出題編1-7
私と副島さんはとりあえず事態を把握するために、彼の言葉を聞いた後すぐに研究室へと向かった。少なくとも、彼はもうこれ以上はまともに説明できるような状態じゃない。
「あれ? みなさんどうかされたんですか?」
「岩塚君。とにかく接待は後回しにして井野君を食堂へと連れて行って!」
副島さんが通りかかった岩塚さんに彼の介抱をお願いし、そのまま研究室の方向へと向かった。私はさすがに何があるかわからない状況で副島さんを一人にさせるわけにもいかないので、怖かったけれど副島さんについていくことにした。
「渡橋さん。何か、武術の心得は?」
「……ありません」
「じゃあ、とにかく背後に気を付けて。私は前に気を配るから」
「わかりました」
私は体を右側に向けて足を交差させながら歩いた。一本道の長い廊下なので誰かが来れば気づくはずだ。ゆっくりではあるが、階段を降りてじりじりと進んでいく。
副島さんが角に達して少し立ち止まった。私は前への意識が薄く、副島さんの体に軽くぶつかってしまう。しかし、副島さんは声をあげることなく角から様子をうかがっている。
「ここを曲がると、研究室だから覚悟を決めて」
「は、はい」
私は深く息を吸って、心臓の動きを整える。だけど、胸に手を当てると異常なペースで動いているのがわかる。目を閉じて落ち着くことは、恐怖でできなかった。
「渡橋さん、行くよ」
副島さんは私の手を取って、研究室へ向かった。その手に汗がにじんでいるから、怖いのは私だけではないと安心できた。
研究室のドアは開いたままだったが、ドアは内開きなので中の様子を窺うには部屋の正面に入らないといけない。
副島さんは副島さんはそれに対して声を震わすこともなく、
「博士? 大丈夫ですか」
しっかりと内に開いたままのドアに手の甲を三度打ち付けてから部屋に入る。私が遅れて中を除くとそこには何も不審な点がない研究室があった。本来はどんな状態だったのかは私にはわからないが、一般的な研究室と比較して特に違和感はない。強いて言うなら、実験器具が多くごちゃごちゃしているだけだ。
「あれ? 博士はどこに行ったんだろう」
博士らしき人は、覗き込んでも見つからない。
「副島さん。ちょっと、奥に入ってくれますか? それとも、何かありました?」
私は奥に入ってより詳しく調査したいという好奇心と、はやく状況を把握してなんとも言えない恐怖を取り除きたいという欲が湧いてきて、部屋の中へ進もうとするが、ドアを開いて少しだけ進んだところで副島さんがまるで凍らされたように固まっていて進めない。今日会ったばかりの人を押しのけるなんてことはできないので、副島さんに何度か声をかけるが聞こえていないように反応がなかった。
「お~い、聞こえてますか?」
私は、副島さんの脇を抜けて部屋の内側へ入る。改めて部屋の右側から見渡していくと、実験器具の入った木製の棚や換気扇が目に入ってきた。そして、どんどん左に
視線を移していくと何かしらが床に置いてあるのが見えた。いや、落ちている?
「ひっ!」
私は驚いて後ろに飛び。実験器具の並べてある棚にぶつかる。棚の中でいくつか実験器具が倒れる音がしたはずだが、その音ははっきりと聞こえなかった。私の神経がすべて、視界からの情報を得ることに注力していたためだろうか。
「そ、それって……」
私は恐れながらその置かれてあるものに再び視線を向けた。驚いたときに見たものが、勘違いであればいいと思ったのだ。
しかし、現実はそううまくいかない。私がちょうどそれのすべてを視界に捉えた時だった。
「もう……亡くなっているわね」
副島さんがポツンとそう言った。
そこに転がっていたのは、燃え尽きた一つの人間だった。人間だったものだった。
「とりあえず、警察に連絡をすることと全員に説明をしないと。みんなのいる部屋に戻りましょう。立てる?」
「ありがとうございます」
私は、副島さんの差し出してくれた手を握って引っ張ってもらうことで、なんとか立ち上がった。心はできるだけ平静を取り戻そうとしているが、足は震えていた。右手を副島さんと繋ぎ、左手を棚についてなんとか姿勢を保った。
繋いだ手から、副島さんの震えが伝わってくる。冷静な態度だけれども、もちろん副島さんだってパニックになっているはずだ。
「大丈夫? もしも気分が悪くなったら教えてね」
「わかりました」
私も動揺していて、彼女が敬語を使うことをやめたのにこの時は気づいていなかった。二人ともが怯え、動揺しながらも声をかけあってなんとか、部屋に戻ってきた。体感で言えば、実験室から三十分以上は歩いた気がする。
副島さんがドアを開けると、部屋にいる全員が一斉にこちらを向いた。どうやら、先ほど岩塚さんと呼ばれた人にに連れられて部屋に戻った井野さんに話を聞いて、とにかく全員で集まって話し合いをしていたらしい。
「ちょっと、どういうことなの? 彼が、火野博士が……」
甲斐博士がもっともはやく私たちを発見し、問い詰めるように聞いてきた。その迫力に私は少し下がってしまうが、副島さんは毅然とした態度を貫いている。
「まあまあ、甲斐博士。落ち着いてください。彼女たちも困惑しているでしょう」
西野博士が甲斐博士をいさめてくれた。
「ありがとうございます、西野博士。もちろん、あったことはすべてお話いたします。ですが、まずは警察に連絡をさせてください。ごめんなさい岩塚君、コードレスの電話を持ってきてもらえませんか?」
「わかりました。すみませんが、どなたかついてきてもらえませんでしょうか」
その岩塚さんには、ムーシェ博士が伴って部屋を出ていく。
何分たっただろうか、時計をみるような余裕はなかったが、それなりに長い時間をかけてムーシェ博士と岩塚さんが手に電話を持って戻ってきた。
「では、みなさんもお揃いですので単刀直入に報告すると、この研究所の所長であり最高責任者である火野響介が、研究室にて亡くなっていました」
「そんな……なんてことだ」
一人の研究者、私がまだ挨拶をしていない人が頭を抱えて言った。全員、言葉を発さないだけで沈痛な面持ちをしている。
「すまないが、私はそれを素直に信じることはできない」
しかし、その中で一人だけ毅然とした態度を崩さない人物がいた。その人は、ここにいる全員の中で最も年長者であり、実績も豊富な西野博士だった。
「私の大事にしている考え方の一つに、この目で観測するまで自分の中で思考を停止させない。人から得た情報は、完璧には信じ切らないというものがある。だから、もし許されるのであれば私が自ら火野博士の遺体を確認したい。しかし、ここで私が一人で火野博士の遺体を確認するようなことがあれば、万が一火野博士が死亡してなおかつ他殺であったと断じることができる場合には私が証拠を隠滅したと疑われる恐れがある。なので、誰でもいいから私についてきてもらいたい」
その発言には、化学という半ば狂気の世界で半世紀近くにわたって生きてきた貫禄や威厳のようなものが詰まっていた。その言葉に、誰も意を唱えることはできない。
観測するまで、状態は確定しない。それは、量子を扱う学問においては基本中の基本である。算数であれば乗法と除法から先に計算する。英語ならば、文末には必ずピリオドを打つ。それらが前提としてあるからこそ、学問としてなりたつ。
「そ、そうですよね」
なぜ、あそこで私はあの遺体が火野博士だとわかった?
いや、そもそもあれは火野博士ではないんじゃないか?
それどころか、遺体ですらないのかもしれないじゃないか?
考えればいくらでも、楽天的に考えることができる。もともと、想定されている状況が最悪であるだけに、これ以上は悪くなりようがなかった。
私は、安易にもその想像にしたがうことにした。
「西野博士、私も行きます」
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