出題編1-2
副島さんの言った通り、枕元には懐かしい家庭用電話のようなものがあり、その隣には電話帳代わりの紙が、エアコンの風で飛ばないようにテレビのリモコンを載せて置かれている。とにかく、急に無音になったのがなんだか不安になって私はテレビの電源を入れた。時間帯が悪く、おもしろい番組は放送していなかったが、ひと昔前に流行った芸人のテレビショッピングで充分だった。どうやら、今日は新発売の包丁を紹介しているらしい。それを背景音にして、ベッドの隣にある椅子に腰をかけてぼんやりと天井の方を向いた。
名刺を頬の付近に掲げて、蠱惑的に微笑む彼女の表情が白い天井にぼんやりと浮かんだ。それが、当分の間は忘れられなかった。
「とりあえず、お風呂に入るか」
脈絡のない独り言も、誰も気に留めない。
私は、荷物の整理は後にして体にべったりと貼りついた汗を流すことにした。べとべとしたままの手で、あまりメモ帳やノートに触れたくないし、着替えを取り出さなくてもどうせ誰もいないんだから裸で出てくればいい。私はスリッパを玄関にある下駄箱から取り出し、それだけ持ってバスルームへとつながるドアを開く。
「うわぁ、きれい」
ドアを開いた私は驚いた。 先には大きな鏡があり、その下には水垢一つも無い鏡、そして手洗いがピカピカに磨かれていた。向かって左側に浴室があり、浴室へのドア付近にはタオルをかけるパイプが三本ならんだ手すりが設置されている。
そこにはボトルのシャンプー、リンス、ボディーソープが並んでいた。私はその三つを浴室において、そこへシャツ、アンダーウェア、下着を脱いだままぐちゃぐちゃに載せて置く。
「はぁ~生き返る」
シャワーヘッドから飛び出すお湯が、体から汗を流してゆく。お湯に濡れた髪が体へと落ち、その上をさらに流れてゆく。湯を張るのは面倒だったのでシャワーのみにして、さっと手で体を洗うとすぐにあがった。シャンプーを置いてあった手すり、そのもう一つ上の段にあったホテルに置かれてあるような白く分厚いタオルで体をふいて、足にスリッパをひっかけてベッドへ戻る。空調がしっかりと作動しているので、裸だと少し寒いけれど、そのおかげで裸のままにその高級な布団をまとうとなんだか背徳感で気持ちがいい。少しだけそうしてから、リュックの中からきれいな下着、着替えを取り出して身にまとい、一息つくためにベッドに腰をおろす。
「そうだ、冷蔵庫」
教授へ無事に到着したことを連絡をしようと思ったけれども、先に私は副島さんの言葉を思い出した。せめてものお礼と言っていたが、ここまで綺麗な部屋と設備を見せられれば、期待せざるを得ない。意気揚々と冷蔵庫の取っ手に手をかけてその扉を開くと、そこにはケーキやチョコレート、タルトなどがところせましと並んでおり、ドアポケットには様々なジュースに加えてビールも並んでいる。色とりどりの冷蔵庫に私は歓喜の声を抑えられなかった。
「うわぁ~最高!」
さっそく、冷蔵庫からチョコレートと牛乳を取り出し、テーブルに置かれていたマグカップに注いで、携帯をいじりながら個包装されたチョコレートの包み紙を器用に片手で外し、次から次へと口に放り込んでいく。
チョコレートはしっかりとカカオの入った高級品で、意識を携帯に向けていると左手は止まらなかった。携帯ですることがなくなる前に、チョコレートが一袋まるまる、胃袋の中に消えていた。気づいた時には、もう遅い。
「やば……また、太るかな」
せっかく、ここに来るまでたくさん歩いて汗を流したから少しは痩せたかと思ったが、冷蔵庫の中身をすべて消費するころには意味がなくなっているだろう。幸せな気持ちから一転、むしむしとした憂鬱が押し寄せる。その憂鬱に押しつぶされるように体をベッドに倒すと、体が安心したのかだんだんと眠気が押し寄せてきた。
そしてそのまま、私は眠りについたのだった。
「渡橋様、渡橋様。大丈夫ですか?」
ドアの向こうから聞こえる声と、ドアを叩く音で私は目を覚ます。慌てて手元に落ちていた携帯電話の電源をいれると、時間はもう十八時を過ぎていた。普段なら、夕食の準備を始めているころだ。時計を見たところで、ようやくお腹がすいていることに気が付いた。私は慌てて体を起こし、とりあえずドアを開けに向かう。
「すみません、お待たせして」
私が眠い目をこすりながらドアを開くと、そこには驚いた顔をした副島さんがいた。その手には、簡易的な黄緑色のタイマーが握られていた。
「起こしてしまいましたか? 申し訳ありません」
彼女は、小さな声でそう言いながら頭を下げようとする。
「い、いえ。決してそんなことは」
私は手を振って、それを否定した。その仕草がどうやらうまく伝わったみたいで、彼女の表情には少し明るさが戻った。
「それで、何かありましたか?」
私が首をかしげると、副島さんは手を横に振って大事ではないことをアピールする。
「そろそろ夕食の時間ですので準備の時間が必要かと……」
副島さんが最後を私に預けてくれた間に、脳のスイッチを入れる。
「それは気遣いありがとうございます。すぐに準備しますね」
「そうですか。それは良かったです」
私の反応を見て、副島さんは完全に明るさを取り戻したようだった。私もそれを見てほっと胸をなでおろす。副島さんはどうやら少し人に気を使いすぎるタイプのようだ。私も、そういった部分があるから気持ちはわかる。お互いに、まだまだ緊張が抜けない。
「では、下でお待ちしております」
そう言って、副島さんは階段を下りて行った。 私は、会話が終わってからすぐに下へ向かう準備をした。別にドレスコードなどはないだろうけど、パーティーに呼ばれているのだから最低限の服は用意してきたつもりだ。大学生にできる限りのドレスは用意したつもりだ。もちろん、その領収書の宛名も前島教授にしている。
レーススリーブのドレス。我ながら可愛いチョイスだと思う。
だが……
「あ、リュックから出しておくの忘れてた」
ちゃんとしたドレスだったから、しっかりと畳んで持ってきたけどもリュックの中で様々な荷物にもまれているので、決していい状態ではなかった。本当なら、部屋についてすぐにハンガーにかけておくべきだったんだけど、それも忘れて冷蔵庫を漁った後にはすぐに眠ってしまった。そのことを、深く後悔する。
「ど、どうしよう。さすがにアイロンは部屋に置いてないよね……」
寝室にはテレビと冷蔵庫。バスルームにはドライヤーがちゃんと置かれていた。だが、さすがにアイロンまでは置いているわけもなく、私は階下に行ってアイロンを副島さんに借りることになった。きっちりとアイロンをかけると、なんとか間に合った。副島さんが気を配って先に起こしてくれたおかげ。私は後で感謝を伝えようと思っていたが、それどころではないことが起こってしまう。その足音はすでに、私たちの後ろへぴったりとくっついていた。
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