勇者チヒロの知られざる物語
新巻へもん
第1話 帰るところのない少女
声にならない声をあげながら巨大な姿の魔神がゆっくりと倒れてゆく。
見上げる位置にあった頭が地面に打ちつけられ地響きを立てた。
舞い上がる砂埃の中で、深淵のような闇をたたえた3つの瞳がまぶたに覆われる。
牙の生えた毒々しい紫色の唇が痙攣し、それまで吐き散らしていた呪詛の言葉は空中に虚しく消えた。
「勝った……」
自分の口から洩れる言葉が信じられない。
魔神討伐に赴いてきた仲間が満身創痍の体を辛うじて動かしながら集まってくる。
西方王国の王子であり剣の達人であるマイルズ、皮肉屋で頑健な体のドワーフのカムリ、酒場で潰れているおじさんにしか見えないが高位神官のアンディ、一見常識人ぽいが実は頭がぶっ飛んでいる魔法使いのシャール、そして勇者のチヒロ。
チヒロの黒真珠のような目から涙があふれ出す。
埃にまみれた顔に2筋の跡がついた。
「みんな。みんな。生き残って良かった……」
どんなときにも諦めない頑張り屋さんで、見知らぬ世界に強制的に連れて来られたのに、いつもムードメーカーだったチヒロ。
一人一人に抱きついてわんわん泣いている。
マイルズは端正な顔をちょっと赤らめ、カムリは仏頂面で皮肉を言う。
アンディはアワアワと「私には妻が」と慌て、シャールはハンカチを差し出した。
最後に私のところにやってきたチヒロの顔は、ハンカチを使っても涙と鼻水と埃でぐちゃぐちゃである。
せっかくの可愛らしい顔が台無しだった。
「シンディ」
私の首元に顔を埋めて激情の波に揺られているチヒロを抱きしめる。
肩のところで短く切りそろえた艶のある黒髪をなでた。
まるで上質な布のような肌触りが心地いい。
何日も荒野をさまよってきた体からは獣のような匂いを発しているが、不思議なことに決して不快ではなかった。
「石に変わるまでそうやっているつもりかの?」
カムリが巨大なハンマーの柄の先に両手を乗せその上に顎を預けながら余計なことを言う。
「あんたみたいな武骨なドワーフには分からないでしょうけどね。この子はずっと大変だったんだから」
「そんなことはとうに知っておる。それに血の冷たいエルフには言われたくないのう」
「なんですって?」
私とカムリが火花を散らすとシャールが割って入った。
「まあまあ」
ひょろりとしたアンディがのんびりした声を出した。
「今日の回復魔法は品切れです。これ以上怪我を増やさないでくださいよ」
「そうだよ。せっかく偉業を達成したんだ。都に帰って、みんなに祝福してもらおうよ。さあ、チヒロ。指示を出して」
「ごめんなざい。うれしくで取り乱しちゃった。そうだね。帰ろう」
魔神の住処である険しく切り立った山から人里に出るまでに3日かかった。
村では私たちの無事な姿を見てお祭り騒ぎになる。
遠くに見える魔神の住む山にかかっていた不気味な黒い雲が晴れたので討伐には成功したのだろうと期待していたが、全員無事かどうかやきもきしていたということだった。
髪と体を洗ってベッドで睡眠をむさぼるとやっと生き延びたという実感が湧いてくる。
その村から馬車に揺られて都に向かった。
魔神が倒されたという噂はあっという間に広がり、行く先々で私たちは歓呼の声で迎えられる。
都への旅の間、カムリとアンディはいつも酒の匂いをさせていた。
ドワーフはまあドワーフだから仕方ないとしても、厳しい戒律を守らなければならないはずの神官がそんなことでいいのかという疑問がわく。
まあ、人間の世界は良く分からない。
何が楽しいのかガブガブと酒杯を空けていた。
シャールは暇さえあれば魔神の住処で見つけた分厚い魔導書を眺めて至福の表情を浮かべている。
水で薄めた葡萄酒を舐めながら、魔導書をめくって変な笑い声をあげた。
イヒヒとかムフフとか奇声を発しながら頬が緩み、目には見てはならない光を宿している。
将来こいつを討伐することにならなければいいがと心の底から心配になった。
そしてチヒロとマイルズは大抵いつも一緒に居た。
マイルズがこの世界のことをまだよく知らないチヒロに色々なことを話してやっている。
人間の王子様はその育ちに相応しい態度をしていた。
礼儀正しく、穏やかで、人間の世界の基準でいえば美しい範疇に入る。
その仲の良さそうな様子を隅のテーブルから眺めているのが私だ。
あと1日で都に着くと言う日、酔っぱらい2人がたまには付き合えよとマイルズに絡み自分たちのテーブルに拉致して酒を飲ませ始める。
シャールは相変わらず魔導書をめくってはハアハアと喘いで危ない表情をしていた。
チヒロが1人になると私は自分の杯を持っていそいそと側に寄っていく。
夢見るような目つきでチヒロは言葉を紡いだ。
「これで長い旅も終わりだね。まるで昔話の主人公になった気分。モモタロウとか……」
「そのモモターロウというのは?」
「んー、私の世界のお話で人々を苦しめていたオニ退治をするんだ。悪いオニをやっつけて故郷に帰っていくの」
「その後は?」
「お話は家族と幸せに暮らしました、で終わってるんだ。オニ退治をしてもモモタロウの人生は終わらないし、物語は続くはずなんだけどね。そういう話は幸せに暮らしました、で終わりなんだ」
チヒロの表情は勇者の顔からすっかり普通の女の子のそれになっている。
いつも重すぎる責任を果たそうと頑張っていた姿にも惹かれたが、こうやってただの少女に戻った方がずっと自然で素敵だった。
人間というのは私たちからすると粗野で野蛮であるとされている。
そんな人間の中では、エルフの繊細さは持ち合わせていないものの、チヒロは別格だった。
「この後、チヒロはどうするんだ?」
「そうだねえ。魔神を倒すというお役目は果たしたから後は自由にさせて欲しいな。もう元の世界には帰れないらしいし、今まで見てこられなかったところを好きに旅をしたい。きれいな所が一杯あるってマイルズが言ってたから」
私は心の中で、チヒロに過酷な運命を与える神を呪う。
見知らぬ世界に一人連れて来られて責任を果たしても、もう自分の慣れ親しんだ場所には戻れない。
この境遇は一人の少女に与えるには辛すぎるだろう。
私はためらいながら次の質問をする。
「その……その旅にはマイルズと一緒に行くのだろう?」
「マイルズは王子様だよ。たぶん無理じゃないかな」
「でもチヒロと仲がいいじゃないか」
「親切だし、紳士だからね。やっぱり育ちがいい人は違うって思う。私とは住む世界が違い過ぎる」
私は喉に引っ掛かった言葉を押し出す。
「都に戻ったら結婚するのかと思っていた」
チヒロは弾けるように笑いだす。
「やあねえ。シンディ。冗談が過ぎるわ。私にお妃が務まると思う?」
「何の問題もないと思うが」
「無理無理。お妃さまみたいな上品な仕草なんて絶対に無理」
私の心臓が早鐘を打ち出した。
こんなセリフを口にすべきではなく、大人しくエルフの里に戻るべきだと理性は告げている。
しかし、心は解き放たれ力強く羽ばたき始めた。
「チ、チヒロ」
「なあに?」
いつも誰かの為に涙を流していた瞳がまっすぐに私に向けられる。
「もし、良かったら。チヒロの旅に同行させてもらえないだろうか。私も人間の世界のことは良く分からないし、かえって足手まといかもしれないけれど」
本当はもうちょっと踏み込んだ言葉をかけたい。
けれど今ではこれが精一杯だった。
「え? シンディが? そんな、悪いよ。故郷で待っている人がいるでしょ? それ、本気なの?」
「私は本気だ。私たちがこの戦いで培ってきた友情は本物だよ」
本当は友情という以上の言葉を使いたかったが、この期に及んでついつい言葉を変えてしまう。
いきなり重い感情をぶつけられても困るだろうと想像するだけの理性はまだ残っていた。
「うーん。突然過ぎて混乱しそう」
チヒロは頭を抱え眉根を寄せて考える。
永遠のような一瞬が流れた。
「ま、いっか。どうせボーナスステージだし。刺激があっていいかも。それじゃ、よろしくね」
チヒロは私の手を握りしめる。
私は呪ったばかりの神に感謝の祈りをささげ、二人のこれからの物語に幸多からんことを願った。
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