二十六、理外
ぱち、ぱち、ぱちっ……。
何かが細やかに爆ぜる。その度に、乾いた熱がふわりと顔に触れた。
左慈は酷い頭痛に呻いた。背中に感じる硬い感触から、自分が浜辺に横たわっていることを自覚する。そうであればと、考えるよりも先に身辺をまさぐり、そこにあるはずの柔らかさを探し、
「——————っ!」
己の身に起きたこと思い出して、弾かれたように半身を立てた。海に呑まれた苦しさがぶり返し、咄嗟に大きく息を吸えば、勢い余って咽せる。喉の奥に残った海水が鼻腔をつんと刺激した。気を失っている間に吐いたのか、口の中が酸っぱい。咳き込むほどに頭痛がじくじくと増して、
「目ェ、醒めたか」
ぱちっ。
傍らに
すっかり日は暮れて、宵の空には西に傾きかけた上弦の月、そのつるりとした光に薄白い千切れ雲が泛んで細くたなびいている。仄暗く寒々しい中、焚き火の熱が左慈の狼狽を少しずつ溶かした。左慈は海水に濡れて冷え切った木綿を上半身だけ脱いで、焚き火から離れたところでいくらか絞り、また老婆の傍へと戻って片膝を立てて座った。巫女婆が無言で、竹筒と、ひとつまみの乾燥した葉片の包まれた紙を左慈の足元に置いた。戸惑いつつも竹筒に手を伸ばすと、「生薬も飲め」と指図され、竹に入った真水とともに葉片を喉の奥に流し込んだ。そこでようやく、酒と海水のせいでひどく喉が乾いていたことに気づき、竹筒の中身を全て飲み干した。左慈が長く深く吐息してひと段落するのを、巫女婆は沈黙して見つめていた。
「————俺は……いや。あんたが、助けてくれたのか」
辺りには誰もいない。左慈は巫女婆を怪訝に見つめ返した。すると彼女は、ハンと口をへの字にしたまま鼻を鳴らした。
「おれが、おめを海から引き上げられるわきゃあねえよ」
「なら、誰が」
「暮れにお社の下で、妙に波が騒いでたかんな。最近は何をお伺い立てしても凶兆続きだもんで、気になってこっちに降りてみれば、おめが打ち上げられていた」
言葉を咀嚼する様にもごもごと口を動かしながら、巫女婆は上目がちに左慈を一瞥した。
「そう、そうだ……俺の他にも、小さな娘たちが高潮に……! あいつらは」
自分の見たものをまくしたてようとした左慈は、しかしこちらを見つめる巫女婆の表情に怯んで口をつぐんだ。焚き火を映して鈍く光る老女の二つのまなこが、忌々しげに歪められ、そして諦観の色を包含していた。
「あの磐座は、影海様の依代——御霊の宿る器だべ。依代は、あの磐座でなけりゃあなんねえ。なのにその理を……おめ、崩したろ?」
どん、と心臓が身体の内側から左慈を激しく叩いた。左慈は何かを問い返そうと口を開くが、何も言えずに吐息だけ洩らす。巫女婆は憐みの表情でそれを一瞥し、ゆっくりと影海神社の高台を見上げた。
「おめが、あの磐座から影海様の御霊を引き剥がしちまった。……んだから海が、磐座にあらたなる影海様宿そうとしてんだあ」
巳浦の海岸から、あの穴の空いた御神体は見えない。しかし頭蓋を震わせるような荒潮が高台の膝下にぶつかる音、弾け散った波のべちゃべちゃと降り落ちる音は、生きながらえた左慈を探す足音のように押し迫って聞こえた。
「近海の安寧を保つ御霊は依代に宿る。依代にゃ御霊が宿ってなきゃあ、安寧は崩れる。…………あらたな御霊の礎に、欲も穢れもまだ知らねえ清い魂が海に呼ばれてった」
穴ぐらに迷い込んだ娘たちを掴み取るように流れ込んだ潮流を思い出し、左慈は全身の肌が粟立った。肺を掻き混ぜたような胸やけに吐き気を催す。座ったまま腰を折り、片手を地につけ不快感に耐えながら、血の気の引いた顔で巫女婆を睨んだ。
「あんた、知っていて、止めなかったのか……!」
怒りに声を掠れさせる左慈。だが老いて弛んだ口からは、「おめが、おれを
「おめみてえな、不憫な性分の漁夫はたまにいる。んだが大抵は……御霊を引き寄せる前にくたばっちまうか踏み留まるかだ……おめの親父みてえに」
「なんで、親父が出てくる……」
少し前にも父の話を聞いた気がして、巫女婆の言わんとすることを掴めずに左慈は眉を顰めた。巫女婆は、「親父みてえにうまくやれってこった」と言いつつ、それも叶わないだろうと言うように口を窄めて肩を落とし、狼狽に瞳を揺らす左慈をちろりと目だけで見上げた。
「娘っ子捧げ奉ったって、すぐにゃあ海は落ち着かね。幾星霜かけて影海様信じて、有難がって、畏れて……そういう祈りが折り重なって、ようやくあらたな御霊が顕れんだべ。んだからほんとは、おめが影海様の御霊持ってんなら、手放すのが一番いい…………」
なだめる声は不機嫌だが、幼子に言い聞かせるように静かで優しい色をしていた。今日はもう帰れ。巫女婆はそう言って火の燻る枝葉に砂をかけて鎮め、疲れた嘆息を溢した。
「影海様は、おめだけのモンじゃねえ。……おめのモンには成んねえ」
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