第3話 博愛

 学校へ淡々と通い、火掃をする日々を過ごした透は、カイとの友情を深めていく。仕事にも慣れ始めたそんなある日、カイの自宅謹慎期間が終わり、彼が登校するようになった。これで学校でも同じ時間を過ごせると喜ぶ透だったが、現実はそう上手くはいかない。

 ほどなくして、クラスの陰気な風習は透からカイに矛先を変えた。透は突然のことに、疑問より焦りを募らせる。今になってカイが狙われるようになったのは、主に二つの理由があった。

 ひとつは、例の事件で犯人を名乗り出たカイを貶めたい人間が少なからず居たこと。もうひとつは、前任者である透が、彼らにとって面白い反応を見せなくなったこと。他にも細かな理由があり、それぞれ思惑に差はあったが、カイを標的とすることに異を唱える者は居なかった。

 この現状に、透は納得していない。短い間ではあったが、後ろ指を差され、孤独を経験した透は『どうにかしなくては』『少なくとも、自分が傍に居なければ』と、カイのため自分を奮い起こそうとした。

 しかし、行動に移すことはなかった。自分の時は平気であった陰口も、それを傍から見た途端に、透は恐ろしいものだと感じるようになった。クラスメイトに虐めを止めさせようと思い立つも、上手く口が開かない。それどころか、表立ってカイと話すことも恐れてしまった。簡単に言えば、透には勇気が無かったのだ。

 透はカイと話していると、自分の知らない世界の住人になれた。だがそれは、ただの現実逃避に他ならず、問題が解決できたわけではない。透は、かつての友人達の気持ちが分かったような気がした。

『勘違いかもしれないが、もしかしたら彼らも、今の自分と同じ恐怖を覚えていたのかもしれない』

 そんな考えが頭をよぎり、しかし無意味であることを透は思い知った。結局のところ、どれだけカイと仲を深めようが、透の世界は、透自身が嫌う彼らと同じ場所にあった。そう気付いてからも透はカイとの関係を終わらせたくないと切に願い、依存するように友情を寄せる。

「カイ、ごめん。なんて言ったらいいか……」

「なんのこと?」

「……学校で、俺が話し掛けないの変だろ?」

「え、ごめん。気にしてない」

 これは、いつものように仕事へ向かう途中の会話だ。透は日に日に自己嫌悪を募り、逆にカイはどこ吹く風か、全く気にしていない様子である。そのあっけらかんとしたカイの態度は、透を更に沼へ沈めた。


 そしてある日、本人よりも悩みを見せる透のもとへ、カイを救うためのきっかけがやって来た。

「しょ、昇塚くん。ちょっといいかな」

 カイと話すわけでもなく、淡々と日々を過ごしていた透のもとに、女子のものと思われる呼び声がした。それは昼休み時間で、ほとんど人が寄り付かない空き教室での出来事。いつもここで時間を潰す自分に女子が声を掛けることを不思議に思いつつ、透はその声に聞き覚えがあると気が付いた。

「えっ、広沢さん!?」

 声の主は、透とカイの思い人である広沢だった。『何故ここに』や『何の目的で声をかけた』などの疑問が透の頭を駆け巡り、心臓は熱く鼓動を打っている。多少の緊張と幸福を噛みしめつつ、透は広沢の一挙手一投足を慎重に窺う。

「急にごめんね。いつもこっちの方にいるって聞いたから……」

「ぜ、ぜんぜん大丈夫だよ? それで、こんな所までどうしたの?」

 透は少し上ずった声で広沢に要件を聞いた。その態度からは、情けなさを表に出さないよう気を遣っているのが分かる。もしかしたら愛の告白ではないかと、透は冗談半分に期待を寄せるが、話の内容はそれほど楽しいものではなかった。

「あのね、カイくんのことなんだけど……」

 広沢の口から出た友人の名前に驚いた透は、次に話される内容を予想すると、表情を曇らせた。あれほど煩かった鼓動も鳴りを潜め、嫌な汗が背中を伝う。思い人の前では気丈に振舞いたい透だったが、そんなものでは堪えきれない不安に襲われ、有頂天な気持ちなど欠片も残っていなかった。

「……カイが、どうかした?」

 透の声は震えていた。緊張といえばそうだが、それは恐怖によるものだった。

 透の予想が正しいならば、きっと広沢はカイに良い印象を抱いていない。広沢が何をしようとしているのか分からないが、これでカイに仇をなすようなことになれば、透は彼女の力にはなれないし、未だ残り続けている恋慕も揺らぐだろう。しかし、幸いにも、透の憶測は良い意味で裏切られることとなる。

「うん。どうにか、助けられないかなって」

 広沢が口にした言葉が助け舟であることに、透は一瞬、遅れて気が付いた。自分の予想の真反対ともいえるその内容に、透は思わず目を見開く。あまりにも突然なその提案に、透は理由を追求しないわけにいかなかった。

「どうして急に?」

「急に……というか、ずっと考えてたんだ。昇塚くんとか、カイくんが皆から除け者にされてたのは私の所為でもあるんじゃないかって。私が一番の当事者だったのに、周りを止めようとしなかったから……昇塚くんってカイくんと仲いいよね? 友達が街で一緒に歩いてるとこ見たって言ってたの!」

 そう言葉を紡ぐ広沢の表情には、少しの罪悪感が垣間見える。透はその顔を見逃さず、広沢が本心からカイを救おうとしていると感じ取った。それと同時に、透は更に自己嫌悪を募らせる。

 負い目を感じる必要のない広沢が行動を起こそうと自分の所までやって来たというのに、自分は事態と向き合う事を恐れ、こんな場所で貴重な時間を貪っているのだ。顔色を変えないよう歯を食いしばり、透は広沢の言葉を心の中で反芻する。もはや透は何もしないままでは居られず、後は勇気を奮い起こすだけだった。

「……俺も助けたい。じゃなくて、協力させてほしい。やっぱり今のままじゃ嫌だ」

 広沢がきっかけとなり、透はようやく本心を表に出すことが出来た。カイと仲良くしている姿を目撃されたという話もあり、もはや取り繕う必要が無かったとも言えるだろう。透の言葉を聞いた広沢は愛想よい微笑みを浮かべ、意気揚々と話はじめる。

「ありがとう! じゃあ日を改めて、カイくんも呼んで、三人で話さない? 私は、本人の話も聞いた方がいいと思う」

「……あーうん」

 広沢の提案に、透は歯切れを悪く返事をした。広沢は気にしなかったが、透は不満を隠せていない。

 透は複雑な心境でいた。確かに、最優先はカイをこの虐めから救うことだ。しかし、この三人で話し合うとなると、透とカイには確執が生まれる可能性がある。何といっても、カイと透の間に、意中の人を交えて話そうというのだ。何事も無く平穏に事態が終わるという自信が、透には無い。しかし同時に、透はカイが喜ぶとも考える。他の誰でもないカイの為の場を設けようという話なのだ。それでカイが喜ぶのなら、透は惜しみなく力になりたいだろう。

 相反する二つの思いが透の中で暴れ回り、次第にそれ自体が醜悪な感情であると透は客観した。友人の人生が懸かっているというのに、自身の恋愛を理由に迷っているのだ。意味の無い衝動に区切りをつけ、透は自分を納得させるよう首を縦に振る。

「よかった……私、抜け出してきたからそろそろ戻らないと……」

 広沢は人気者だ。常に誰かが周りに居るのが当たり前であり、こうして一人の時間を作るのも容易では無かっただろう。透はそれを察し、詳しい話は後日に改めようと話をする。

「じゃあ、また後で」

「うん。あ、これ連絡先! それじゃバイバイ!」

 そう言って透に連絡先が書いてある紙切れを渡した広沢は、満面の笑みを浮かべて手を振り、教室を出て行った。それに透も照れながら手を振り返す。広沢が居なくなってからも透は動きがぎこちなく、顔を赤く染めていた。

「……いや、ちがうちがう」

 頬に熱が帯びたと自覚した透は、それを否定するよう首を横に振る。今は何よりも、友人を気にかけなくてはならない。透は広沢を気にする烏滸がましい自分に蓋をすると、カイを必ず救うと目的を再確認する。前向きに事態を改善しようと動き始めたからか、透の沼に沈んでいたような心は、徐々に明かりを取り戻し始めていた。


 後日、広沢と数度の連絡を取り合っていた透は、カイを含めた三人で集まる場を設けることが出来た。初めに顔をあわせた時は、透は広沢にどぎまぎし、あのカイでさえ驚いたように目を開ける様子を見せた。

 透が予想外だったのは、自身が思うほどカイと気まずい雰囲気にならなかったこと。むしろカイが広沢に笑みを浮かべる度、透は満足感を覚えた。全員が集まるまでに人知れず鼓動をうるさく鳴らしていたことが、バカバカしく思えるほどに。

 最初は広沢の協力のもと、話し合いをしようと人気のない場所を探す三人だったが、途中から透と広沢の意図を汲み取ったのか、カイが突然に「遊びたい」と言葉を発した。透は説得をしようとも考えたが、他でもない本人の要望ともなると無理に話すことは無いと思い直し、広沢もすぐに納得をして目的地を変えた。

 踵を返した二人に紛れ、透もその後を追おうとすると、ふと気が付く。カイと出会うのはいつも仕事の時だった自分が、こうして彼と中学生らしく放課後に遊ぶのは、今日が初めてであることに。


「じゃあ、まずはどれから遊ぶ?」

 三人がやって来たのはショッピングモールにあるゲームセンター。「行ったことが無い」というカイの要望に沿った結果だった。放課後である為に、制服を身に纏う高校生から、その少し年上と思われる大学生くらいまでの男女が闊歩している。

「なんか皆おんなじ形だね」

「やってみよ!」

 ゲームセンターではお馴染みの、立ち並ぶUFOキャッチャーを見たカイが不思議そうに言うと、気を利かせた広沢がカイの手を取り、台へと向かう。

「まずは小銭を入れて」

「うん」

 広沢に言われるがままカイがお金を入れ、ボタンを押す。事前に、広沢による丁寧な説明がされたものの、カイが操るアームは大きく的を外れ、頓珍漢な位置へ爪を下ろした。その都度、お節介のように説明をし直す広沢は焦りを隠せておらず、透はその光景をしばらく眺めた。もちろん、笑いをこらえて。

 ちょうど五枚目の百円玉が投入されたところで、ようやく透が二人へ近づく。

「た、助けて昇塚くん……」

「透これ難しくない?」

「貸してみ」

 これまた見たことも無い困り顔を浮かべるカイを透は一瞥し、代わりにボタンに指をかけると、慣れた勢いでアームを動かした。リズミカルな電子音が鳴る中、アームの爪が見事ぬいぐるみを捉え、そのまま持ち上げると順調に穴へと運ぶ。カイは目を丸くして、広沢は固唾を呑んで、透は余裕の面持ちで、景品が台から出てくるところを目撃した。

「うまい!」

「昇塚くん、もしかして得意?」

「! そう…………いや、やっぱり、カイが下手すぎなだけ」

 透は一瞬、広沢に良いところを見せたいと虚栄を張ろうとしたが、すぐにボロが出るだろうと諦める。

「えー? なんか慣れてそうだったけど」

「いや、そりゃ放課後にゲーセン来るのはド定番だから。誰でも出来るよこんなの」

「広沢さんも?」

 カイの無垢な目に晒された広沢は、困ったようにたじろぐ。

「えっ! あ、えっと……じ、実は私もあんまり来たことないんだ」

「え?」

「と、友達から話は聞いてたから! なんとなく……」

「ええ……」

 学校では見られないような焦り方をする広沢を見て「それで必死に説明しようとしてたの?」という言葉をグッと堪える透。広沢の意外な一面を見れたと喜ぶことにした透は、この状況を無邪気に楽しみつつ、自分が二人の案内役であると段々と理解していった。

 人を引っ張るような経験は皆無といっていい透からすれば、プレッシャーを感じざるを得ない立場。しかし透は『折角の機会を棒に振るのは嫌だ』と自然と思うようになっていた。

「うし、じゃあ一通り遊ぼう」


 UFOキャッチャー、リズムゲーム、シューティングゲーム、レースゲーム、少し体を使って遊ぶスポーツゲームなど、様々な台で三人は遊んだ。目的であったカイについての話し合いなど誰も覚えておらず、しかし当初よりも有意義な時間を過ごしている。カイの為に集まった今日は、大成功を収めようとしていた。

「ゲームセンターって面白いとこだね!」

「楽しそうで何よりだよ」

「あはは」

 汗を輝かせ、満面の笑顔で「楽しい」と言葉にするカイ。しかし全てのゲームにおいて他二人に惨敗しており、ある意味フルスコアを記録している最中である。透と広沢は呆れつつも、当の本人が言葉通り楽しそうにしている様子を見て、思わず笑みをこぼした。

「あ、おしっこ」

「ぶッ!!」

 和気あいあいとした雰囲気が崩れかねない品の無いセリフに、透が思わず口に含んだスポーツドリンクを零す。尿意をそのまま口にした張本人であるカイは、何食わぬ顔でトイレへ向かった。軽い爆弾のような発言が残され、広沢と二人きりになった透は、文字通り汗をかきながらフォローに徹する。

「ご、ごめん広沢さん。あいつも悪気があるわけじゃなくて、偶に変なことを口走るっていうか……」

「ふふ、分かってるよ。カイくんらしいよね」

 楽しそうに笑顔を浮かべる広沢を見て、透は内心で一息つく。といっても、カイの奇行は透だけが認知している訳でなく、昔からの公然の事実なのだ。透は自然とカイの理解者が自分だけであると、そう錯覚していたことに驚愕する。

「なら、よかった」

「うん…………あのね、昇塚くんに相談があって」

 透が自意識過剰な自分の一面にナイーブになっていると、広沢が思いを打ち明けるように言葉を掛けた。透は目を見開き、またも驚く。指をもじもじとさせる広沢のその雰囲気は、誰が見ても並々ならぬ事情があると思わせるもので、透は頼りにされて嬉しいと思う反面、もしかしたら……という恋心故の淡い期待を向けていた。

「そ、相談って?」

「えっと、言いにくいんだけど……実は私、カイくんのことが好きで……」

 透の期待は、かけがえのない初恋と共に打ち砕かれた。広沢の言葉が淀みなく透の脳を貫き、思考を止めた。

「それで、アドバイスとか欲しいなって……? ねえ、大丈夫?」

「……ごめん、少しはしゃぎすぎたかも。酸欠っぽかった」

「え!? 大変、少し休ん――」

「いや、大丈夫だから。続けて」

 そう言って少し顔を伏せる透に、思いを寄せられているとは露ほども考えていない広沢が、的外れに相手の体調を気にしつつ、話を続けた。

「――。」

「うん」

「――。」

「へえ」

「――!」

「そうなんだ」

 もはや広沢の言葉は透に届いていなかった。頭の中が失恋で埋め尽くされている透は、声色を変えてしまないよう、会話の流れが不自然にならないよう、最低限の相槌を打つ。そしてその透の態度が、広沢に聞き上手であると思われた。広沢も常ならば何か異常に気が付いても可笑しくは無いが、透や広沢本人が思う以上に、彼女の熱は本物だったのだ。

「……」

 カイは素敵な人間だ。透は心からそう思う。広沢も素敵な人間だ。これが嘘なら透は恋などしていない。

 二人は透にとって、かげかえない人間だ。そんな彼らが互いを思い、結ばれるなら、それは透にとって願ってないことだろう。例え自分の心を犠牲にしたとしても。透は表情ひとつ変えずに涙をこらえ、大人になろうとしていた。

「何の話?」

「ひゃあ!?」

 いつの間にか戻って来ていたカイが、広沢の後ろに立っていた。広沢はカイの声が聞こえると、熱に浮かされた心を羞恥へ変え、甲高い声を上げる。周りの喧騒にかき消され、その悲鳴が目立つことは無かったが、広沢はカイに話を聞かれたのではないか気が気でなかった。

「……カイが来るの遅いって話だよ」

 透は含み笑いを零した後、そう返した。最後までカイを視界に入れずに。

「ごめん……」

「え、あ、大丈夫! 責めてないよ?」

 透の異変を敏感に感じ取ったのか、カイは素直過ぎるくらいに謝罪し、広沢がすかさずにフォローへ入る。透が「冗談冗談」と体裁を取り繕い、その後も三人はゲームで遊んだ。しかし、透にその記憶はほとんど残っていない。


「じゃあ、また学校で!」

「ばいばーい」

「……」

 夕日が滲む頃、家の事情により門限が早い広沢は一人急いで帰って行く。カイは屈託の無い笑顔でそれを見送り、透は力なく手を振った。

 本当ならば透もここで帰ってしまいたい気持ちがあったが、今日は火掃の仕事がある日だった。気分じゃないから休もうかと考える透だったが、管理人の盛山と顔見知りになって、お駄賃を貰うようになってからは、理由も無く休むわけにもいかない。いや、それ以上に、透はここで逃げたくはなかった。このまま失恋を受け入れず、目を逸らしてしまえば、カイを嫌いになってしまいそうだったのだ。


 いつも通りの道。ほとんど会話は無い。カイは理由も無く上機嫌で、この沈黙は透にとっても心地がいい。いつもならば、そうだ。

 今、カイはちらちらと透の様子を窺い、それを知ってか知らずか、透は目を伏せて前を向こうとしなかった。コツコツとなる二人の足音は、重い空気に気まずさを増やしていく。

「……ねえ」

 口を開いたのはカイだった。自信の葛藤に夢中になっていた透は、カイの声にビクッと肩を震わせる。不自然にならないよう、本音が出てしまわぬように、透は言葉を紡いだ。

「どうした?」

「僕、なんかしちゃったかな?」

「……別に」

 透はカイの言葉に自惚れがあると、根拠なく思った。今の透にとってカイの言葉は、例えどう取り繕っても勝利宣言でしかなく、透の神経を逆撫でしてしまう。それゆえか間を置いて出て来た透の言葉は、カイにも分かるくらいに怒気を孕む、ぶっきらぼうな返事だった。

 カイはしばらく押し黙った。その彼らしくない気遣いに、透は先の言葉を悔いる。自身のありきたりな思春期の思いは、透も客観的に理解している。しかし、それでも思うように制御は出来ない。吐き出せない思いが膨れ上がっていく。

『傍から見れば笑ってしまいそうな悲哀が、自分勝手にカイを傷つけてしまっているかもしれない』

 透は何よりも、それが嫌で仕方が無かった。


「――ありがとう」

 何の脈略も無く、カイはそう言った。透はその言葉の意味が分からず、疑問符を浮かべる。

「広沢さん、僕のために呼んでくれたんでしょ? 透も複雑だったろうに」

 微笑みながらそう言い切るカイに、透は目を見開いて驚愕した。カイの言葉には、明らかに透の恋心を見透かす意図が含まれていたから。透は言い当てられた恥ずかしさで汗をかく。しかしそれよりも、抱えていた悩みが明らかになった事で、透が内で感じていた重みのようなものが楽になっていた。

「し、知ってたの?」

「今気づいた」

 しどろもどろに聞く透に、カイは真っすぐ答えを返した。そこに一切の憐みは無く、しかし深い慈しみのようなものがあると透は感じ取る。そして不思議と不快感は無かった。

 それと同時に、前に抱いた恐怖は正解だったと透は思った。カイは今までの友人とは違く、恋敵であると分かったなら、それが縁の切れ目であると。カイがどう思おうが、透はその事実に蓋をし、目を逸らすことが出来ないのだ。親しい友人と思うからこそ、自分のものとは思えないその真摯な思いを、透は否定したくなかった。

「そっか……」

 短い付き合いだったと物思いに耽る透。しかし、次にカイから出た言葉は透にとって思いもよらないものだった。

「うん、応援するよ」

 カイが何を言ったのか、透は一瞬、理解が出来なかった。そして、今までカイとの絆を育んだ透は、その意味を察することが出来た。誤解をすることはなく。

「……なんで?」

「お似合いだと思ってさ」

 カイは、透と広沢の仲を取り持つと言ったのだ。自分も彼女のことを好いているというのに。

 広沢に思いを寄せられていることをカイは知らない。そう理解しつつも、透はカイのことが解せなかった。むしろ、友情を裏切られたような気分がした。友を思って身を引いた自分を棚に上げて。

「答えになってない」

 透は怒りを包み隠さなかった。恋心を蔑ろにするなと。しかし、それ以上にその言葉には、訳を無視できないという疑念が含まれていた。透には『カイは何の理由も無く、感情や思いを無下にするような人間ではない』という確信があったから。そしてカイが話を続ける。

「そうだね……それは僕が、広沢さんの事を好きじゃないかもしれない、からかな」

 カイの答えは難解で曖昧なものだった。ふざけるなと一蹴されても可笑しくはないだろう。

 しかし透はそれに、怒りを抱いている余裕は無かった。今までの話は嘘だったのかと責めるのは簡単だが、透はそんなことをしない。

 それは、まるで別人のような佇まいのカイが隣にいたから。少し下にある地面へ目を落とし、能面を張り付けたかのような真顔。その雰囲気の変わり様に、透はカイが大真面目に事態と向き合っていること、そして簡単に触れてはいけない『何か』がカイの中で渦を巻いていることに気が付いた。決してそれを否定してはいけない。もとより、そこに否定するべき嘘や不誠実は、存在していないのだから。

「……少し長くなっちゃうかもしれないけど」

 そう話を切り出す頃には、カイはいつもの調子に戻っていた。透は怖気が抜けきらないまま、視線を合わせて首を縦に振る。

「広沢さんのことは好きだよ。だけど……何となく、本当に何となくだけど、それは皆が考えてる好きとは、ちょっと違うと思うんだ。……難しいな。あんまり自分の内を話すことってないからさ」

 身振り手振りが行ったり来たりと挙動不審を隠せず、カイは困り顔で頭を掻く。そこには、先の言葉通りの困惑と、透への誠実さが滲み出ていた。

「……」

 透はカイの言葉が分からなかった。今になって始まった話ではない。やはりカイの世界は難解なのだ。親しくなった透にさえ理解ができない。しかし、思いとは、必ずしも言葉のみが伝える手段であると限らない。透はカイの稀に見るその態度から、きちんと思いを受け取った。

 友情。漠然としたその概念が、透の頭に刻みつけられた。こうしてカイが透を気遣う様子を見せたのは、初めてのことだったのだ。その思いは透の身に沁み、失恋で傷が付いていた心を幾分か癒してみせた。


 気が付けば、いつものように焼却場へと辿り着いていた。まるで場面を飛ばしたかのような時間の流れの早さを感じ、管理人の盛山から鍵を貰ったのも、ほとんど透に身に覚えは無い。

 透は慣れた手付きで腐った遺体を担ぎ、炉に放り込む。梯子を上り、箱に入り、死を担ぎ、箱から出て、体を投げる。ただその作業に没頭し、透は朧げな意識のまま、カイに何を言うべきか考えていた。

「はい、火つけて」

 そう言ってカイが差し出したマッチ棒を、透は優しく押しのけた。

「カイがつけて」

 透は目を伏せたまま拒み、カイは特に気にする素振りを見せず、火を放り込む。着火剤として燃える薪が炉の中まで火を運び、火花が散り始めると、最早ありふれた黒煙がまた昇り始める。しかし、同じ形の煙は無い。見慣れたような光景も、その細かな部分は違う。その差異に、透は気が付いた。

「ごめん」

 脈略の無い言葉が、涙と共に溢れた。透の涙に気が付きながらも、カイはまじまじと見ようとはしかなった。

「……思い出した。これは話しときたい」

 透の言葉に言及せず、カイは静かにそう言った。何を思ったのか、物憂げな表情を浮かべるカイに、透は口を開かず頷きもしない。それを肯定の意と汲み取ったカイは間違いでなかった。

「初めて仕事に誘った日、透の家の呼び鈴を鳴らしたのは本当に偶然だったけど……その時は、この仕事が怖かったんだ」

 カイの意外な発言に、透は少し赤くなった目を丸くした。目的はお金を稼ぐ事と聞いていたものの、この仕事を嫌がるカイを想像できなかったから。この立ち上る煙に目を輝かせていたのは、他の誰でもないカイだったから。

「実は、透とみたいに、誰かと友達になるのが苦手でさ。そもそも、なれないこととは別にしてね。誰かと関係を深めること自体、絵空事というか、僕の中に……その選択肢が無い感じがしてさ。大切なものがあったとしても、どうしてもそこに愛着を持つのが怖くて」

「……失うのが怖い?」

「……責任、かな」

 カイが煙を見つめる。その眼差しには、愛が込められているのだろう。透には到底理解のできない価値観だが、カイが嘘を言っているとは露ほども思わない。透が否定したくない世界が、そこにあるのだ。

「例え自分の所為じゃなくても、愛着のある何かが傷つけば、僕は自分を責めるし、それを不思議にも思わない。……この仕事を始めてからしばらく経って、毎夜見上げるこの煙が怖くなったんだ。もうどうしようもないのに、彼らは成すすべなく消えていって……体を投げ入れるのも、まるで、僕が彼らを葬り去ったような気がして」

 そう言って目を伏せるカイの表情からは、確かに罪の意識が垣間見える。罪悪感に苛まれ、苦しそうに言葉を紡ぐその様は、まるで独白のようだった。友人の痛々しい姿を見た透は、何も言えずに目を逸らした。

 泣いている自分を、途端に恥ずかしく思ったのだろう。透はカイの胸中を、本人の言葉で聞き、たかだか失恋の勢いで友人を傷つけてしまった自分の烏滸がましさを、ただ呪った。

 透は今まで、カイの気まぐれに自分が付き合っていると自惚れていた。しかし実際のところ、カイが透を気にかけていたのだ。いつも。透は自分が犯した盲目を、許せそうになかった。

 カイはまた、変わらず煙を見上げる。透は結局、そこに意味を見出すことが出来なかった。傍から尊ぶことしか、友情になり得なかった。

「でも」

 命から目を離さず、しかし力強い言葉が、カイの口から吐き出た。

「透のおかげで、僕は皆を嫌いにならずに済んだ。だから、ありがとう。ずっと感謝してる」

 カイは笑みを浮かべ、透に感謝を述べた。透にとって思ってもみないその言葉は、互いの自己嫌悪を食い止める。「上手く言葉に出来てればいいけど」と恥ずかしそうに付け足し、カイはまた煙を眺め始めた。

 透はそれを、まるで神秘的な光景でも見ているかのように見つめた。これもきっと、神など関係ない秘めたる力だと信じて。


 いつものように仕事を終え、暗闇の帰路に着いた二人に、もう確執など残っていなかった。恋敵など些細な問題だ。これからカイは透を誰よりも気にかけ、そして透もカイを疑ったり、嫌いになることは絶対に無い。

「ほら早く!」

 疲れた体に鞭を打ち、また二人は走る。そしていつものように、カイが前を行く。

「はあ……! はあ……!」

 この習慣が身に付き、透も体力がついた。足だって以前よりずっと速くなっているだろう。しかし、どうやってもカイには追いつけない。

 変わらない日常だ。カイが先を行き、透が追いかける。その差は縮まらない。

 ……ふと、息も絶え絶えの中で、透はカイへの憧憬、その正体に思い至った。


 あれは数年前、同じ学び舎で教育を受けていた頃。同じ世界で生きていた見知らぬ他人が、突然、席を立った。

「――あ! クジラだ!」

 あの日、彼が見た光景に、透はどうしようもなく興味を引かれた。

 窓の外を指さす彼の姿が、頭から離れたことはなかった。

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