名状しがたい道標

夜明朝子

000 接吻

 珍しい作品が来日したのだと、ニュースで話題になっていた。芸術の秋に似つかわしい、美術館の賑わいの中に青年は立っている。紅く色づくその葉を仰ぎ見みてみれば、そよそよと泳いでいるようだった。今日は、風が強い日だ。誰かが掃除をしてくれているのだろうが、それでも追いつかないほどに葉は風に揺られ落ち、その短い一生を終えている。

 人々の足は、それを地面に色が付いてしまいそうなほど強く踏み潰し、絨毯を作っていくのだろう。

 青年の持つ凝ったデザインの入場券は、黄色が一面にデザインされている。今日の企画展は、「黄」がテーマだった。青年は一人、柔らかい微笑みを浮かべながら受付へと赴き、その券を差し出した。館内は白を基調とした空間で、企画展までの渡り廊下には、その先を照らす太陽光を取り入れるためか全面がガラスで埋め尽くされている。

 黄色といえば、やはり真っ先に浮かぶのはゴッホの「ひまわり」だろうか。それとも、「夜のカフェテラス」? モネの描いた「睡蓮」の中にも黄色を基調としたものがあったはず。それから、あまり知られていないが……ウェンリル・ディゴリー作の「星間宇宙の帝王」などだろうか。事前情報を一切合切見ずにやってきたため、実際には何が展示されているのかわかっていない。

 青年は美術館の空気が好きだった。作品も無論面白いのだが、何よりも豪奢なものが収められているという事実が好きだった。学芸員たちの手で、それぞれの持つ個性を完璧に発揮できるような、動線を作り、調光をし、解説も書かれている。

 誰にもとらわれず、悠然と美術館を漂う青年は、ローファーで床を跳ねてゆく。心が躍るようにして、身も踊るようだった。

「星間宇宙の帝王……って、これかな」

 ウェンリル・ディゴリー作。

 数々の名だたる画家の中で、青年にとっては聞き馴染みのない作家の作品に興味を持ってみた。無限とも言える宇宙を描くそこには、なぜか。不思議に思って首を傾げていると、傍に一人やってくる。

「お目が高いことだ。お兄さん」

「……そんなに有名な方なんですか?」

「いや? ちっとも」

 青年は僅かにそちらへ目をやった。そして、うっとりと目を三日月にするその男と目があった。見たところ同い年に見えるが。

「この絵にはおそらく語るべきところがあるはずなのだが。誰の目にも留まらない」

 嘲笑にも聞こえるような、くす……という笑いをした後、男は絵画に目をうつす。そして、絵画から流れる音楽を聞くようにして目を閉じて息を吸った。まるで、無限にも広がる青黒い宇宙に浮かぶ僅かな黄色い星を吸い込むようにして。

「それは、少し悲しい気もしますね」

 他の絵とは違い、「黄」が全面的に押し出されているわけではない。しかも、星が黄色であるなど、いかにも幼子の考えそうな絵であるのだが。しかし、無性に惹かれるものがあるのも確かだった。

「そこに描かれているのは、牡牛座タウラスだね。ヒアデス星団はここだろう。そして、アルデバラン。その先に伸びるV字型が特徴的だ」

 男は、指で指し示しながら青年に語り聞かせる。

 一方で、青年は話を聞きながらも、男の存在そのものに興味をもち、じっくりと観察していた。まだこの時期にしては暑そうな格好だが。ベレー帽に、マフラー。ケープコートを見に纏う姿は、少々暑苦しさを感じる。どうやら首からはメダリオンのようなものを下げているように見えるが。何より気になるのは、包帯で隠された右目である。男は、青年の左側に立っているため、真正面を向かれると、表情が読み取りづらくなってしまうのだった。

「この牡牛座タウラスという星には、ある一つの神話が存在しているのは、ご存知かな?」

「いえ、まったく」

「では、ゼウスという神は知っているだろうか」

 青年が、それなら……、と返答すれば、満足そうに頷き、男は続ける。

「この牛は、ゼウスが変身した姿なのだよ。美しい女神、エウロパを落とすためにね」

 ギリシア神話の話なのか、と青年は納得する。

「白い毛の牛になったゼウスは、エウロパに近づく。すると、静かに身を地と付けて待っていた。エウロパは、恐る恐る近づくが、大人しい牛に一種の安堵をして、静かに腰を下ろす。だが、それが罠だったのだ」

 神話の世界は、なんとも勝手だと、青年は他人事のように感じているばかりだった。

「途端に、牛は立ち上がり、遥か遠くへと旅立ってしまう。そうなってしまえばエウロパは、振り落とされぬように必死に牛の角を握るほかあるまい」

 男は、絵に手を差し出しながら、青年に物語っていた。一つの神話、一つの愛の話を。

「野を越え、山を越え、海を越え……そうして辿りついた陸地で初めて、牛は本当の姿を表す。それが、ゼウスだったというわけだ。美しい星座に隠された物語は、時に残酷な人間の心を表す」

「そういうものですよね、世の中って」

 青年は、うまい返しができているだろうか、と途端に不安になる。じんわりと感じる不安は、青年の危機感の表れであった。

 この男は、普通じゃないし、関わらない方がいい。

 そうは思うものの、無断で去っては印象が悪い。ましてやこの絵に興味を持っているのは、現状自分とこのおかしな男しかなく、人混みに紛れることもできない。

 ただ、ゆっくりと芸術に触れる高尚な真似をしてみたかっただけだったはずがなぜこんなことに。青年は、苦笑いをした。

「今じゃ、ただの誘拐の物語というわけだ」

「そうですね。お話、ありがとうございます。……それじゃあ」

 青年は、その場から立ち去ろうと適当に相槌を打って去ろうと、右へ一歩踏み出した。

「ところで……。お兄さん、どうやら」

 男は、青年の腕を掴み強引に引き留めた。

 これじゃあ、自分がエウロパのようではないか! 青年は、目を見開いて怪しい男を捉える。男もまた、青年の心を見るように、顔を近づけ観察する。

「もう一つの神話を知っているね?」

「もう一つの、神話?」

「そうさ。羊飼いの神の話を」

 青年が、理解できず目を数度瞬きさせると、男は手を離して、はは……と渇きすぎた笑い声を出した。

「もしかしなくても、辻村つじむら海衣かいくんだろう。絵本作家の。以前に君の作品を見たことがある……いや、本なのだから読んだことがあると言った方がいいのかな。『しあわせなひつじかい』という作品だったか。つい最近、発売されていたね」

 青年は、いっそう驚いた。

 なぜならば、男が言ったその名。それが、青年の本名だったからだ。

「なんで、わかったんですか?」

「ぼくは、鼻が良いんだ。香る気配が絵本と同じだったからかな」

 残念ながら、目は一つ奪われてしまったが。などと、決してジョークには思えないことを言いながら、男はツン、と右手の人差し指で鼻に触れた。

 青年——辻村海衣は、男の話す言葉が全て異国の言葉にしか思えないくらいだった。全くもってわけがわからない。

「確かに、そうです。俺は、辻村海衣です。けど、匂いなんて、あるんですか?」

「似ているが、違う。“匂い”ではなく、“香り”なんだ」

 同じ物だろう、と心では思うものの、海衣はあえて口にはしなかった。

「……せっかくだから、もう一つ。海衣くんと見たいものがある。残念ながら展示されているのは、本物ではないのだがね。ただ、君の心を揺さぶるものであるのは間違いないはずだ。着いてきてほしい」

「そこまでいうなら。わかりました」

 数々の絵画を颯爽と通り過ぎながら男は、一際広い空間へ向かって行く。

 そういえば、牡牛座の話はしたが、結局のところ“星間宇宙の帝王”とは誰だったのだろう? ゼウスのことだったのだろうか? だとすれば、帝王ではなく別の表現がある気がする。

 呆然とそんなことを考えていると、ふと、男は立ち止まる。すべやかな手を差し出して海衣を先へと促した。

 そこには、スクリーンいっぱいに映し出された「黄」の絵があった。

「これこそまさに、不平等で、自由。そして不自由な、愛の絵さ」

 海衣は、静かに絵を楽しむよう、目を細める。

 絵に使われるこの「黄」という色は、不思議な色だ。人々の心を興奮させる。それは、すぐにでも金と合わさりそうだからなのか、それとも注意や警戒を促しているからなのか、溌剌な印象を与えるからなのか。

 そこにある絵に、海衣は不思議と引き込まれていった。

「グスタフ・クリムトの描いた黄金の絵画……。これこそが、この企画展の行き着く先だ」

 そこに映し出されていた絵は、男が女に接吻キスする絵画。

 まさしく「接吻The kiss」であった。

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