだ。
寂しいことだけれど、塾の先生なんてよっぽどの用がなければ会いに行かない。
つまり、もう縁はほぼ切れている様なものだ。
それなのに何故今目の前にいる?
いや、もっとおかしい点はある。
何故か私は屋外にいる。
さっきまでへべれけでゲロ塗れになって、家の床に伏していたというのに。
自分の身体をまさぐると、吐瀉物どころか湿り気すら感じなかった。
「というか制服!? キツいって!!」
今気付いた。何故か制服を着ている。
しかもこれ、高校どころか中学の時のだ。
アラサー間近の人間にこんなむごい格好をさせないでほしい。
それに私の体重は、あの時と比べるとゆうに10㎏以上は増量している。本当にありとあらゆる意味でキツい……。
「はずなんだけど、そこまでパツパツではないな……」
今の自分が中学の制服なんて着たら、全身タイツ着てるのかってぐらいピチピチになるはずだ。それなのに全然余裕に着れている。
もしかしてこの制服、わざわざ今の私の体型に合わせてオーダーメイドされたものなんだろうか。
まさか、この世の中にそんな気合いの入った変態がいたとは。
「それに心なしか身体が軽い……」
なんというか、普段の私ならステータス画面に「倦怠感あり」の表示があるのが常なのに、今は体力ゲージ満タンって感じだ。
駄目だ。
しばらく考えてみたけど、全然状況が把握出来ない。
「大丈夫ですか?」
顔を上げると、心配そうな顔をした松下先生と目が合う。
うわ、本当に懐かしい。
というか先生全然老けてないな。
「すみません、大丈夫です。あの、ところで今どういう状況か教えてもらってもいいですか?」
こうなったらもう直接聞いたほうが早い。
社会の歯車になってから身に付けた営業スマイルを浮かべ、先生に尋ねた。
何故か先生から、異質なものを見る様な目を向けられる。
「大鳥さん、受験のストレスそんなに酷かったですか?」
「え、受験?」
仕事じゃなくて?
その瞬間、私の脳味噌は途中式を用いらずに解を叩きだした。
オッケー。これ、高校の合格発表の時の夢ね。
制服のポケットをまさぐると、カサリと何かが指に触れたので引っ張り出す。
「2324」とだけ書かれた紙が出てきた。ビンゴ。
目の前に立っている松下先生、ではなく、その後ろにある掲示板を見る。
掲示板には4桁の数字がズラッと書かれた紙──紙の上部には「
その群れには加わらず、離れた場所から目を滑らせる様にして掲示板を眺めた。
2330、2332……2340、2342。
「……すみませんでした」
「え?」
「合格したことに驚いてしまって、ちょっと混乱しました」
そう言ってニコリと笑う。
不審者を見る目をしていた松下先生の顔は、一気に明るくなった。
「そうだったんですね! あまりにも挙動不審だったのでちょっと心配になってしまいましたよ。改めて合格おめでとう!」
よく通る声でそう言うと、松下先生は両手で私の手をガッチリ包んだ。女子中学生に過度なボディータッチは炎上しますよ。まあ、本当にただ感極まった故の行動っぽいから不快感はないけれども。
「ありがとうございます」
「大鳥さんは、入塾当初からずっと受験勉強を頑張っていましたね。あなたの頑張りが報われて、本当に嬉しいです。どうか高校でも頑張ってくださいね。ずっと応援していますよ!」
興奮で顔を真っ赤にさせた先生は、少し痛いぐらいに私の手をギュッと握った。
「……はい」
「それじゃ、僕はこれで。あと71人分の合格発表を見届けるために20校以上足を運ばなければなりません。本当におめでとうございます、大鳥さん!」
それ1日じゃ回りきれないだろ。
松下先生は駆け足で遠ざかりながら、姿が見えなくなるまでずっと「おめでとうございます」と言って、手を振ってきた。
しばらくその場に立ち尽くして、松下先生が向かった方角を見つめる。
「合格者の方は、手続きがありますのでこちらのほうへお並びくださーい」
声のしたほうを見る。メガホンを持ったおじさんが、ずっと大声を出しているせいでガラガラになった声で何度もそう言っていた。
「お、手続きしなきゃ」
おじさんに言われた通り、手続きの列に並ぶ。
列に並んでいるのは、勿論皆合格した人達だ。どの人も期待に膨らんだ表情で、4月から通う校舎を見つめている。
列に並ばずに最寄りの駅に向かっている人達とは対照的だ。声を出さずに涙を流している女の子が目に入り、シンと胸が冷たくなる。
あーあ、年を取ったせいか無駄に視野が広くなってしまった。当時は、ただただ自分の合格に狂喜乱舞することが出来ていたのに。
せっかく松下先生があんなに褒めてくれたのに、嬉しいよりも「周りに配慮してもう少し声を抑えてくれ」という気持ちのほうが強かった。夢の中なのに嫌な気持ちにさせてくれるぜ。
というか随分とリアルな夢だな。
所謂明晰夢ってやつ?
夢の中で何でも思い通りに出来ちゃうっていう。
目を閉じる。胸の前で両手を受け皿の様な形にして、大きなホールケーキを思い浮かべた後、そっと目を開けた。
「全然思い通りにならないじゃん。人生かよ」
両手には何も乗っていなかった。
なんだ、明晰夢じゃないのか。
じゃあただただリアルな夢ってだけ?
つ、つまんね〜。
私の一人ツッコミを不審に思ったのか、前に並んでいる男子がちらっと振り返ってきた。
って待て、この顔……。
「うわ、懐かしっ」
ひょっとしなくても、高3の時同じクラスだった
そうだった、こういう顔だったわ。
でも記憶の中よりも少し幼い感じだ。
高3になるまで面識はほぼなかったから、この幼い感じの灰瀬くんは見たことないはずなんだけど。
すごいな私の脳味噌、ちゃんと辻褄を合わせてくれている。
「懐かしいって、オレのこと?」
灰瀬くんは若干引いた顔をした後に、切れ長の目をきゅっと細めて首を傾げた。
……うわ、懐かしい。こういう感じだったわ……。
今度は声に出さないでそう思う。
人呼んでミスター人たらし。
二つ名は勘違い女量産男。
一番目立つわけじゃないけど、身長もあって顔もそこそこ整っている。
この進学校で成績は常に上位を維持、運動もそれなりに得意な嫌味な奴……かと思いきや、クラスの端っこでラノベを読んでいるオタクに「それアニメなら見たことある。オレこのキャラ好き」と話しかけるような気安さもある。
灰瀬くんは、どんな人間とも仲良くなれる、もといどんな人間でもオトすことの出来る恐ろしい人物だった。
なんというか、人気投票第2位みたいな感じだ。「あいつ意外と良い奴だよな」と思ってたら、普通に滅茶苦茶人気だったみたいな。
「小学校じゃないよな。もしかして幼稚園が一緒だった?」
「ごめんなさい、見間違いでした」
両手を合わせて謝ると「まあ世の中には似た人が3人いるって言うし」と軽やかに笑って、灰瀬くんは前を向いた。
危なかった。
「中学生に恋に落ちるアラサー間近の女」という怪物が生まれてしまったら、夢の中だとしても居たたまれない。
ところでこの夢はいつ覚めるんだろう。
そろそろ現実に戻ってゲロ処理したいんだけど。
現実を思って溜息をつく。夢と希望が溢れた世界から、酒とゲロに塗れた世界に戻るのはキツい。
よし、決めた。
せっかくだし、夢から覚めるまでとことん高校生活を楽しもう。現実に戻っても、楽しい事なんて無いし。
それに、さっきはああ言ったけれど。
『本当におめでとうございます、大鳥さん!』
久し振りに、期待のこもった目を向けられた。
私ってすごいのかもしれない。
だからもう少し頑張ってみようかな、と前向きにさせてくれる目。
「次の方、受験番号とお名前をお願いします」
いつの間にか列の先頭に来ていた。受付のお姉さんに、合格を心から祝っているような華やかな笑顔を向けられる。
「2342番、大鳥リツです」
ああ、これ、夢から覚めたら泣くかもしれない。
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