第3話

 戌の刻。平安京みやこは静寂に包まれていた。

 闇の中をゆっくりと移動する牛車は、月明かりと牛飼童の持つ松明の灯りだけを頼りに進んでいく。

 漆黒の夜空には、黄金色に輝く満月が姿を見せている。その分、いつもより明るさはあった。

「篁様、本当に乗らないでよろしいのですか」

 牛車の脇を歩く阿母が、隣を歩く篁に声を掛けてくる。

 篁は牛車というものがあまり得意ではなかった。ガタガタと揺れるということもあるが、あの狭い空間に閉じ込められているような感覚がどうも苦手であり、なによりも歩いた方が早いと思ってしまうのである。

「せっかく牛車でご一緒できると思っておりましたのに」

 屋形の小窓を開け真己未が顔を覗かせながら言う。

 ほんのりとこうの匂いが、篁の鼻腔へと届いた。いつもの真己未の匂いである。

 真己未と屋形の中で二人っきり。そのようなことがあり得るのだろうか。相手は中納言三守の乙姫である。それに対して自分は文章生に過ぎない。本来であれば、口を利くことも許されないような相手なのだ。二人っきりで牛車に乗っていることを想像した篁は頭を左右に振るようにして、その妄想を振り払った。

 しばらく歩き、篁たちが三条通に差し掛かった頃、どこからか龍笛りゅうてきの音色が聞こえてきた。その音色はどこか寂しげなものがあった。

 その音色とは裏腹に、何か嫌な気配が漂いはじめている。

 ふと何気なく空を見上げると、先程まで黄金色に輝いていた満月は赤く染まっていた。その色はまるで血のようなどす黒い赤であり、不気味なものであった。

「篁様!」

「ああ、わかっておる」

 狼狽したような声で阿母が自分の名前を叫んだ時には、篁はすでに腰に佩いた太刀を抜いていた。

 闇が蠢いていた。次第にそれは形となっていき、黒冥禍たちが姿を現す。黒冥禍たちが現れる条件というのはわかってはいなかった。ただ、やつらが冥界から来ているということだけはわかっている。だから、その扉を閉じなければならないのだ。

「阿母は牛車を守ってくれ。私は奴らを叩く」

「わかりました。お気をつけください」

 阿母に牛車の守りを任せると、篁は太刀を構えてこちらに向かって来る黒冥禍たちを斬っていった。

 黒冥禍たちを操るものがどこかにいるはずだ。篁はその人物を探しながら、寄ってくる黒冥禍を片付けていく。

 篳篥ひちりきの音だった。先ほどの龍笛に続き、また寂しげな音が聞こえてくる。この音は何なのだろうか。そんなことを思いながら、篁は黒冥禍たちをひとり、またひとりと斬っていく。

 やはり幾ら倒しても、次から次へと黒冥禍たちは姿を現す。キリが無い。

 ちらりと牛車の方へ視線を向けると、阿母が守る牛車の周りにも黒冥禍たちが押し寄せてきていた。

 このままでは数で押し切られてしまう。阿母のところへ戻り、牛車を救おう。そう思った篁が踵を返そうとした時、どこからか美しい声が聞こえてきた。

 歌だった。それはこの国の言葉ではない異国の言葉であったが、その歌声はとても哀しいものに聞こえた。

 すると不思議なことが起こった。黒冥禍たちが次々に倒れ、闇の中へと消えていくのである。

 一体何が起きているのか、篁にはわからなかった。

「どういうことでしょうか、篁様」

「私にもわからん」

 牛車のところまで戻った篁は阿母と顔を見合わせた。

 少し先の辻のところに火が灯っていた。誰かがこちらへと近づいてくる。

 人影はふたつ。背の高い影と低い影だった。

「このような場所で、どうかいたしましたか?」

 小さな影の方が声を掛けてきた。その声は低く妙に響きのある老人のものであった。

 松明の灯りがその影の主の顔を照らす。

 そこには背の低いおきなが立っていた。

「このような場所と言われたが、ここはどこなのですか?」

 篁は太刀を鞘に収めながら、翁に問う。

 すると翁の隣りにいた背の高い影がゆらりと動いて、篁の前に姿を現した。

「ここは、ただの四つ辻ではありません。現世うつしよ常世とこよの境目。貴方たちはそこへ迷い込んだのです」

 背の高い影。それは女性だった。歳の頃はわからないが、長い黒髪で瓜実顔の女性が篁の問いにそう答えた。

「歌を聞きました」

「それはわたくしの歌ったものです。常世のモノたちは私の歌を嫌いますゆえ」

「助かりました。して、ここから出るにはどうすれば?」

 そう聞いた篁の顔をじっと見て、女の方が口を開いた。

「貴方様は、小野篁様でございましょうか」

「私のことをご存知なのか」

「知っているも何も、貴方様のことを私達はこちらでお待ちしていたのです」

「私を待っていた……何者だ?」

 篁は警戒をした。まさか、このふたりも冥府から来たモノたちで、自分たちのことを邪魔しようとしに来たのではないだろうか。そんな疑念を覚えつつ、篁は先ほど収めたばかりの太刀へと手を伸ばした。

「お待ち下さい。なにか誤解をされているようじゃ」

 慌てて口を開いたのは翁の方だった。

「誤解?」

「我々は刀岐浄浜殿の知り合いじゃ」

「なんと……。これは失礼いたしました」

 篁は力を抜き、太刀へと伸ばそうとしていた手を止めた。

「浄浜殿は、貴方たちが戌の刻にこの辻を通るから、出迎えよと。ただ、この地は迷い人も多く、篁様かどうかを確かめるすべがございませんでした。それに聞いていた話では、篁様はひとりだと……」

「そうでしたか。これは失礼いたしました。こちらは……」

 篁がそう口にすると、ゆっくりと牛車の御簾があげられ、中から真己未が姿を現した。

「藤原真己未と申します。その従者は阿母にございます」

「わしは、尾張おわりの浜主はまぬしと申します。こっちはわしの娘で……」

「尾張汐乃しおのと申します」

 そう名乗るとふたりは篁に頭を下げた。

 篁には尾張浜主という人物の名前に聞き覚えがあった。たしか、孝謙こうけん天皇の頃に雅楽の蘭陵王らんりょうおうを舞った伶人れいじん(楽人)に同じ名前の人物がいたはずである。しかし、孝謙天皇の時代は今から六〇年以上も前のことだ。もし、そこでこの老人が踊っていたとしたら、いまの年齢は八〇を超えているはずである。しかし、その見た目は翁であるものの八〇を超えているようには見えなかった。

「先ほどの歌は?」

「あれは唐の歌にございます。魔除けの歌とも呼ばれており、父が唐に渡った際に学んで来たものです」

「なんと、唐の歌でしたか。あの歌のお陰で我々は助かりました」

「ここで長話をしていると、また連中が出てくるやも知れません。ひとまずはここを出ましょう」

 尾張浜主はそう言うと、自分に着いてこいという感じで辻の向こうへと歩きはじめた。

 篁と阿母は牛車と共に浜主の後を追いかけて、辻へと向かった。

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