砂礫の月、星の祷歌

小枝芙苑

夢見の葉

 銀のガゼルが星を蹴り、夜空を裂いた。


 ガゼルたちは葦笛の音を頼りに、乾いた風に乗ってひたむきに駆けていく。

 礫砂漠を煌々と見下ろす満ち足りた月は、彼らの影を映し、岩場にひそむ小さなオアシスを照らしていた。


 月の梯子が下りたオアシスの水辺には、極彩色の織物が敷かれ、数人の子どもたちが身じろぎもせず、静かに横たわっていた。


 眠りを誘う夢見の葉バルグ・ヘヤールを焚いた甘い香りが漂い、薬湯を飲み干した椀が無造作に転がる。夜の闇にほどけていく香の煙を見上げながら、子どもの母親たちが声をひそめて儀式の無事を祈っていた。


 その祈りのあいまに、大人たちのくぐもった声が、風のように流れた。


「……王の具合、やはり悪いらしいね」

「もう、ずっと政務に出てこられていないとか」

「次の継承の話も、裏では進んでるって」


 ひそやかな会話に、ひとりの老人がふっと鼻を鳴らした。


「王都で何が起きようと、関係ないさ。わしらのことは、大公が決めなさる」

「その大公が、いまさら失われた王国ミラヴァルドの発掘を始めたらしいじゃないか」

「そりゃあ、わしらのご先祖さまのことを、理解しようと努めてなさるのさ」

「爺さんは呑気なもんだな。掘り起こすってのは、だいたいロクなことがないもんだよ」


 夜明けを待つ彼らの話は、尽きる気配がない。


 しかし、その輪の外では、こんもりとした灌木ブッシュの陰で、ひとりの幼い少女が泣いていた。


 金糸銀糸が織り込まれた、紺碧の絹の薄布を頭からかぶり、イヤイヤをするように首をふるたびに、刺繍された星々がきらきらと揺らめく。


 隣には、丈の短い更紗の衣装を着けた、少し年上の少女が肩を抱いて寄りそっていた。


「ニキ、お祝いの日に泣いてはだめよ」

「いやよ、きょうは歌わない! みんなと一緒に星巡ノ宮ほしめぐりのみやに行きたい!」


 ニキは濃いまつ毛に縁どられた目を真っ赤にして、悲しみと怒りをあらわにしている。


「わたしも七歳だもん。みんなみたいに、星霊せいれいが欲しいの」

「ニキ……」


 声を詰まらせた姉のヤースが、首から下げた星霊の石を握るのが見えた。


 姉を困らせていることも、このまま泣いていられないことも、ニキはちゃんとわかっている。それでも、言わずにはいられなかった。


「なんでわたしは、みんなと一緒に儀式に出られないの? なんでわたしは、祷歌師とうかしなの?」


 歌うことで神への祈りを捧げる祷歌師とうかしは、生涯を神の子として過ごし、太陽神スミラスに守護される。

 だからニキは、七歳になった子どもたちが、神の子から人の子へと生まれ変わる儀式には参加できないし、守護星となる星霊を授かることもできない。


 あしたになれば、友人たちは自分がもらった星霊を自慢し、身に着けた星霊の石を見せあうのだ。その光景を、ニキは傍観するしかない。


(わたしも、みんなと一緒がよかったな)


 ニキは銀糸を編み込んだ黒い髪を垂らして、ひざに顔をうずめた。姉に体をあずけていれば、抱えきれないほどの孤独も、いくらかましになる。


 そうしてぬくもりに身をゆだねていると、砂を撫でるような葦笛の音に合わせて、石琴の澄んだ音色がかすかに響いてきた。

 深い眠りについた子どもたちの魂が、間もなく神々の住まう星巡ノ宮ほしめぐりのみやへ向かう合図だった。


「ニキ、見て。リントガゼルの群れが降りてきた」


 ニキがわずかに顔をあげると、月明りを反射して銀白色に輝く毛並みと、らせん状に巻いた二本の角を持つ幻獣が夜空を駆け下りてくるのが見えた。


 子どもたちの魂は、『星を食む獣』とも呼ばれるリントガゼルの背に乗って、砂漠上をさすらう神殿を目指すという。


 星のかけらをまとい、静かにオアシスへ降り立つ幻獣を、ニキは羨望のまなざしで迎えた。大人たちも口を閉ざし、水を飲むガゼルの群れを見守っている。


 友人たちの魂は、いまからあの優美な幻獣の背に乗って、夜空を翔けるのだ。


(いいなあ……わたしも行ってみたかったな)


 きゅっと唇をかんだニキの手に、ヤースの手が重ねられた。


「あのね、ニキ。わたしが星巡ノ宮に行ったとき、真っ暗でなにも見えなくて、体も動かなくて、すごく怖かったの。でも、ニキの歌声が聞こえてきて、ちゃんと帰れる、大丈夫だって安心した」

「わたしの、歌……」

「かわいかったなあ、ニキの声。三歳だったでしょ、あのとき。だから、ときどき歌詞を間違えたりして──でも、あんなに美しい歌を聞いたのは、生まれてはじめてだった。ニキがわたしの妹で、すごく自慢に思ったの」


 いつもは固いつぼみのように無口な姉が、幼い日のニキをあまりにも愛しげに話すのを聞いて、ニキは面映ゆい気持ちで肩をすくめた。


「ニキじゃないと、できないことよ。ニキの歌が、目じるしになるの。みんなの魂がまっすぐ還ってこられるように、勇気づけてあげよう?」


 顔をのぞき込んでくる姉の視線を感じながら、ニキは自分の腕に何本も通された真鍮の腕輪を見つめた。


 祷歌師の自分だけに与えられた役目がある──そんなは、これまでも聞き飽きるほど聞かされてきた。でも、姉が語ってくれたのはだった。


「わたしの声、届くかな……みんなに」


 ぽつりとこぼした声が、乾いた空気に溶けた。


「大丈夫。ニキの歌は、特別よ。みんなにも、きっと届く」


 まっすぐな言葉で励ましてくれるヤースに、ニキは手の甲でごしごしと涙のあとを拭いた。


「……うん。わたし、ちゃんと歌う」


 つかの間の休息を終えたリントガゼルの群れが、銀の足跡を描きながら険峻な岩場を駆けあがっていく。


 友人たちの魂を乗せ、断崖から力強く空を蹴って飛翔するガゼルたちを、ニキは祈りの言葉を唱えながら見送った。


太陽神スミラスの恩寵と、神子みこサーディアの慈悲を」


 やがて、夢見の葉バルグ・ヘヤールの香りで眠くなったニキが目をこすると、ぐいぐいと肩をゆすられた。複数の太鼓のリズミカルな音が腹に響き、少しずつ意識がはっきりしてくる。


「ニキ、夜明けが近いわ。子どもたちの魂を迎える時間よ」 


 耳もとで囁く声に、はっと目をあけたニキは、姉に体をあずけたまま、うたた寝していたことに気づいた。どうやら、懐かしい夢を見ていたらしい。


(……また、あの夜の夢)

 

 七歳だったニキが、はじめて祷歌師の孤独を知った夜。自分が、友人たちとはちがうことを、はじめて知った夜。


 あれから五年経ったいまでも、再誕の儀式の夜になると、夢見の葉バルグ・ヘヤールはニキの覚悟を問うように、あの日の夢を見せる。


 ニキは深呼吸をすると、夢の残り香を払うように立ちあがった。静かに歩みを進め、円陣を組んで太鼓を打ち鳴らす女たちの中心に立つ。


 オアシスを照らしていた月は、すでに西へ傾いていた。


 みなが無言で夜明けを待つなか、静寂を破る馬の蹄音つまおとが響いた。駆けこんだ男の報せに、大人たちがざわめきだす。


「王が亡くなった!?」

「それは本当かい?」

「ずいぶんと長患ながわずらいだったねえ」


 漏れ聞こえる大人たちの会話を、ニキは無心で受け流した。


 夜の名残を抱いた紺碧の空が、ゆっくりと息を吐くように薄紫へ染まっていく。


 ニキは旅を終えた魂の道しるべになるために、そっと口をひらいた。

 最初はかすかな風のように、やがては星空をゆらす炎のように、ニキの歌声は祈りとなって、オアシスをやさしく満たした。

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砂礫の月、星の祷歌 小枝芙苑 @Earth_Chant

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