第二話 あなたのおうちは、どこですか?

 カーテンの隙間から朝日が漏れっていた。

 私はベッドに横たわっている身体をそのままに、首だけまわして机上の置時計を見た。短い針の先が『九』を差しているのを見て、思考が止まった。


 まぎれもなく今日は平日で一限目の講義は九時十分から始まる。

 今は、九時ちょうどだった。

 だんだん目が覚めてきたのだけれど、危機感はなかった。

 今日、金曜の一限は『社会学』だが、この講義の出席確認は、先生が用意した遠隔の専用サイトに次週の講義の前日までにコメントを書き込んで送信すれば済む。だから、講義に出席しなくても適当にコメントを考えて出席確認だけ出しておけばいい。この講義に期末試験はなく、最終レポートを提出すれば、まず間違いなく単位はもらえる。いわゆる、『楽単』の講義だ。

 別に無理して出席する必要もない。まぁ、それでも無理して出席してきていたのだが、ついに、今日は欠席か、正確にはコメントさえ後で出せば出席になるけれど、いや、今から準備すればまだ最後の三十分くらいは出席できる、でも、そこまでするほどの講義か……?


 そんなことをぐるぐると考えながら、ベッドで寝がえりをうっていた。

 結局私の中の『優等生』が、『劣等生』をいい負かして洗面台へと足を運ばせる。

 顔を洗い、洗面台横の棚にたたまれたタオルのなかから一枚を取り出し、さっと顔についた水分をぬぐう。鏡横に貼った大付箋には、高校受験のときに予備校で知った吉田松陰の言葉が書かれていた。


『一日一字を記さば一年にして三百六十字を得、一夜一時を怠らば、百歳の間三万六千字を失う』


 昨日の残り物で朝食を済ませてから身支度をして外に出た。

 そよ風と暖かい朝日が気持ちのいい、秋の朝だった。

 ドアに鍵をかけてから階段を下りてアパートを出ると、エントランスの目の前に見慣れない『お客さん』がいた。


 見たことのない『おかた』だったので、つい凝視してしまったのだが、それが悪かったのか、そのモフモフで小さな方は、私のほうに駆けよって来た。

 小刻みに揺らすしっぽが、クイックルワイパーに見えた。薄茶色でモッフモフのクイックルワイパーだ。手入れが行き届いている。


 野良……じゃ、ないわよね?


 私は無視して一本道を通り抜けようとしたが、その方はどこまでもついてくる。途中、その方のほうが私の脚より先回りして、ゆく手を阻むようにしていた。

 迷子なんだ、と直感した。真っ黒でまん丸な瞳が、吸い込まれそうなほどに愛おしかった。


「この子、どこの子か分かりませんか? ずっとついてくるんですけど」

 前からやってきたおじさんに訊いたが、おじさんは小声で、知らない、といったきり、そのまま去ってしまった。


 私はスマホを取り出し、マップアプリをひらいて近くの交番を探した。

 一番近くの交番は、ここから一キロ先だった。

 この子を抱えて行けるだろうか。きっと今頃、飼い主は必死でこの子を探しているに違いない。真っ黒な瞳が輝きを増していた。

 ひとまず、交番の方向まで歩いてみることにした。するとその子はずっと私のそばを追ってくる。離れずにどこまでもついてくる。

 これなら、交番までついて来てくれそうだ。

 私はその子がついてきているのを確認しながら横断歩道をわたり、小学校のグラウンドの横を通って、住宅街を通り抜ける。とっくに、見たことのない景観だった。

 途中、リードをつけた子と散歩をしている人にもすれ違った。


 二次元のアプリだけを頼りに、一人と一匹で、未知の世界をどんどん通り過ぎて行く。

 スマホが赤く点滅しているのに気がついた。バッテリーが残り五パーセントだった。

 私は早歩きで交番を目指した。額から一滴、汗が流れたが、それをぬぐう暇もなく、私は交番を目指す。その子は、負けじと私より先を行こうとする。

 お互いに競い合っているようで、なんだか可笑しく思えてきた私は、思わず苦笑した。

「あなたも、不安なのよね」

 目の前の横断歩道が点滅していたので、私は止まろうとした。けれど、その子は歩道を突っ切ろうとする。

 そのとき、左からトラックが走って来た。トラックはその子に気づかず走ってくる。その子も気づかずに走っていく。


 その子が歩道を渡る瞬間、私はその子を急いで抱き上げた。

 減速することなくトラックが目の前を疾走していった。


 ……間一髪だ。

 心臓が異様なまでの速さで脈打っていた。


 青信号を渡りきってから、その子は私の腕の中でじたばたとして落ち着きがない。

 ――――自分で急ぎたいんだ!

 そういわれた気がしたので、ひざまづきながら腕の中の子をそっと地に降ろした。

 地に四つ足をつけた子は、ばねを思い切り引いたチョロQのように、今までとは比べ物にならないスピードで駆け出した。

 私は完全に不意をつかれて、その子が数十メートル先を行ってから、ようやく走って後をつけた。

 その子が駆け込んだ先は交番、ではなく、公園だった。


 広い公園の物見やぐらには、男の子がいた。男の子は十歳くらいで、一人、遠くを見つめている。

 私は走っていった子を追って中に入ったが、どこにもその子はいない。

 ベンチの下や草陰、すべる部分がねじれた形状になっている大きめのすべり台の裏を探してみたがどこにもいなかった。

 ちょうど、花壇隣にあったシーソーの下をのぞき込もうと、かがんでいたときだった。

「お姉ちゃん、なくしもの?」

 振り返るとさっきの男の子がいた。

「うん、このへんでワンちゃん見なかった? 小さくて薄茶色の、多分だと思うんだけど……」

 私は額の汗を袖でぬぐいながら、いちど深呼吸をした。

「ぼく、それ知ってる!」

 男の子は白の半そでシャツに青い短パンをはいていた。

「本当? 助かるわ。そこまで案内してくれる?」

 男の子の、お餅のようなほっぺたが、にっこり持ち上がった。

「うん、ちょっと時間かかるけど、すぐに作れるから、待っててね」

 私は男の子に手を引かれながら、公園の奥へと進んで行った。

 


 

 


 

 

 

 

 



 

 


 


 

 


 

 


 









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プレビュー 神崎諒 @write_on_right

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