出題編1-8
私の発言に皆が驚く。こちらに向く視線が、今までに浴びたことのないような種類のものだった。なんだか体にじんわりと刺さるようで、不快だった。
「いや、お嬢さんがあまり死体など見るものじゃない」
そう言って私を止めようとするのは、ムーシェ博士だ。もちろん、その配慮はありがたいしあって然るべきだと思う。しかし、状況も把握できないままに不安な環境にいるほうが耐えられない。確実に存在する災害の恐怖よりも、いるかもわからない幽霊のほうがよっぽど怖いと思うのと同じだ。
「お気遣いありがとうございます。しかし、これでもなんども動物の死骸は見てきたつもりです。生半可な覚悟で言っているわけではありません」
どうやら語気が少し強くなってしまったようで、全員が私の言葉に続けて発言をしようとはしなかった。
「すばらしい。だが、仮に渡橋さんが付いてきてくれるとしても不安が付きまとう。それは、どちらかが火野博士を殺害している場合だ。もちろん、火野博士が亡くなられていると確定したわけではない今の状態で誰が殺人犯かというような議論をすることは非常に馬鹿らしいことではあるが、命が危険にさらされている場合は違う。そのため、とりあえず確かなことがわかるまでは最低でも三人以上で行動した方がいいだろう」
「それはその通りですね」
西野博士の提案はもっともで、全員がそれに同意した。そして、その場にいる全員で火野博士の遺体を確認することも同時に決まった。
「とにかく、武器になりそうなものを集めて前後を男連中で挟もう。新見君と岩塚君に先頭をお願いしてもいいかな」
「わかりました」
西野博士に指名された新見博士は、素直にうなづいた。もちろん、その顔に一切の緊張がないかと言えば違うけれども、少なくともこの中で最も動揺していない。私も、西野博士がそう呼ぶのを聞いてようやく彼が誰であるかを思い出した。新見博士は、確か前島教授と同年代で常に並べて比較されるような存在だったはずだ。
しかし、そう啖呵を切ったのはいいものの、やはり不気味だ。特に、西洋風のつくりだからこその怖さがある。だが、仮に病院みたいに白いリノリウムの床だったとしても文句を言っていただろう。どちらが怖いか、いい勝負をしてる。
「足元、気を付けてね」
私の隣にいる副島さんが、怯える私に時折、声をかけてくれる。自分も怖いだろうけど、それをおくびにもださない。本当に格好良くて尊敬する。
一応、女性だからという理由で私と副島さん、甲斐博士は列の中心に配置してもらっているだけ心はかなり楽だ。前方と後方には年齢が若く体が動く順から外側に配置されている。
なにかあれば前か後ろから声が聞こえるだろう。だから、私は横の部屋から誰も出てこないか注意していたため、自然と廊下を歩きながら窓の外を眺めていた。
ちょうど先頭が地下へ降りる階段へと差し掛かるその瞬間だった。
「あれ、なんですか?」
私は思わず、声を出した。その声を聴いたとたんに、全員が身構えたのが視界の隅に映る。
「どうしたんだい?」
そう言って私に声をかけてくるムーシェ博士。私は黙って、目の前に広がる異様な光景を指さした。全員がその方向を見て、言葉を失う。
さっき、西野博士と一緒に副島さんと話していた時に聞いたところ、この辺りには近くに漁港がないからほとんど船も通らないので、夜には月明かりが海に反射してそれは綺麗に映るらしい。その景色を見ながら、おいしいスイーツを食べることが楽しみなのだと副島さんは言っていたはずだ。
そして確かに副島さんのその言葉通り、海には綺麗な月が浮かんでいた。ちょうど今日は、満月だった。東京のように、高いビルも汚れた空気も、航空障害灯もないきれいな夜空。今日は月の光が強く、周りの星は見えない。
しかし、月光のそれとは別に一つの点が光を放っている。それは夜空に浮かぶわけではなく、どちらかと言えば水平線に浮かぶような。それこそ、漁船であると言われればそう納得できる。だが、漁船だとは思えないような動きを光はしていた。なにか生きている、魂の宿っているように自然な動きだった。
「どれどれ、ほんとだね。何かの動物だろうか?」
西野博士が眼鏡をあげて目を凝らすが、この距離と暗さでは海中に何があるかはわからない。
しかも、だんだんとその光は大きくなっていって……
「ん? あれは燃えているのか?」
光が大きくなるにつれて、その輪郭がはっきりしてきた。その形は、まさに炎だった。まるで生き物のように、海の上をただようその姿は炎以外に考えられなかった。
「確かに燃えているように見えますけど、ありえないですよね……」
火が発生するには、酸素と一定以上の温度に加えて有機物が必要だ。酸素は問題ないだろう。しかし、この時間の海にそんな高熱が発生することは考えづらい。
「流木か海草が燃えているのかな。ただ、なぜそんな状況になっているのか……ここまで長く生きてきたがこんな光景を見たのは始めてだ」
私も同じく、こんな光景を見るのは始めてだった。海の上で燃える炎。しかも、海の上に浮かぶならば濡れているはずだから燃えてもそこまで大きな炎になるとは思えない。少なくとも、こんな遠くから視認はできない。なら、何が燃えているかと言われれば答えに困るのだが。
「どういうことですか? 夜の海に炎なんて」
明らかに異様な光景が、私の眼前に広がっていた。しかも、その炎が海水によって鎮火することはなく。さらに勢いを増して燃え広がっているようにも見える。私の疑問に誰も答えることができないでいた。
「なんだろう。私もこんな現象を見たことはない」
やがてその炎は辺りにも飛び火し、更に火種は増えていくばかりだ。その光景はあまりにも美しく、その場にいる全員が言葉を発することも無く、ただただ夜の海を眺めているばかりだった。
しかし、やがて火は弱まっていき、
「消えた」
誰かがそうつぶやいたのが先か、最後は小さくなったいくつかの炎が、ふっと消えた。その光景はまるで、命の炎が尽きるかのようで、不気味ながらも妖艶な美しさを孕んでいた。窓の外には、再び静かな夜の海がまるで永遠のように続いている。
その炎が消えた後も、全員が少しの間、動けずにいた。
『いったい、あれはなんだったんだ?』
そう言いたい気持ちを誰もが抱えながら、しかし誰も口にせずに廊下をすすむ。ありえないことが、立て続けに起こっている。火野博士が亡くなったこと、そして海に浮かぶ謎の炎。
しかし、全員の興味がすでに火野博士から謎の炎へと傾いていることは、肌で感じた。ここにいる人間は皆、もともとは好奇心を突き詰めた生き方をしてきた人たちだ。あんなものを見せられて、興味を抱かないわけがない。
「その角を曲がると、火野博士のいる研究室です」
副島さんが先頭を歩く新見博士と岩塚さんに声をかけた。その声に、こちらを振り向かずに頷く二人。そのまま彼らが角を曲がるのに続いて、全員が曲がり終えたあたりで私の視界にも再び研究室の看板が映った。先ほどは気が付かなかったが、部屋の周りには全くと言ってもいいほどに違和感がない。この先にある部屋で人が亡くなっているなんて言われても、普段の私ならまず信じないだろう。
「火野博士、開けますよ?」
岩塚さんが、手の甲でドアを軽く三度叩く。その礼儀に意味はないとしても。
研究室のドアが開き、ここもやはり違和感のない部屋が広がっている。しかし、それは左の方向を見るまでの話だ。そこには、先ほどとまったく同じように燃え尽くした一つの遺体があった。
「これは……」
それを発見した瞬間に全員が声を失った。最初に部屋に入った新見博士がポケットから手袋を取り出してそれを装着し、遺体に触れる。脈、そして呼吸を確かめるがそれらは当たり前のように動いていなかった。まるで、博士が人形を相手におままごとをやっているような気味の悪さを覚えるほどに。
「ど、どうだい。新見君」
西野博士も結果はわかっていながら、蜘蛛の糸にすがるようにか細い声で問いかけた。しかし、新見博士は首を横に振る。
「残念ですが、亡くなっています」
そういって脈を図るために掴んだ腕をそっと地面へとおろした。おろされた手に生えた指は、降ろした衝撃以外で動くことはなかった。
「副島さん。通報をお願いします」
新見博士は、虚空に向かってそういった。
「わかりました」
副島さんはひたすら冷静に、受話器を耳につけて話し始めた。
その時だった、甲斐博士が何かを発見したように指をさす。
「なによ、あれ!」
その声には悲鳴が混じっていた。私はあわてて指のさす方向を見ると、そこには奇妙なものがあった。それは、危険なものを扱う実験室には無駄なものを置かないという常識を破るようなものだった。
「あれは、牛の剝製ですか?」
見たところそれは、何かの骨みたいだった。私は剥製に詳しくないけども、岩塚さんのいうところには火野博士が趣味として飾っていた剥製らしい。
「どういうことだ? ダイイングメッセージなのか?」
ダイイングメッセージ。一般的な殺人事件の被害者が死ぬ直前に書き残したメッセージで犯人を特定する手掛かりになるようなものだ。しかし、犯人にメッセージを残していたことがばれてしまうとそれを消されてしまうかもしれないため、あまりにも直接的に犯人を示すことはない。
「でも、牛?」
牛という言葉に、思い当たるものはなかった。牛が名前に入る人物もいなければ、生物学や遺伝化学などを研究している人物もいない。いったい、どういう意味だろうか。
その時、誰かがぼそっとこう言った。
「もしかして、ファラリスの牡牛?」
その言葉が妙に引っかかった。ファラリスとはいったい?
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