夏休み

第6話 海の蜃気楼 - Part 1

 暑い。じめじめしている。暑い。じめじめしている。暑い……じめじめしている……


 高すぎる気温。加えて湿気。もし今座ってる所に屋根がなかったら――考えたくもない。ただでさえ限界なんだから。高温多湿だっけ、なんにしろこの気候を許すつもりはない。


 いつもなら到着した段階ですぐに館内に入っていたと思う。でも、できない理由がある。

 なんといっても……一人で遊びにきたわけではないから。待ち合わせをするってなったら目立つ場所にいないといけない。問題は、いくつかある目立つ場所というのが軒並み地獄みたいなところしかないこと。

 ここは入口すぐ手前。当たり前だけど入場する全員の目に入る。だから自分が声を出さなくても、相手に気づいてもらえる可能性がとっても高い。


 ……というわけで。連絡も来てないみたいだし、もうしばらくは忍耐の時間になりそう。

 

 本当は駅とかで待ち合わせした方が良いんだろうけど。『友達の家に泊まる予定があるから、現地で会おう』なんてお願いされては断るに断れない。聞いてみれば、姫宮さんが泊まる友達の家はこの近くらしい。


 時間に遅れて来るような人ではないし、そろそろ来てもおかしくないはず。


 もしくは――とっくに入館しているとか?

 閃きにも似た発想が頭によぎる。そして……後ろを振り向くと。


 同じタイミングで私の存在に気付き、健気に手を振る人。


 適度な空調に整えられた室内は、本当に救いそのものだった。蒸す空気の匂いと対比されて、心なしか潮の匂いが広がっている……ような気さえした。


「おっはよ! あのさ、もしかしてずっと外にいたの?」

「うん。先に着いてるとは思わなかった」

「ごめん。先に気づいてれば……」


 一目で焦っていると分かる表情と共に、彼女は続けて申し出る。


「外すごく暑かったでしょ? お詫びに、何か飲み物買うよ?」 

「気持ちだけ受け取っておく、ありがとう」

「えぇ〜……遠慮しなくてもいいのに」

 

 やりとりはまだしばらく続いた。代わりに買わせて――いや大丈夫だよ、なんて何回も交わしながら。

 3,4回ぐらい白熱した言葉が往復したのち、ついに終わりの兆しが差し込んだ。


「わかった! 今日のところは折れてあげる。いつかこの借りは返すからね!」

「借り? まぁ借り、でいいか。別に気にしなくてもいいのに」

「こういうの、貸し借りは作らないタイプっていうんだよね? そういうこと!」

「わかった……じゃ、そういうことにしておく」

 

 何を言ったところで姫宮さんは退かないだろう。本気で相手を労わる無償の優しさと、一方無いも同然のプライド。悲しいけど、差は歴然……


 ……まぁ、そもそも。確かにとんでもなく暑かったけど、姫宮さんを待っている時間は不思議と辛くなかったから。


「じゃあ、行こっか?」

「うん。案内はよろしく」


 姫宮さんの背中を追って、私も青の世界へ踏み出す。沸々と形作られる照れを隠しながら。

 

 暗い通路をしばらく歩き、やがて淡い光が抱く空間へとたどり着く。

 まず目に飛び込んだのは四方に広がる水槽、巨大な化石の標本だった。


 ここに来たのは小学生以来だから記憶があやふや……でもこんなエリアあったっけ?


「かなーり古い時代の化石だったり、その子供たちがいっぱい紹介されてるとこだね。ちなみに変わったのはつい最近です!」

「よく知ってるね?」

「もちろん! こう見えてわたし頻繁にここ来てるから」


 姫宮さんに倣って、一つ一つの水槽をくまなく観察する。

 水族館は常に混んでいる場所っていうイメージがあった。でも今日は他の入場客がそこまで多くないから、ゆっくり展示を見れる。

 

 姫宮さんはこれを見据えて今日にしたのかもしれない。

 

 スポットライトで照らされた大小様々な化石。中には琥珀なんてあったりして、つい魅入ってしまった。多分今なら世界で一番素敵な感想を言える。


 まさか最初から水族館らしくない特殊なコーナーだとは思わなかった。ずっとこの調子だとしたら、体力が順路の最後まで持つか不安になる。


 でもとりあえず、私の場合は姫宮さんについていけばいいだけ。だから自分一人で館内を歩き回るよりかはずっと楽だと思う。

 こういう意味でも、案内してくれるのはかなり助かっている。


「そういえば、次のとこ陽射し浴びることになるから。言った通りちゃんと日焼け止めしてきた?」

 

 昨日の夜に色々教えてくれたのを思い出した。例えば持ってきた方が良いものだとか、大体の展示順が載ってるページだとか。

 ……姫宮さんは私に最大限楽しんでほしいんじゃないのかな……とか、利己的な考えが浮かんでしまう。


 もしそれが正しいのだとしたら、今日の出費を肩代わりしないと採算が取れない。

 ちなみにダメ元でそう言った。結果は……さっきの言い合いとほぼ同じ。

 

「こっちこっち。外ほどじゃないけどちょっと暑いから気を付けてねー」

 

 名前の知らない魚の数が、私が知っている魚の数を優に超えた。現実感が掴めない体験に、私の満足感は頂点に達していた。


 たけどどうやら、これからが本番らしい。


 だから、しばらく休憩しようと手を引き留めた。先はまだあるから一旦休憩してね、なんて言わんばかりのベンチが用意されているし。

 時間と姫宮さんが許す限り、今はこの厚意に甘えよう……本音を言うと、今すぐ座りたい。


 目の前に広がる水槽を見つめると、不思議な感覚。

 輝く気泡が下から水面へ。ある一粒を追うと、光差し込む水面に弾ける。


 その最期は一抹の儚さを感じさせ、悲観――冷やかな思索に誘い込む。


 だけど、私を元の現実に引き戻す存在がひとつ。


 右肩に伝わる確かな人肌のぬくもり。伝わる熱は微かでも、無機質な冷気を追い出すのに十分だった。

 

 家族以外とこんなに近くまで触れ合ったのは本当に久しぶりか、初めてだと思う。

 嫌な気分はしない。むしろやっと、体に触れて良いほどの友達と認めてくれたような、そんな気さえする。

 ……いや知ってるけど! 姫宮さんにそんな考えは無いだろうってことは! 


「ねぇ」

「ん〜?」

「あのさ、その。……近くないかな」


 彼女は一瞬何のことかを考えたのち、少し焦った様子で身体を離した。


「ごめん、ごめんね。ちょっと寒かったから。つい」

「いいよ、思ったより涼しいしね。ここ」

「ね。みんな夏に水族館来る理由、分かるかも」


 いつになく達観したような口調で言う。まるで……何かを隠すために……無意識に自分を騙すような口調。事実、私も照れを隠すために冷製を装ってフォローを返したから。

 だけどこれ以上、この場において残された選択肢は無いはず。彼女も同じことを感じたのか、休憩はもう十分だよね、と目線で伝えられる。

 

 姫宮さんは何かを隠している――なんて思い込みに近い予想は間もなく、箱型の海が続く景色に忘れてしまっていた。

 だって久しぶりの外出、家族ではない誰かと一緒だなんてもっと久しぶりだし。


 ……それに展示を見て回る姫宮さんは、隠し事をしているなんて少しも思わせないほど楽しそうな表情をしていたから。


「見て、クリオネだよ! クリオネ!」


 姫宮さんが指差す小さな水槽に目を移す。極小の白い澱が漂う水の世界――ではなく多くのクリオネがうごめく水槽だった。それにしても、本当によく目を凝らさないと全然見えない。


「実物初めて見た。こんなに……こんなに冒涜的な見た目なんだ」


 流氷の天使、だなんてかっこいい上に可愛らしい二つ名とは裏腹、捕食の仕方怖いし。


「それは知らないけどね」


 こうも見事ないなしを受けてしまっては立つ瀬がないというもの。決まりの悪くなった人間ができることは一つだけ……何も言わないこと。


 順路はまだ少しだけ続いた。深みの生物が所狭しと並べられているエリア、更に深い海に生息する魚たち。冒涜的、じゃなくて名状しがたきって言ったほうがいいか。

 色々感想を言い合ったけど、結局どれも同じ感想に行き着くばっかりだった。

 

 だいたい2時間の旅の終点にたどり着く。

 そこは今までにないほど大きな規模の水槽。来場客は潮目を表した水槽のトンネルを潜り抜ける。あまり詳しくなくてもこの水族館の目玉だと一目で理解した。

 小さな魚たちが群れをなす姿は、まるで一体の巨大な魚のよう。一方、比較的大きな魚は誰とも群れず孤独に遊泳を続けている。薄い青から深みの藍へと移り変わるグラデーションが彼らを引き立たせていた。


「ね、姫宮さ……あれ」


 美しい光景を共有したくて声をかけようとした。隣にいるはずの人にだけ届く予定だったぎりぎりの声量で。

 良くない考えが巡るのも一瞬、来た道を見返すとちゃんとその人はいた。景色に夢中のあまり周囲に気を配れていなかった自分を恥じながら、ひとまず通路を引き返す。

 

 こんなに近づいても一瞥もくれずぼんやりと天井を見上げている。彼女の意識は何に引き込まれているんだろう?

 視線を追った先には、室内だというのに不自然に差し込む太陽の光芒。暗がりに突然現れた光は慣れることのない眩しさを残す。この場所だけなぜか天井がガラス張りになっていた。いや、正確には上の階の水槽を下から覗けるっていうか。

 何にしても、確実に私達は同じものを見ている。だって、彼女の眼には水紋にたゆたう光が煌いていたから。でもどうして?


 答えは知る由もないけど、ヒントを聞くことはできた。


「今日も、いないんだね」


 どうか、この予想が杞憂で終わるように。

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