20. 罠

一睡も出来なかったせいだろう。静かに車に揺られ続けると、うとうとと船を漕ぎ、ふと意識を手放していた。誰かが俺の方に手を伸ばし、優しくて甘い柔らかな香りを嗅いだ。その香りが好きだった。



『…赤澤、』



男の甘い香りを感じていた。体育館倉庫の夏の茹だるような暑さに、額から一筋の汗が流れて顎を伝い、雫となって男の白い背中に落ちた。男は身を捩り、甘く吐息を漏らしながら俺を睨み付けるように見上げると、片手を軽く俺の胸に押し付け、弱い力で押し返す。俺はじっとその瞳を見下ろした。甘く開かれた唇に視線が下り、俺は拳を握った。そんな関係じゃねぇだろと、呼吸を整え、ゆっくりと離れようと男の腰から手を離す。どろどろと歪んだ欲にまみれて、いつも冷静になるのは全てが終わった後だった。こうでもしなければ繋ぎ止められないのか。そうまでして繋ぎ止めたいのか。


ただ、傷を増やしているだけだと分かっていた。

ただ、こいつに自分を押し付けているだけだと分かっていた。


俺はこいつの事が憎いだけ。嫌いなだけ。何が刑事だ。何が正義だ。あんたは俺が欲しい物を簡単に手に入れる事が出来るんだろ。だから、俺は、あんたが嫌がる事を全てしたい。



『………なぁ、』



早くその場を去りたかったのに、男の声は俺の足を止めた。男はコンクリートの地べたに気怠そうに座りながら俺を見上げていた。



『満足かよ』



俺は何も答えなかった。いや、答えられなかった。無言でいた俺に男は鼻で笑って続けた。



『いつか、…いつか、お前も分かるよ。俺の気持ち。組み敷かれて、欲をぶつけられて、立ち去る相手の背中を見る気分。いつかお前にも分かる。……いや、お前は阿呆だから気付かないのかな。それとも、気付いてないふりなのかな。お前って本当、阿呆だからな』



男はそこまで言うと視線を逸らして頭を掻く。何かを考えた後、ふっと口角を上げて最後にぽつりと付け足した。



『ねぇ、お前さ、本当は………』 



ビクッと体が反応した。脈拍が速く落ち着きをなくし、体が強張っている。どうやら寝落ちていたらしい。やけに懐かしく、嫌な夢だった。あの時あいつに言われた言葉に、俺は、何て返したろうか。言葉では何も返してないのかもしれない。腹が立ち、憤り、いつものようにその顔を殴りつけたろうか。


…いや、違うな。


深い溜息を吐き、また、窓の外を眺める。車は埠頭近くの人気のない倉庫の中へと入ってく。倉庫にはニ台の車が既に停まっていた。



「向こうの車で話しますか?」



斉藤は車を停車させると、そう心配そうな顔を向ける。何を言いたいのかを察知して、「心配するな」とだけ言って外に出る。俺が外に出ると手前に停まっていた車の後部座席から松葉は現れた。



「本当に生きてたんですね」



「えぇ」



「刺されたんですって?」



「はい」



「警察はうちの組だと言ってるみたいですが、俺と会って大丈夫ですか?」



松葉はふふっと揶揄うように笑っている。



「これ見よがしに置かれたバッジなんて、誰も信じませんよ」



「そうですか」



松葉が乗っていた車の運転席には男がひとりいた。俺達が車へと近付くと、そいつは運転席から出てすぐに後部座席のドアを開ける。松葉は中へ入り腰を下ろす。俺は反対側から松葉の隣へと座った。俺が座ると松葉の指示でその男は後方に停めてあった別の車へと移動した。



「青木の事、ですね?」



「はい。あんたの知ってる事を全て教えて下さい」



松葉は深く息を吐き、「ようやくですね、いいですよ」そう口角を上げる。



「青木が俺に接触してきたのは藤ヶ谷を渡した時が初めてでした。あの日、青木はペラペラと俺の秘密事を引っ張り出して脅しをかけてきたんです。俺の住んでいる場所まで口に出したのですから、相当厄介なやつだってのはすぐに分かりました」



「そう、でしたか。…あいつは、もともとあなたの情報を知っていたんでしょうね。だから接触する機会を逃すわけにはいかなかった。あの時、あいつはひとりで倉庫へ行くと言って、俺と涼司を置いて出て行ったんです。建前としてはあなたが俺に危害を加えない人物であるかを確認する為、しかし本心は、あなたを脅す為」



「はい。あいつが俺を脅したのは間違いなく君を追い込む為です。脅しなんかに屈したくはなかったのですが、その脅迫のネタに俺は屈せざるを得なかった。それから俺はあいつの言いなりで、君の所にも邪魔を入れた。確かに君の案件はいつも良い金になります。入り込む隙があるものは入り込む、でも、青木は全てに邪魔をしろと言い出した。アレの考えている事は本当に恐ろしいですよ」



「俺を葬り去りたかったんだろうな」



「君にダメージを与える為なら手段は選ばない、そんな感じがしました。君を若頭の座から突き落とし、首を絞めて苦しめる。あの時の青木は君を心底嫌っているようでした。…けど、俺に助けを求めに来た時、分かったんです。本心はどうやらそうじゃなかった」



本心はという言葉にひくりと眉を寄せ、無言でいた俺に対して松葉は口端を上げる。



「側にいる事で絆され、靡いたのか。それとも、彼の感情はもともととても不安定なものだったのか。彼が君を嫌悪し落としたいと言う度に、なんだかそれは自分に暗示をかけているように聞こえました」



「…暗示、ですか」



「えぇ、暗示。本音はとても歪な感情で、それはそれは苦しそうでした。ただハッキリしているのは、君を特別視するからこそ苦しんでいた、そういう事かと。君に対する異常な執着ですよ。俺が標的になったのはきっと、俺が君の案件に手を出していたからだけじゃない。俺は君に近い存在だったからです。そうして脅しの材料も揃い、彼は俺を排除したかったのだと思います。あんな恐ろしくも歪んだ人間、そうそういません。真っ当な職を得て、真っ当に生きる事ができたのに、狂ったのは誰のせいでしょう。…彼の正体、もう、分かってるんでしょう?」



松葉はそう首を傾けて訊ねる。松葉の言い方からして、青木は松葉に全てを話し、松葉はあいつの正体も知っているのだろう。意外だった。



「あいつはあんたに言ったのか?」



「えぇ。彼は君が刺されて、俺のところに助けを求めに来たんです。君を助ける為にはある組織を潰す必要があると言っていました。それには特定の情報が必要で、その情報は俺が持っていた。話さざるを得なかったのでしょう。だから彼の口から彼の正体を聞きました」



「そうですか…」



「分かりますか。あれがそこまで手の内を晒した理由」




口を歪めた俺に松葉は淡々と続ける。



「君ですよ。君を助ける為には、手段なんて選んでられなくなったんです。それくらい君を失う事が怖かったんです」



ぐっと拳を握ると、その拳は微かに震えた。拳を見つめながら思う。あいつに守ってほしいなんて、誰が言ったよ。俺を失う事を怖いなんて思うなよ。勝手に殺されてんじゃねぇよ…。悔しくなって奥歯を噛み締めて数十秒、苛立ちを飲み込んで拳を解き、口を開く。



「あいつはXとかいう情報屋組織の一員でした。その一員になった理由も、公安の潜入が理由です。俺との再会も必然でした。あいつは俺を騙して、俺を地獄に突き落として、それで、…良かっただろ」



松葉は俺の頬に掛かっていた髪をゆるりと横へ流すと、自分の方を向けと顎に指を引っ掛けた。松葉の目は真剣で冷静だ。



「赤澤、あいつはそれが出来なかったんです。結局は、君の為に自分の命をも危険に晒した。地獄に落としてやると息巻いていた相手の為に何もかもを犠牲にした。だから、赤澤、彼の後を追うつもりなら、俺は背中を押せません」



「それはあいつが俺を守ろうとしたからですか」



「はい。君をこれ以上、危険に晒したくないから彼は俺に全てを吐いたんです。自分の命を好きにして良いとまで言いました。だから、そこまで守りたかった君が、自ら危険に飛び込む事は…」



「それでも俺は青木の行方を追う必要があります。…あいつが守ろうとした男はそんな男です。俺は昔から傲慢で自分勝手で、あいつを手離して自由にのうのうと生きられるほど強くありません」



松葉は何も答えず、数秒、沈黙が流れる。その後で大きな溜息を吐き頭を掻いた。



「結局は君も彼に対してとんでもない執着をしているんですね」



「えぇ。でも、直視できなかった。逃げて暴力に頼っただけでした。だからこそ、俺は落とし前をつける必要があります。もしあいつの行方を知ってるのなら教えて下さい。お願いします」



俺は初めて松葉に頭を下げた。もう松葉しかいないのだ。青木に辿り着けそうな情報を持ってるやつは、もう、松葉しか。松葉は唇をぐっと噛み、少し考えているようだった。そうしてしばらく考え、「今青木を追えば、君は死ぬかもしれませんよ」と眉間に皺を寄せる。でも俺は追わなければならない。



「…………青木が、殺された可能性があります」



松葉の眉間の皺が更に深くなり、目が見開かれる。



「本当、ですか」



「電話で一方的に別れを告げて、その後、銃声が聞こえたんです。銃声の後、若い男が電話に出て楽しそうに青木の事を話しました。青木は俺を殺せなかったから、だからその正体を見破られた、と。青木は詰めが甘かった、とね。その後、電話を切られて、何度も折り返しましたが繋がりませんでした。だから青木の行方を追う必要があります。あいつが殺されたとは信じたくない。でも、…あの銃声がずっと頭の中で繰り返されるんです。あいつの行方を、知りたいんです」



その言葉に松葉の表情が変わる。



「それって、5時間くらい前のことですか」



「たぶん、それくらいかと。…けどなぜ、それを」



「なるほど。俺はね、青木に死なれては困るンです」



どういう事かと怪訝な顔をしている俺に松葉は答えた。



「俺が青木に渡した情報は極秘も極秘。絶対に面には漏れてはならない情報です。でもその情報ひとつで、Xは壊滅できるようなんです。けれどもし、あいつが死んだのなら、俺はまだあの組織に首輪をつけられているようなものです。逃げられないンですよ。だから青木に死なれては困るンです」



松葉はそう言うと俺に携帯を見せる。そこには何処かの地図が開かれていた。



「俺はね、彼の携帯に追跡アプリを入れていました。どうやら家を出た後それを削除したようですが、そのアプリは削除したって追跡は出来てしまうんです。所謂トラッカー。それで見ていたのですが、5時間前、突然地図から彼の痕跡が消えたんです。そして数時間後、再び点灯。つまり携帯の電源が落とされ、その後、また誰かが電源を入れた、という事です。それは一体誰か。一番考えられるのは、その若いやつなのかもしれません。これ、見てください」



見せられた地図にはオレンジ色の丸印が、ある場所で点灯していた。



「この丸印が青木の居場所。まだ電源が入ってます。重乃沢高級別荘地の一角、ここからだと3時間ちょっとで着くはずです。ただ罠かもしれません。君と話したという若いやつが君を誘き寄せている可能性もあります」



「そうかもしれません」



「顔に行くって書いてありますけど、それでも行きますか。GPSはこの建物から発信されている、という事は確かで、青木の痕跡は掴めると思います。彼が死んでいない可能性もあり、彼自身で発信しているかもしれない。しかし罠の可能性も高いんですよ」



確かに罠かもしれない。けれどそれでも行かないという選択肢はないだろう。青木が生きているのなら、それで良い。最悪、青木を撃った男に繋がるのなら、そいつを捕まえて青木の居場所を吐かせるまでだ。



「俺は行きます」



「ですよね…。であれば、俺も行きます」



松葉が俺に対して贖罪の気持ちを抱いているのは確かだった。あの松葉が自ら危険な場所に行こうだなんてまず有り得ない。けれど、こいつをこれ以上巻き込むわけにはいかない。



「俺ひとりで大丈夫です。今、あなたを巻き込む事は出来ません」



「でも君は今かなり危険な状況です。青木の後ろにいる組織の事もそうですが、相馬組が黙っているとは思えません。味方は多い方が良いのでは」



「これは俺が蒔いた種。俺に片をつけさせて下さい」



松葉は分かりやすく溜息を吐くと、「頑固ですね」と呟いた後、「分かりました」と頷いた。



「こういう時の君は何を言っても聞きませんよね。では、君の携帯に先程の地図を送ります。何かあれば連絡ください。いいですね、君も組の若頭です。犬死になんてしないで下さい」



「野垂れ死ね、ってあんたなら言うかと思ったんですけど」



「失礼ですね。俺はそんな事を言いませんよ。張り合いがなくなってしまう」



松葉はそう甘く相好を崩す。



「それと、」



「はい」



「切田は生きてます。安心して下さい。青木は彼を殺そうとしたわけじゃありませんでした。それどころか、最終的に青木は切田も守ろうとしました。彼もまた自分の蒔いた種だと、片をつけるために自分を犠牲にしたのだと思います。でも、そう簡単に死なれては困るんですよ。彼はまだ生きてる、そう信じてます。いや、信じなきゃならない。彼をさっさと連れ戻して下さい。まだ、やって貰わなければならない事があるので」



「分かりました」



俺のやるべき事はひとつ。あいつを連れ戻す事。でも、これは俺がやるべき事だった。松葉や斉藤、組の人間をこれ以上巻き込むわけにはいかない。ネックになるのはやはり斉藤だ。どうしたってあいつは関わろうとするだろうから、ここであいつを離すしかないだろう。



「ひとつ、頼みを聞いてくれますか」



松葉は首を傾げた。



「何です?」



「斉藤を拉致ってくれませんか」



俺の提案に松葉はギョッとしたようだった。



「は? 君はまた何をぶっとんだ事を…」



「あいつは多分、死ぬまで付いて来る気です。でも、俺としてはこれ以上あいつを、いや、組を巻き込めません」



「あー……なるほど。分かりました」



松葉はそう言うと顎を撫で、少し考える。



「なら、よーく効く眠り薬があります。それ、嗅がせますか」



「大丈夫なんですか、それ。というより、なんでそんなもの常に持ち歩いてンですか」



「ちょっとしたルートで手に入れた薬ですが、安全面は保証します。よく効くので嗅いだ後、すぐに気を失くします。ただ目を覚ました後、しばらく体が重かったり、頭痛があったりするみたいです」



「副作用あるんですね」



「えぇ、ありますが少ないです。安心して下さい。何度か怒り狂った切田に使った事ありますが、すぐ倒れて、30分くらいで目を覚まします。でもしばらくは体が鉛みたいに動かない、と言ってました」



自分の補佐をまるで実験のように使う松葉は相変わらずイカれていて、俺はつい笑いそうになった。



「分かりました、ではそれを貰いましょう」



「はい。あ、それと、これは常に、ではないですから。今日はたまたま、ね。君に久々に会うって事でしたから」



そうニッと白い歯を剥き出して、こいつは恐ろしい事を言う。ゾワッと鳥肌が立った。



「気持ちの悪い事を言わないで下さい」



「ふふ。冗談です。…あ、あと、こんな所に偶然ロープが! ロープで縛って、トランクに詰めますか」



松葉は助手席に手を伸ばして麻紐のロープを取ると、俺にそれを見せた。



「うちの斉藤に手荒い事は避けてほしいんですけど」



「……そうですか」



松葉は分かりやすくしゅんと肩を下げる。



「眠り薬、貸してください。部下も借ります。あと、何のために持って来たか分からないロープも、念の為に」



「手荒い事は避けてほしいと言ったのはどこの誰でしたか」



「あいつね、あー見えて喧嘩強いんですよ。正面から嗅がせようものなら、俺が殺されます」



「へぇ。君より強いんですね。体格は君のが良いのに」



「ボクシングをやってたみたいで。しっかり格闘技やってるヤツには勝てませんね」



「そうですか、分かりました。…で、どうしますか」



「あいつに嗅がせて来ます。なので、気を失ったあいつを移動させるのに部下を借りたいのですが、問題ないですか」



「えぇ、それは問題ありません。でも、ひとりで嗅がせに行くのですか? 正面から嗅がせられないのでは? 羽交締めにして嗅がせましょう。人手はあります」



「いや、俺以外の誰が近付いても警戒しますし、あいつを羽交締めできるか分かりません」



「なるほど。斉藤はほぼ手負いの獣だという事が分かりました。では、コレ、薬です。ハンカチに5滴ほど染み込ませて、鼻と口を覆って下さい。少ないと効きませんし、多いと吐きますので気を付けて。斉藤くらいの体格なら、1分で気を失います」



「分かりました」



俺は薬とハンカチをポケットに突っ込んで車を出た。斉藤は俺が車から出たのを確認すると、自分も運転席を出て、後部座席のドアを開ける。心配が顔に出ていて、感情が丸出しである。



「大丈夫、でしたか」



「心配しすぎだ」



後部座席へ座ると、斉藤はドアを静かに閉めて、自分も運転席へ戻って行く。ハンカチへ5滴、薬を染み込ませた。斉藤が運転席に座り、ドアを閉めたのを確認してそっとその後に回る。



「悪いな」



後ろから斉藤へと手を伸ばす。突然、押し付けられた布に斉藤は目を見開き、ジタバタともがいた。その布を取り外そうと俺の手を外そうと、もがけばもがくほど、呼吸は荒くなる。吸う速度も早くなる。



「帰って来たら説明する。だから少しの間、休んでくれ」



斉藤の呼吸は落ち着き、そうすると途端にふっと手の力がなくなり意識を失った。松葉の部下を呼び、一応その手足を縛り、松葉に頼んで斉藤の家まで運んでもらう。



「高くつきますよ?」



松葉は楽しそうにそう微笑んだ。



「でしょうね。請求書、送っといて下さい」



松葉は「次、会った時に」そう言って俺達は別れた。俺は一度家へと戻り寝室へ。隠していた拳銃を一丁、弾を確認し、ショルダーホルスターを装着し、銃をそこへ挿し込んだ。予備の弾も入れ、ジャケットを羽織り、その場を後にする。


松葉が送った地図を頼りに車を走らせる。街を過ぎ、郊外を過ぎ、人気のない場所に出る。更に車を走らせる。西陽が眩しかった。山道に入り、車を走らせると舗装されていない砂利道へと出る。陽は落ちていた。地図上で点灯していた印の建物はホワイトウッド一軒家だった。しかし人が住まなくなってどれくらい経ったのか、窓ガラスの一部は割られ、塗装が剥がれて柱や屋根が部分的に崩壊し、売り物件の看板には草木が絡まり文字が隠れている。雑草だらけのその敷地を歩いて玄関の前で立ち止まる。様子を伺うが物音は一切しない。だからこそ不安が襲った。人を殺して隠すならこんな場所はもってこいだろうか、そう思うと最悪の結末を想像してしまう。どこかで希望は持ち続けたかった。待ち続けていないと前に進めなかった。


ドアに手を掛けるが、鍵が掛けられており開かない。割れた窓から中を見る。車のライトで微かに中が見えるが、朽ちた家、という言葉が最適な言葉だと思うほど人が住めるような場所ではなかった。それでも青木の携帯はここにある。青木はきっとここにいる。青木の携帯に電話を掛けた。耳元で鳴り響く機械的なコール音、そして遠くで微かに鳴るあいつの着信音。この家のどこかにあいつはいる。間違いなく、ここだ。


再度、玄関のドアノブに手を掛け、何度も何度も音を立てて開けようとしたが開く気配がなかった。居ても立っても居られなかった。ここにいるのだから、何としてでも入らなければ。脆くなっていたそのドアを何度か足で蹴り、何度か肩で体当たりする。そうしてガシャンと派手な音を鳴らしてそのドアは、砂埃を巻き上げて床に落ちる。


青木の携帯を再度鳴らす。何処から聞こえるだろうか、奥だろうか。床が抜けないかを確認しながら進み、部屋の中心部まで来た時だった。一台の車が敷地内に入って来たのだ。木の葉と木の枝を踏む軽い音、車のライトが逆光となり相手はよく見えなかった。眉根を寄せながら凝視して気付く。これは、罠だ。数人のスーツを着た男達は銃を構えていた。ゆっくりとこちらへ近付き、俺は近くの柱の影へと隠れる。



「おーい、赤澤邦仁さーん、いるんでしょー?」



聞き覚えのない声だが、相手は俺が誰かを知っているらしい。相手はやけに楽しそうに何度も声を掛ける。



「出て来てくれませんかねー」



「ちょっと話、しましょうよー」



ひとりは懐中電灯で辺りを照らしていた。一歩、一歩と近付いてくる。距離が縮まる。相手が誰かは分からないが、マトモに話し合える相手ではなさそうだと判断した。更に一歩、近付く。俺には全く気付いていないらしい。銃を構え、目を凝らし、相手の顔が見える位置まで来て誰なのかと見たところで俺は動揺した。そこにいるひとりに見覚えがあった。数年前、本家の集会で見たことがあった。名前は知らないが、相馬組長の近くをウロついていた古参だ。つまりこいつらは、相馬組。


どうして俺がここにいる事をこいつらが知っているのか。あまりにも早い到着だった。跡をつけられていたのなら気付いたはずだ。何がどうあれ、相手は相馬組。これは下手に発砲できない。できないが、相手は俺を殺す気だ。一歩、後ろに下がった時だった。何かが足に当たる。パキッと何かが折れた音がした。しくじったと顔に出た。男達は一斉に俺の方へ銃を向け、同時に懐中電灯の灯りもこちらに射す。明るすぎる光は俺を捕らえていた。



「久しぶり、邦仁くん」



古参の男は嫌な笑みを浮かべている。さすがにこの人数、どうやっても勝ち目はない、か。俺を嵌めたのは誰だ。松葉か……? いや、でも。その時だった。ガサガサと派手な音を鳴らして、一台の車がまた敷地に入って来た。瞬間、そいつらは入口へと視線を向ける。その隙にドアが壊れていた奥の部屋へと転がり込んだ。俺が逃げた事で誰かが俺の方に銃を撃ち、それを合図に何発も撃ち込まれる。けれどこれだけ暗ければ当たらない。逃げ込んだ部屋は天井がほぼ崩壊しおり、窓ガラスも散らばり、外から風が吹いている。



「赤澤」



その時、窓の外から誰かの声がした。ふっとそちらを見ると、松葉が眉間に皺を寄せて小声で俺に手招きしていた。



「なんで…」



「良いから、こっちに」



壁の影に隠れる俺を見て、部屋の奥を見て、松葉は怪訝な顔をする。相馬組の連中は俺よりも外に停まった車が気になっているようでゆっくりと外へと出て行った。その隙に俺は松葉に駆け寄り、窓枠から体を乗り出し、そのまま外へと逃げ出した。 



「あんた、何しに…」



「後で話します。今はひとまずここを抜けます」



松葉は銃に弾が入っている事を確認すると、「さ、戦争です」と笑っている。こいつはネジが外れているんだったと、その時、改めて思い出していた。松葉は物陰から銃を構えたまま、相手が乗って来た車の影に隠れる。連中からは見えない位置だった。隠れる事ができていたのに松葉はその車のタイヤを一発撃って音を響かせる。その発砲音に連中は形相を変え、何発か撃ち込みながらこちらへと進んできた。



「おい…」



「馬鹿共がこっちに来ます! 逃げましょう!」



松葉は楽しそうに笑いながら自分の車へと走った。本当にこいつは味方なのか、敵なのか。いや、ただ危険を楽しんでいるだけ、か。連中は松葉に向けて発砲し、松葉も引き金に指を掛ける。こちらも撃たないわけにはいかなかった。松葉の後を追いながら俺は発砲する。何発かドンパチ撃ち合い、一発の銃弾が自分に当たったのが分かった。けれど擦り傷程度だろう。身を隠そうと必死になり、痛みは感じなかった。少し離れた場所で車から切田が身を乗り出し、銃を構えて援護射撃のように撃ち込んだ。その銃弾が、見事に連中のひとりの脳天は弾く。そいつが倒れたのと同時に、残りの連中は発砲をやめ、自分達の車の影に隠れた。



「車、乗って下さい」



松葉がそう自分の車を顎で指すが、俺は自分が乗って来た車へと走った。



「いや、二手に別れましょう。応援呼ばれたら厄介です」



「なら、俺の家で落ち合いましょう」



互いに車を急発進させ、その敷地から急いで抜け出した。松葉達の車の後を追うように車を走らせる。かなりのスピードを出していた。森の中をガタガタとしばらく走らせ、田舎の街へと出る。更にしばらく走り、高速道路に出て更にスピードを上げる。応援もなく、追手も来ていない事を確認した時、ふと、左半身に違和感を感じた。なんだかベトベトするような嫌な感覚。濡れていて気持ちが悪い。そっと視線を落として、太腿が濡れている事に気付いた。目で、出処を辿る。あぁ、……ちょっと、やばいかもしれない。気付いた瞬間だった。鋭い痛みに襲われ、吐き気すら感じた。どこかで車を停めなければと、次のパーキングエリアを確認していたその時、電話が鳴る。相手は松葉だった。



「…はい」



「次のパーキングで落ち合いましょう」



「はい」



タイミングを見計らったような松葉の提案に俺は安堵した。若干、視界は霞んでいて、事故ったら洒落にならないなと考えながら近くのパーキングに車を停める。夜も遅く、広い駐車スペースに停車している車は数台だった。車をエリアの端に停車させると、切田がすぐに降りて来てコンコンと窓をノックする。窓を開けると、切田が「追手は誰も来てないみたいです」と言葉を続けた。



「二手に別れた方が良いっすかね。東側から行けば、2時間と少しで都心に出ます。でも、先程西側で交通事故があったらしくて、かなり時間が掛かるかもしれないんスよ。……って、え、」



そこまで言って切田の表情が一変した。



「ちょっ、…なんで言わなかったんすか!」



「騒ぐな、大丈夫。……痛み止め、持ってないよね?」



「痛み止めじゃないでしょう! 処置、処置が必要っスよ! 俺が運転するんで、あの、カシラ呼んで来るんで待ってて下さい!」



切田の悲鳴に近い声を最後にぷつりと意識を手放した。再び目を覚ました時、どこにいるか分からなかった。壁紙も天井もダークブラウンで、部屋に窓はない。天井の電気は消されて間接照明のみだった。どでかい観葉植物が間接照明に照らされている。


霞む視界の中、徐々に何が起こったかを思い出す。そっと上半身を起こそうとするが、左肩のあまりの痛みに起き上がる事を諦め、もう一度横になることを選んだ。痛みはひどいが処置はされていた。半裸の状態で左肩には包帯が巻かれている。刺されて、退院したと思ったら撃たれて。組に知られたらかなり厄介だが、もう後戻りできねぇよな。あの時、一発の銃弾は相馬組の誰かの脳天を弾いたのだから。そして向こうの撃った銃弾は俺の肩に当たり、戦争開始にもってこいの口実を与えたのだ。


俺は溜息を吐き、松葉達はどうしたろうと状況を知りたくて携帯を探した。動かせる右手で枕元を探るが何も何も見つからず、苛立っていると、ガチャッとドアが開いて松葉が顔を出した。 



「あ、起きてましたか」



「……松葉、」



「死にかけては生き返りますね。悪運が強い」



「あなたには返せない恩ばかり作ってしまいました」



松葉はコンビニの袋をぶら下げていた。ベッドの近くにパイプ椅子を寄せるとそこに座りながら、水のペットボトルのキャップを外す。



「急にしおらしくならないで下さい。気味が悪い。……とはいえ、どれも俺の詫びでしょう。青木に脅されていたとは言え君の案件を邪魔して君を追い込んだ事に変わりはない。だから礼には及びませんし、これでチャラにしてもらえると俺としては有り難い限りです」



「…ふふ、そうですね」



松葉は水をゴクゴクと飲むと、そのボトルを脇に置いてあったシェルフに置く。



「これ、君の分です」



そう言って同じ水のボトルと、やたら肉の多い弁当を渡されるが食欲は皆無だった。



「ありがとうございます。でも、水だけ頂きます」



松葉はそうですかと呟きながら、俺の分の水を取りやすいようにベッドの傍に置いた。



「痛みはどうですか」



「起き上がろうとすると、結構痛みます。寝ていればまだ少しはマシですが。…ここ、病院、ではないですよね?」



「えぇ、知り合いの家です。ヤブですが医者です。腕は保証します。あの場所から1時間以上も君を放っておけませんから、彼に処置してもらいました。組に戻るのであればここからは2時間以上かかりますので、少し、休んでいった方が良いですよ」



松葉はそう言いながら椅子から腰を上げてドアを開ける。ドアの向こうにいる誰かに、「ナナさん、鎮痛剤」と声を掛けた。



「あ、もう目覚めたの?」



そうハスキーな声が聞こえた後、しばらくして派手なアロハシャツに麻のハーフパンツを履いた40前半くらいの男がひとり、ぬっと顔を出す。顎髭を生やし、疲れ切った顔をした男だった。



「はい、どーぞ。30分くらいで痛みは引くと思う。弾は貫通してたけけど、出血多かったし、しばらくは安静にしていた方が良いと思うよ。…とは言え、そうも言ってられないんだよね?」



「はい」



俺は頷き、受け取った鎮痛剤を水で流し込み、再び横になった。



「だよね。ホント、ヤクザって大変だよね。けど熱も若干あるから無理しないで。…じゃ、俺は向こうにいるから。何かあったら呼んでね。…あ、松葉君。切田君、かなり疲れてたっぽいけど見張りするって言い張るから、睡眠薬盛って寝かせちゃったけど、良いよね?」



「はい、問題ないです。ここに追手が押し掛けてくるとは考えられませんから。あいつ、変に張り切るから、薬盛って寝かせるのが正解です。ありがとうございます」



「いいえー。ほいじゃ、また」



男はそう言って部屋を出た。出た後、松葉はサンドイッチを頬張りながら、「今のがヤブ医者のナナさん」と遅い紹介を済ませた。 



「後できちんとお礼します」



「アハハ、金は払っておいたから安心して」



「え、あんたが?」



「まぁ、君ンとこで稼がせてもらった金ですから」



「…あー、そう言われると申し訳ない気持ち飛びました」



「だよね」



松葉はふふっと笑った。しばらくしてサンドイッチの袋をゴミ袋に捨て、うんと伸びをして俺を見下ろす。その顔を見ながら俺はふと口に出す。



「最初、あなたに裏切られたのかと思いました。俺の居場所を知るやつは、あなたしかいないんで」



「でしょうね。だから君の後を追ったんですよ」



「来る事を止めたのに、何故、後を追ったんですか」



「実はね、少し前から相馬組に探りを入れてたんです。そうしたら君と別れた後、相馬組の数人が重乃沢に向かったと聞いてまさかと思ったんです。それで後を追いかけたら案の定ややこしい事になってました。あいつら、君を殺すつもりでしたよね」



「相馬組長からしたら、座を奪った親父は到底許せないでしょうし、俺を殺そうとするのは頷けます。こうも早く動いてくるとは思いませんでしたが。戦争にはしたくなかったんですけど、避けられませんね」



「どの道、戦争にはなってました。問題は青木がこれにどう関わっているか、ですね」



「あいつが俺を誘き寄せたと思いますか」



「どうでしょう。君はどう思ってますか」



「青木ではないと否定したい。でも否定するとあいつの死を肯定するような気がして…」



「怖いですか」



「……正直、あいつの死は堪えます」



「青木が君を誘き寄せたのだとしたら、彼は生きている。死を偽り、君を誘き寄せ、始末する計画を立てた。けどもし違うのなら、彼は殺され、君の言う若い男が君を誘き寄せる為に携帯をあそこへ置いた。そう、君は思ってるのですね」



「えぇ」



「……本当に?」



松葉は脚を組むと首を傾け、鋭い目付きで俺を見た。眉間に皺を寄せる俺に、松葉は淡々と話す。



「青木は君を殺せなかった、だから正体を見破られたんですよ。だとするならそんな彼が、君を相馬組に殺させるような事しますか」



「……分かりません」



「青木が君の為に自分を犠牲にした。その事実が君は怖い。認めてしまう事が何よりも怖い、違いますか」



松葉の質問に俺は何も答えられない。核心を突かれ、何と答えて良いものか分からなかった。



「いっそ、青木に殺されてやるのも手だった、…なんて考えてませんよね?」



「……」



「無言は多くを語りますよ。赤澤、青木もね、怖がってました」



「……何、を?」



「君が死ぬ事を。ひどく、怖がっていました。君が青木を庇って刺された事に対して、得体の知れない大きな組織をも敵に回し、潰そうと決意するほど、君が刺された事実に動かされた。それは本当です。ね、赤澤。君が今、怖がっているように彼も怖がった。……青木は、自分を犠牲にしてでも君を助けたかった。やはりどう考えても君の死を望んでいるようには思えない、という事です」



あいつは元々、俺に殺意を向けていたはずなのに。どうしてこんな事になっちまったのかな。



「赤澤は、彼が本当に死んだと思ってますか」



心の内を口に出すのには勇気がいる。深呼吸をして、松葉を見上げた。



「…思いたくない、というのが本音です。あなたが言ってたように、生きていると信じたい。あいつが撃たれたところを見たわけではないので、あいつは生きていると思いたい。でも、あいつは最期を覚悟したように、言葉を残したんです。…生きていようが死んでいようが、あいつにはもう、二度と会えないような気がしています」



唇を噛み締めると松葉は「そうですか」とだけ吐いた。背もたれに寄り掛かかり、そうしてしばらく何も言わなくなった。沈黙が沈黙を生み、数分経ち、松葉は首を少し傾けて俺の左手を見ていた。



「君って、そんなヤクザらしい事をするタイプだったんですね」



「あぁ、これ…ね。そうですね、根っからのヤクザ者には効くでしょう」



「あの野上組長に掛け合ったんですね。斉藤の為に」



「あなたの耳にまで入ってましたか」



「えぇ。……そんな事しちゃうから、斉藤は君に惚れるンでしょうね」



「どうですかね。最近は失望させてばかりですよ。でも、あいつはこの組に必要です。次の若い世代を育てる為にも、あいつを失くす事はできません」



「失望ねぇ。してるのなら君に愛想尽かしてとっくに離れてるでしょう。でも、まだまだ君にゾッコンみたいですよ。君を探して怒り狂ってるみたいです」



松葉はそう言うと俺の携帯をシェルフの引き出しから取り出し、俺に見せた。



「携帯そこにあったんですね。連絡きてましたか」



「着信が20件。ちなみに、こっちの事務所にも斉藤から電話あったみたいで、電話番が知らないと電話切ったようですが、組を巻き込んでゴタゴタにならなければ良いですね」



怒り狂って電話を掛けまくる斉藤を想像して少し笑ってしまう。松葉は呆れたように目を細めていた。



「……すんません。言って聞かせます。今、何時ですか。あいつに電話します」



「2時少し前です」



「あー、もうそんな時間ですか。メールだけ入れておきます」



「打てますか」



「……打ってもらえますか」



「俺が代わりに打ったってバレたら殺されそう」



「秘密にしますよ。ロック解除するんで、画面をこちらに向けて下さい」



携帯の画面を向けられ、右手でそのロックを解除し、いつもやり取りしていたメッセージ画面を開いた。



「心配掛けて悪かった。朝、電話する。とだけ、送って下さい」



「ハートマーク、つけて良いですか」



「ふざけないで下さい。送信は俺が押します」



「ふふ、斉藤は本気にしそうですね。…はい、どーぞ。間違いないでしょう?」



そう言って再度、画面を見せられる。文章を読み、俺は送信ボタンを押した。瞬間、電話が掛かってきて、さすがにギョッとした。松葉と目を合わせ、松葉は堪えきれず笑いだす。



「こわーい。斉藤は少し、君に失望した方が良いかもしれません」



「心配性なんですよ。俺がこんなんなので。…電話貸して下さい」



「はい、どーぞ。俺、外出てます」



「そのまま寝て良いですから。明日の朝、動きましょう」



「分かりました。痛みが酷ければ、呼んで下さい」



「ありがとうございます」



「じゃ、おやすみなさい」



「おやすみなさい」



松葉が部屋を出たのを確認して、通話ボタンを押す。耳元に携帯を寄せ、「起こしたか」と声を掛ける。



「カシラ……、良かった。本当に良かった。急にあんな事するなんて、何を考えてんですか」



「何か副作用とか出てないか」



「少し頭痛がした程度で、ほとんどありませんけど、そういう事じゃありません。今、何処ですか。青木の安否は確認できましたか…」



「あいつの事はまだ分からない。今は知り合いの、そのまた知り合いの家にいる。だから安心してくれ。ひとまず明日帰る」



「知り合いの知り合いって、誰か分かりませんが信用なるんですか」



「あぁ、大丈夫だ」



「松葉さん達も一緒なんですね」



「……あぁ」



「そう、でしたか。あの明日は必ず、組に顔出して下さい」



「あぁ、分かった」



ふふっと、つい笑ってしまった。こうも心配するのはこいつだけだろうなと改めて思うと可笑しくて堪らなかった。



「…あの、カシラ」



「ん?」



「まだ、少し話していても良いですか」



「ん、あぁ…。どうかしたのか」



「いえ、その、青木がもし、もし、生きてたら…」



「あいつは死んだよ。殺された」



「確定ですか…? でも安否はまだって…」



「生きていたとしても、あいつはもう俺の前には現れないだろうよ。だから、あいつに制裁を与える事もできそうにない。お前が一番あいつを恨んでるだろうから、聞きたい事も、言いたい事も、山程あると理解してるよ。お前が俺を一番に動いてくれている事も。だから、」



「正直、青木が死んで、いや、カシラの前にはもう現れないと聞いて、俺は心底安心してます。俺はまた、前のように戻れればそれで良いんですよ。もっと俺を側に置いて下さい。俺には全部をぶち撒けて下さい。俺はカシラの為なら死ぬ事だって怖くありません。俺は、カシラの為に生きてるようなもんなんです。……だから、もう、青木なんか追わないで下さい。俺は、……俺は、あなたに惚れてここにいるんです。だから、……邦仁さん、いなくならないで下さい」



やけに懐かしい呼び方をしてくるなと、俺は電話越しのこいつの感情を読み取って苦しくなる。俺は少し考え、自分を落ち着かせるように深く息を吸い込み、深く吐いた。



「……青木を動かしたのは俺で、全ての責任は俺にある。身勝手なのは分かってる。傲慢で、お前を振り回してる事も。でも昔のアレコレを、今、どうにかしてでも清算しなければならない。組を追い込んだあいつとの関係に、良い加減、片をつける必要がある。だから、これだけはさせてくれなか」



「…す、すんません。カシラにそんな事を言わせるつもり、なかったんですけど。…俺、何言ってんでしょう。酒、飲みすぎたみたいです。…明日、話しましょう。カシラ、ゆっくり休んで下さい」



「あぁ」



「では、失礼します。おやすみなさい」



電話を切って頭を掻く。組として一丸となるべき今を、俺は何してんのかな。斉藤の考えている事だって理解できるのに。でも、あいつを無視する事は出来なかった。青木がいるかもしれない。生きているかもしれない。何としてでも行かなければと思った。


でも、青木がもし生きていたとしたら。あの屋敷にあいつがいて、会えていたとしたら。俺はどうしてたろう。連れ戻して裏切り者だと自ら手を下せるか。いや、できるはずがない。死んだという事にして逃すのが落ちだろう。あいつを自分の手で始末する事は、きっと、何があっても出来ない。ふと思い出す。



『ねぇ、お前さ、本当は、俺の事好きだろ』



カビ臭い湿った臭いが鼻をつく体育館倉庫。あの時あいつは確かにそう言った。俺が何かを答える前にあいつは鼻で笑うと言葉を続けた。



『でも俺はお前の事、嫌いだよ。いつかお前をうんと苦しめて、その息の根を止めてやるから。俺が暴力に頼るとするなら最初で最後、きっと、お前だけだから』



そうだな。過去には戻れない。だからこそ、俺は今、過去を清算しなければならないのだ。

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