出題編2‐10

「あれ、どうしたんだろう」


 外を向いていた副島さんが、眼鏡を外して目を擦る。そして、もういちど外をしっかりと見た瞬間に、それまで酔っぱらってほんのりと赤くなっていた副島さんの顔から色が引いた。


「どうしたんですか?」


 窓から外を眺める。すると、すぐに副島さんが何やら怯えている理由がわかった。 


 私の、そして副島さんの向いている方向。


 窓の外には、まるで昨日と同じように海の上で燦然と炎が輝いていたのだ。水面に映る月すらも食らいつくさんとする勢いの炎は、このまま世界が滅びてもこの場で燃え盛っているかのようなほどに幻想的で歪な光景だった。


「……そろそろ戻ろうかしら」


 副島さんは、部屋につけられていた時計を見てそうつぶやいた。

もう、どうやら酔いは覚めてしまったらしい。私も窓から入ってくる夜風のせいかあんなに熱かった頬はすでに素面と何も変わらない。


「帰っちゃうの?」


 私は、この勢いなら副島さんがこのまま泊まっていくかもしれないかと思っていたから、残念な気持ちを隠せなかった。こんなことを言っても副島さんを困らせるだけなのに。


「明日も早く起きてご飯を準備しないとだからね。実験もあるし」


 副島さんはそう言いながら、ワイングラスをてきぱきと片付けていく。私も手伝おうと手を伸ばした時にはすべての片づけは終わっていた。


 副島さんの表情にも、残念そうな表情が見えたのは気のせいでは無かっただろうと思う。


「じゃあ、また明日ね。起こしに来るから。晩御飯は井野君がもう少ししたら届けにくるはずだから。気を付けてね」


「はい。おやすみなさい」


 私の返事を聞いて微笑んだ副島さんは、ゆっくりと部屋から出て行った。私はドアが完全に閉まるまで見送ってから、ベッドに寝転んで天井を見上げる。まだ眠くはないけれど、目を閉じればすぐに眠れそうだと思った。


 でも、もう少しだけ夜風に拭かれながら火照る体を沈めたくて、そのままの姿勢でぼーっとする。窓から注ぎ込む月明かりが、顔を照らしていた。そんなことをしていると、だんだんと意識が朦朧としてきた。頭がぼうっとしてきて体のコントロールが効かない。指に力が入らないせいで、携帯電話が手の内側から滑り落ちた。ベッドに倒れこんでいるせいか、体全体に酔いが回ってくる。目を閉じようとした、その瞬間だった。突如、部屋の天井に備えられたスプリンクラーから水が放出された。


「何? まさか火事?」


 思わず声を出した私の口に天井から降り注ぐ水が入ってくる。私は喉の奥にまで入ってきた水を吐きながら、体を起こした。まだ、自在に手足が動くわけではないけどとにかく状況を確認しようと慌てて部屋の外へ出る。私の脳内には、すぐに不知火が海の上で燃え上がっている光景が浮かんでいた。


「誰かいませんか?」


 廊下には私と同じように異常事態であることを察知したほかの客人たちも出て来る。彼らも私と同じように何が起こっているのかとお互いに確認しあい、あたりを見回している。


 全員が軽いパニック状態だったところに、階の端から爆発音が響いた。続いて建物全体が震えるような大きな揺れが起こる。私はその揺れで姿勢を崩して壁に手をついた。


「きゃっ!」


 酔っぱらっているせいで、足もおぼつかない。それでも、なんとか姿勢を立て直すと爆発音のしたほうへと走った。


「何が起こったの?」


 私と同じように皆が声を上げて、連携などとれる状態ではない。私はとにかく何が起こっているのかを確認しようと、探偵さんに厳命された自分の安全を優先することなど忘れていた。さっき副島さんと一緒に見た不知火のことが気にかかって嫌な予感がしたからだ。


 その予想は残念ながら、当たってしまうことになる。



「どうしたんですか? 何があったんですか」


 爆発音がした場所には既に警官たちが揃っていた。彼らも慌てて階下からやってきたようで、息を切らしている。爆発音がしたと思われる部屋が誰のものなのかはわからない。だけど、先ほどの爆発音と震動からもしも中に人が居れば、無事では済まない事は直感で理解できた。


「とにかく、早く消火器をもってこさせろ!」


 そう言って登松刑事が大きな声で怒鳴るように指示を出す。慌てて警官の一人が階下へと降りて行った。部屋の中からぱちぱちと何かが燃える音が聞こえる。警察官たちの頭上には煙があがっていることが見えた。


 とにかく、その場は混乱が支配した状況だった。


 その騒ぎを聞きつけた副島さん、井野さん、岩塚さんも慌てて階段を上がってきた。その手には、消火器が握られている。


「ちょっと、どいてください!」


 岩塚さんが慌てて警察官たちを押しのけて消火器を床に置く。そしてレバーを引くとそこから白い煙が勢いよく噴き出した。その煙は部屋から出て来る煙を押し戻しつつ、その勢いを弱めていく。やがて、煙は収まってなんとか部屋の様子を確認できるようになった。


 私はその隙間からわずかに覗けた部屋の中は様々なものが散乱して、そのすべてが

跡形もなく散っていた。部屋の手前にはキャリーケースにつけるようのタグが破れて落ちていた。それを見て私は、部屋のドアにつけられた名札の存在を思い出す。私が確認するとそこにはしっかりと名札が付いていた。


 そして、そこに書かれてあった名前は、西野幸助。


「西野博士……」


 誰かがまるで呼びかけるようにその名を呼んだ。

 日本現代化学の父とも呼ばれた男、西野幸助はその化学の力によって命を奪われた。



「ここは我々が保存しますからとりあえずは食堂に集まっていてもらえますか」


 すでに研究所内にいる全員が、爆発音を聞きつけて西野博士が泊まっていた部屋の前に集合していた。登松刑事は、すぐに二人の警官に命令して私たちを食堂まで誘導させる。そのまま警察によって現場の保存が行われるようだ。


「と、とりあえず簡単に準備をします。井野君、ついてきて」


 警官に誘導されて一階に降りる私たちに先んじて、副島さんは井野さんを連れて慌てて階下へ降りて行った。


 残された私たちは、ただ下を向いて固まって歩く。


「まさか、西野博士まで亡くなられるとは」


 その場にいる全員が、それを考えていただろう。これで、日本の化学界は大きく成長の足を止めるとともに、もう一つの懸念事項が浮かび上がる。


 火野博士と西野博士が二日連続で亡くなった。もう、事故だの自殺だの言っていられる場合じゃない。何者かが明確な意図と殺意を持って、二人を殺害したことは誰の目にも明らかだった。その恐怖がだんだんとしみ込んで、体を重くさせてくる。 それからどれほどの時間が経っただろうか、部屋の重い扉が開き、登松刑事の率いる警官たちがぞろぞろと食堂になだれ込んできた。登松刑事以外は、部屋の端で待機する姿勢をとる。


「さて、早速ですが西野博士の部屋で爆発があった三十分ほど前から何をしていたか、一人ずつお伺いしてもよろしいですか」


「あの、死因はなんだったんですか?」


 私がおずおずと手を挙げて伺うと、登松刑事は面倒くさそうにしながらも教えてくれた。探偵さんの推理を期待するために、少しでも情報を集めておきたい。


「被害者は、おそらく何らかの原因で発生した火が爆発物に引火し、そのまま逃げる間もなく亡くなったのでしょう。スプリンクラーが作動したことも考えれば、ほぼ確定ですね」

 

 スプリンクラー? 


 それがどう関係してくるのか分からなかったけれども、これ以上の質問ははばかられた。

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