出題編2‐5

「ちょっと、どういうことですか!」


 私は、思わず大きな声を出してしまった。控えていた警官が私を警戒して制圧をする体制を整える。それを見た私は冷静になれたけど、腹の中に据えかねた思いは収まらない。


「大きな声を出してすみません。ですが、あまりにも失礼ですよ。謝ってください」


「いいのよ、渡橋さん。私たちは大丈夫」


 副島さんが私をなだめるが、さすがにこんな酷いことを言うなんて怒りを感じずにはいられなかった。しかし、長岡博士は飄々としている。


 副島さんが、長岡博士に向かって


「それにしても、酷すぎるんじゃないですか。こっちだって責任者であり長く一緒にいた博士を失って混乱しているんです。そんな状態でもあなたたちのお世話をしているんですよ」


 副島さんは「お世話」の言葉を強調して言った。それがどうやら長岡博士の気に障ったのだろう。苛立ちを隠そうともしない。


「そんなに怒っていると、犯人だと認めたようなものですよ。そもそも、ここには沢山の薬品があって、毒物を生成するなんてあなた方からすれば赤子の手を捻るよりも簡単なことでしょう。そんな人に作られているものを、君なら食べることが出来るのかな?」


 それを聞いた井野さんが飛び掛かろうとするのを、副島さんが手のひらを向けて制した。


「いいのよ、井野君。私が缶詰を持ってくるから」


 副島さんが呆れたように言った。うなだれる井野さんは、ひどく疲れているようだった。私たちの前では三人とも気丈に振舞ってはいるが、三人ともかなり限界が近そうに見える。


「ほかに缶詰の必要な方はいらっしゃいますか? 遠慮なく言ってください」


 しかし、誰も手を挙げる人はいなかった。結局、長岡博士以外は副島さんがさっと作ったカレーを黙々と食べる。私はそれくらいなら手伝おうと思ったけれど、副島さんは断った。


「渡橋さんまであんな酷いことを言われたら嫌ですから……」


 そう言った副島さんは、とても悲しそうだった。昼食を終えて部屋に戻ると、電話には不在着信が二件ほど残っていた。私はそれが誰からかかっていたのかも見ずに折り返す。かけてくる相手は一人しか思い当たらなかった。


「もしもし、連絡が遅くなってすいません」


「もしもし。別にいいわよ。そっちもいろいろと大変だったんでしょ」


 電話口から聞こえてきたのは、やはり探偵さんの声だった。


「それで、何かありましたか? こっちはちょうど先ほどの電話を終えたころに警察の方々が到着されたんですけど」


「ようやく? 責任者はなんて名前?」


 私は、警察手帳に書かれていた名前を思い出す。苗字はわかるが、名前のほうがどうやって読むのかわからない。


「登る松に、ゆうと? ひろと? どっちかわかんないですけどそんな感じの人です」


 どうやらこんなに雑な説明でも十分に伝わったらしい。


「登松かぁ」


 最後の文字が、溜息まじりに聞こえる。その言い方は私の不安を煽る。その溜息の付き方が、呆れというか諦めというか。


「お知り合いなんですか? しかも、そのため息ってあんまり優

秀な方じゃないってことじゃ……」


「まあ、優秀な刑事さんだとは思うんだけども、ちょっと合わな いのよね」


 それは電話越しの探偵さん、登松刑事の両方と関係が浅い私でもわかる。


 ちょっとどころか水と油って例えるのが最も相応しい。少ない時間の聴取ではあったが、登松刑事はとにかく自分の決めたとおりに捜査を進めたいようなタイプであるのに対して、探偵さんはまさに自由奔放という言葉がよく似合う。二人がもしも警察で同僚だったりすれば、いつも登松刑事がイライラしていそうだ。


「ま、いいわ。それで、何かわかったことはあった?」


「いや、それはあまり進展がなかったです。わかったことと言えば、不知火は私たちの勘違いなどではなくて、地元の方でも目撃した方がいたくらいで」


 これは昼食からの帰りに出会った警察官に聞いたことだ。


 他にも研究所内のことで分かったことは報告したけれど、核心をつくようなものはなさそうだ。探偵さんも、特に何かをひらめいた様子もない。


「とにかく問題となるのはどうやって火野博士を誰にも気が付かれずになおかつ短時間で体をどろどろに溶かすほどの熱を加えたのかよね。最後に火野博士が生きている状態で目撃されたのが遺体を発見する一時間半ほど前だっけ」


 確かに、だいたいの数字なら一時間半ほど前に井野さんが目撃したのが、火野博士が生きているうちで最後の姿だ。


「でも、事件の起きた研究室の前を、遺体が発見される三十分前にも岩塚さんが通っていたらしいです。さすがに、中で人が焼かれているのに匂いどころか声も気が付かないなんて」


 普通の人ならば知らなくていいことだが、人が焼けるにおいはかなり臭いと言われている。それは人間の体毛に含まれる硫黄成分が燃焼する際に二酸化硫黄となり、それが異臭を放つためだとされる。そのため、部屋の前を通りかかって、人が焼かれていることに気が付かないことはありえないといっても言いだろう。


「まあ、そうよね。特に科学者なら二酸化硫黄の危険度はわかっているだろうし」


 さらに二酸化硫黄は刺激臭だけではなく毒性を持つ物質である。


 主に呼吸器系へ悪影響を及ぼし、日本四台公害病の一つである四日市ぜんそくは二酸化硫黄が原因だ。そのため、その匂いがすればすぐに報告するなり、においの原因を突き止めて発生を止めるのが自然だ。


 それこそ、岩塚さんが犯人でもない限り。


「ですから、火野博士を焼く時間はわずかに三十分ほどしかないんですよね……」


 先ほど、警察は真っ先に薬品などを使用した可能性を考慮して、研究所内にあるすべての薬品を調べていたが、私には三十分で人が燃え尽きるまでの火力を出す方法は思いつかなかった。


「ただ、この件においては、事件現場なんてどうでもいいわよ。大事なのは被害者の状態がどの時点で人間から遺体へと切り替わったか」


「どうしてですか?」


 私の説明不足かもしれないが、現場の状況は誰がどう見ても異様だった。あんな状態になっているのに、部屋に入って気が付かないことがあるのだろうか。


「推理というのはすべての可能性を考慮する必要があるわ。そのうえで、確定した情報を使って枝葉のように別れた可能性をどんどんつぶしていく。もちろん、その情報にも嘘は混じっている可能性もあるけどね。それを繰り返してようやく残ったものだけが真実。私はそんな風に考えているわ」


「それって、なんだか……」


 私は探偵さんが持つ推理の哲学みたいなものに、似ているものを感じた。


「ん~まあ、わかりやすくいうと量子学の原理よ。わかるでしょ?」


「はい。観測された瞬間に状態が確定するということですか」


 簡単に言えば、量子は同時に二つの状態で存在できる。これを、量子額の世界では重ね合わせという。


 探偵さんが言うには、井野さんが最後に火野博士を目撃した時点までは、火野博士が生きている状態。そして、副島さんに言われて井野さんが火野博士のいるであろう部屋を訪れて遺体を発見した時点で死亡が確定。その間のおおよそ一時間半ほどは、火野博士が生きている状態と死んでいる状態の二通り。つまりは重ね合わせの状態にある。


「そういうことよ。あなたもなかなか、頭が良いわね」


 もしも消去法で考えるならば、どちらの場合であろうとも考察をする必要がある。これからの捜査で、火野博士の死亡推定時刻がそこまで厳密に確定することはないだろう。皮膚がどろどろの遺体では、仕方がない。


「まあ、更に疑うなら研究所の職員が見たという時刻もそこまで正確なのかという問題は浮上してくるけどね。普段、後に用事でも閊えていない限りは時間を意識することはないでしょ。特に現代人なんて、常に視界の左上には時刻が表示されているのに。まあ、そこまで疑いだしたらきりがないから、所員の証言が正しい可能性を九割くらいで考えるわ」


「なるほど。なんだか安心しました」


 探偵さんがひと息で話し終えると、そんな言葉が自然と私の口をついた。慌てて口を抑えるけども、意味はない。


「どうして?」


 探偵さんは本当に不思議そうに聞いてくる。これは、きっと想像がついている場合ではなく、本当に何もわからない時の問いかけ方だ。探偵さんが私と話し始めてからすでに一時間以上が経過しているが、彼女がそんな風に聞いてきたのは初めてだった。


「なんだかすごく賢そうなので」


 これまでの人生で、私はかなり多くの人と出会ってきた。もちろん、その全員を覚えているわけではないけども特に頭の良い人は記憶に残っている。西野博士や前島教授のことだ。しかし、電話越しに感じる探偵さんのオーラはそれ以上かもしれない。そんな不確かな感覚さえも抱くほどだった。


「そうでしょ」

 

 おそらく、向こうでは探偵さんが胸を張っている。

 その後、電話越しに二人は笑いあった。


「とにかく、落ち着いているようで安心したわ。何か思いついたことがあればすぐに連絡を頂戴。こっちはいつでも電話に出られるようにしておくから」


 副島さんのようなタイプと違って頼りがいがないはずなのに、どこか心を預けていた。


 これも、実力のある探偵のなせる技なのだろうか。

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