第16話 幕間

 目を覚ましたエタは、やっぱり何も覚えていなかった。


 川沿いを歩いているうちに、突然意識が持っていかれるような感じがしたそうだ。私の中の彼女がエタを殺したことも、私がエタを蘇らせたことも、ただいまの約束ももちろん覚えていない。


 エタが死んだように眠っていたことを話すと驚いてはいたが、どちらかといえば嬉しそうだった。夢には、私が出てきていたらしい。


「それで、夢の中の私は何をしていたんですか」


 私たちは再び川に沿って歩き始めていた。


「それが思い出せねえんだよ。花見の時みたいに何か食っていなかったか?」


「私、そこまで食いしん坊じゃないです。まあ、夢の中の話ですし覚えていないのも当然かもしれません」


「しかし、この世界で寝ることなんてできたのか」


 天を仰いでも、煌めく紫煙の光景は代り映えがしなかった。この地域一帯は全部この空で、もっと遠くの地域だと植生と共に空の容貌もガラッと変わるそうだ。実際、エタは碧々とした草原に一面に広がる蒼穹の景色や、燻ぶった色の空に大きな歯車が機械仕掛けのように動いている遠景を見たことがあるらしい。


「そういえば私たちはどこに向かっているんでしたっけ?」


 私は、巖咲で譲り受けた長銃をさすっていた。


「お前が海を見てみたいって言ったんだろーが」


「川の先には海がありますから」


「水場も確保できて一石二鳥」


「ちょっと意味が違います」


「こまけーこたァどーでもいい」


「それに、私の身体は海の近くにある気がするんです」


「どういうことだ」


「うっすらと思い出すんです。上を見ても下を見ても一面が真っ青な世界……」


「墓が海中にあんのか?」


「さあ、詳しいことは分からないものでして」


 エタは包丁を腰に携えているが、周りの幽霊に対して不干渉を決め込んでいた。少し前は、全滅させるような気概だったが、灰汁が取れたのか多少落ち着いている。


 名も知らぬ河川は行き先に沿って静かにせせらいでいた。その周りには様々な植物が背を伸ばしている。緑が萌ゆるカヤツリグサ、風になびくアシとエノコログサ、元気がなさそうなヒメジョオン、まとまって生えるミゾソバの花。


 向かい風が二、三吹いたとき、ふとエタの過去が知りたくなった。彼が一人になる前、孤独と絶望に苛まれる前。


「ところで、エタは海を見たことがあるんですか?」


「見たことねえ、というより覚えてねえんだ」


「覚えてない、ですか」


「お前に出会ったときも言ったが、俺は過去のことなんて何も覚えてない。死ぬたびに、生き返るたびに記憶が曖昧になるんだ。死ぬときの記憶が生き返るときにフィードバックして、ぐちゃぐちゃになんだよ。そうやって何か忘れてはいけないモノも、きっと忘れちまった。この蘇生能力の由来も出自も本名すらも……」


 エタは少し寂しそうな顔をしていた。


「でも、もういいんだ。やるべきことは忘れてねえ。お前の名前も約束も覚えている、スミレ。それに、もし忘れちまっても、お前が思い出させてくれるだろ」


「……もちろんです!」


「結構歩いたし、そろそろ飯にすっか」


「え、いいんですか!?」


 エタからの初めての提案だった。何かと急いだり、必要がないと言っていたが、エタの発言で休息が取れることは単純に嬉しかった。


「別に無理に急ぐこともないからな。俺は食べる必要もないから、一人で食べてくれ」


 まだ炊いていない米も含めてご飯はたくさんある。巖咲でいただいた余り分だ。


 スミレは笹の葉にくるまれたおむすびを一つ、自身の中から取り出した。


 この世界では餓死する心配がないため、うつろな空腹感を満たすためだけに食べるのだが、スミレにとっては物足りない。


「一緒に食べましょう」


 エタに差し出されていた左手には、半分に分けられたおむすびの片割れがのっている。


「一口だけな」


 仕方がないと言わんばかりのため息までしていたが、内実はまんざらでもなさそうにおむすびをかじったエタを見て、スミレは微笑んだ。




 途中で休みを入れながら、長らく歩いていたスミレの目に一人の霊魂が映った。


 桃色の魂が、川の真ん中を行ったり来たりしている。


 魂には色があって、感情や未練によって色が変わっていたはずだ。


 巖咲の霊は悲哀や不安の青系統、捕食霊は怒りの赤や絶望の黒だった。周りの幽霊は基本的に透明、すなわち未練なしなので、色がついているだけでも気がかりの一端になる。


「気になんなら話ぐらいなら聞いてもいいぞ」


「バレてました?」


「視線と挙動で瞭然だ。面倒なら手を引かせる」


「分かりました行ってきます」


 一つ返事で桃色の霊魂まで飛んでいく。


 大人の足もつかない深い川の低空で件の霊は右往左往している。落とし物を探すかのように、行っては戻り進んでは退き、そんなことを延々繰り返しているから気になったのだ。


「ここで何をしているんですか」


 優しく声を掛けたつもりだったが、そこの霊はスミレが思っていたより人見知りの所為か、水から陸地へ逃げるように去って行った。


 しかし、都合の悪いことに逃げた先には、様子をうかがっていたエタが立ちふさがっていた。


「んだァ、こいつ」


 人を殺す面に直面し、命の危機を感じた霊は90度向きを変えてだだっ広い草原への逃走を図る。しかし、エタは先手を打って霊の行先に包丁を投げる。


「…………!#$%&@*???」


「そう逃げんな、話を聞くだけだ」


 このとき、霊は本能的に死を悟った。


「…………」


「エタ、だめですよ」


 嫌な予感を察してか、スミレが二人の間に入る。


「まだ何もしてねエ」


「嘘。包丁をこの子に向かって投げましたね」


「確かに投げたが、攻撃の意図は無え」


「それは知ってますが、この子が怖がっています」


「そんなに俺がバケモノに見えたか?」


「まさか。でも初対面に刃物を投げつける人は私だって怖いですから」


「……それは悪かった。すまない」


「謝れてえらいです」


 巻き込まれた霊には目の前の二人組が何をしているのか分からなかった。少女の幽霊と大柄な男が二人して襲ってきたのかと思えば、小さい方が大きい方を諫めて頭をなでなでしている。その光景が理解できずに、唖然としている。


 男の頭を撫で終わった少女の霊は、申し訳なさそうに話しかけてきた。


「急に話しかけてすみません。その、あなたが困っているように感じたので」


 見た目の年齢より精神は大人びていると、水色が混じった桃色の霊は思った。隣にいる男をなだめ、話しかける思慮の分別がついている。何より、この少女は惹かれてしまう何かを持っている気がした。


「改めて、あの川の上で何をしていたか聞いてもいいですか?」


「恋文を……探しているの」

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