自分にとっての『小説』とはなんでしょう。何の為に自分はわざわざ自分の時間を賭して『小説』を書いているのか。この疑問に対して、人の解答は千差万別です。優劣はありません(好きにすりゃあええんとちゃいますのん)。わたしの中学時代の師(担当教科は国語)は『小説』を『膿』にたとえていました。当時のわたしは「そうかなあ?」と思ったものです。この時書いたもの=処女作の完結済み長編はすでに焼却処分されてしまいましたが、この時に出来上がっていたものを世に放っていたら、現在のわたしはどこにいたのだろうと考えることはあります。
そんなものタラレバなんですけどね。
また、ある人は『小説』を『糞』にたとえていましたし、ある人は「出来上がったものに愛着はない」としていました。同じ人間でもこうも違うのですから、人間同士が真に分かり合うことは難しいのでしょう。
〝擬える〟
という文化が日本にはあります。
〝見立て〟という仮定、重ね合わせ思考で物事を理解する手法です。
このエッセイを理解する際には必要かもしれません。
またこのエッセイは、様々なフレーバーが多めです。
ときには偏向や歪曲や露悪の要素があります。
ただそういう形式というだけです。
内容には論理構造があり、ちゃんとした帰着点まで、読者を連れていきます。
結論から言うと、刺さる方には刺さる。
ときに慧眼に唸る。
そんな作品です。
正調なエッセイではないと思います。
万民の衆目に適してはいないかも知れません。
だけど、在って良かったと思える。
そんな作品です。
まずはご一読ください。
「シバシバ」とは何ぞや? 当然の疑問であろう。
目がシバシバしてるってこと? この作者、宇宙人らしいのに、目がシバシバなんてしてたら、まともに宇宙遊泳できるのかしら。そう思う人も多いだろう。
しかし、そんな意味ではない。
「シバシバ」とは人名である。
司馬遼太郎、柴田亜美、あと芝さん。これを人は日本三大シバと呼ぶ。
芝さんとは、拙著「クトゥルフお母さん」三十一話にて、主人公麓郎にマヨネーズ好きと同調するも、麓郎がマヨネーズ好きを責められると速攻で逃げ出すという人物のモデルなった、筆者の知り合いのことだ。
この三人の中で芝さんを除いた二人が「シバシバ」という。
それを聞いた皆さんは、「ジバクくん」への骨太な考察が展開されることを期待するだろう。正解である。
とはいえ、その内容はまだ書かれていない。なので、この書店の最前列に立ち、更新を待ってはどうだろう。
充実した読書体験が得られるはずだ。