12. 虚偽
組織というのは完璧じゃない。人間が完璧じゃないのだから、そんな人間が作り出す組織なんて脆弱だ。だからこそ弱味に付け込み、コントロールする事なんて容易い。何かを守る為に何かを犠牲にする。何かを得る為に何かを犠牲にする。とても人間らしくて俺はこの世界の人間が大好きだ。とても簡単に落ちてくれるから大好きだ。
情報は何よりも強い武器で、その武器はひとつ間違えると全てを破滅させるのに、その情報に簡単に右往左往されるこの世界。誰を信じるべきか、誰を疑うべきか、どの情報を信じるべきか、どの情報を無視するべきか。見抜けないようなら、地獄行き。
赤澤、お前は今、誰を信じて、誰を疑ってる?
『ジジ……ジジー』
電波が悪く、接続不能を知らせる嫌な音。イヤフォンで確認しながら、設置したソファ下の盗聴器の角度を変えた。すぐに音はクリアになり、俺はイヤフォンを外してそれをポケットに突っ込み、何事もなかったかのように携帯を眺めて足を組む。間も無くしてガチャッとドアが開き、「悪いな、呼び出しておいて」と赤澤が気分悪そうに事務所の自室へと戻って来た。
「別に。てかお前、顔色悪すぎない?」
「疲労が抜けねぇやな」
赤澤はそう言うとデスクの上にあった小瓶の栄養ドリンクを飲み干した。どうやらコンビニで買ったらしい。
「うぇー、マズイ」
「昨日、よく眠れてなかったのか?」
「んー? んー。寝たり起きたりかな。それより、あんたを呼び出したのは金の回収の件でさ。新崎に任せてた…」
赤澤は見るからに疲弊していた。けれどそれを無理に隠そうとしているようだった。次から次へとシノギを横取りされ、損失が増え、内部で訳の分からない跡目の噂が上がり、自分の父親が本家若頭候補にその名を連ねているのだから溜まったものではないのだろう。だが、自分が参っている事を組員には勘づかれたくないらしい。だから全てを抱えて顔色を悪くしているのだ。まぁこのゴタゴタの全ては俺が仕組んだ事なんだけど。
このまま何が何だか分からないまま、地獄に落ちるのかな? こいつもとんだ間抜けだよなぁ。そう考えながら赤澤の仕事の依頼を聞き終え、俺は分かったと頷いて赤澤に近寄った。目の前に立ち、赤澤の顔を見下ろす。赤澤は俺を見上げると、怪訝な表情丸出しで、「話は以上だけど、何だよ…」と居心地悪そうに呟いた。
「お前、どう見たって大丈夫じゃなさそうだけど」
「…大丈夫、と言いたいとこだけど、大丈夫じゃぁねぇやな。一日で良いから休ませてほしいよ」
「なーんでそんなにゴタつき出したんだよ。お前、森鳳会に喧嘩売ったんじゃねぇの?」
「いや、そんな事はねぇよ。確かにさ、表立ってうちの稼ぎ、…いや、正確に言うと俺が目をつけた案件、俺の稼ぎを横から掻っ攫って行くのは松葉の仕業。前から何かにつけてぶつかる事は多かったから、最初は、あーまたか、って思う程度だったが、最近は異常だ。小さな案件にまで首を突っ込んでくる。前まではちらほらと良い金になる案件にちょっかいを出してはいたが、狙いが分かっていた。けど、今はもう、何が狙いかまるで分からないから動けない。正直、疲労が溜まる一方。疲れちまったなぁー」
赤澤は大きな溜息をついた。疲れ切った赤澤の本音に俺はほくそ笑んでいた。なぜって、斉藤も含め組の連中にら疲れたとは言わないからだ。それはつまり、俺に対して弱い姿を見せても良いと、完全に心を開いた証拠だった。
「狙い、ね。この組を潰す事が狙いなんじゃないの?」
「最初はそう思ったが、あいつの狙う案件は全て俺が取り仕切ってた案件だ。組にダメージ与えるなら他にもあるだろうが、俺の案件のみを狙ってるとなれば、狙いが分からない」
「…そうなのか。なぁ、俺にはよく分からないけどさ、元は敵だったとしても、今は兄弟分なんだろ? それって抗議できたりしないの?」
「ふふ、抗議ねぇ。こっちが格下ってのが大きいわな。そもそも森鳳会は代紋が違うから、事を構えたくないってのが大前提だ。しかもあいつの言い分はあいつが先に見つけた案件を、俺が横取りしようとしてる、って事よ。そうなりゃ俺の方が悪者。俺に対して、野上組長とか他の組から圧力がかかってもおかしくないってわけよ。ま、だから、親父は俺の肩ではなく森鳳会の肩を持って、穏便に済ませようとしてるって事なんだけど、俺の稼ぎなしにどうすんだか」
「…不利な状況って事か。松葉の若頭と話は?」
「今までなら会って話して解決したろうな。料亭で飯食いながら、その件はこっち、あの件はこっち、ま、言い争いになって殴り合いになんだけど。けど、今は無理だ。あいつと電話で一瞬だけ話したが、埒が開かない」
「そうなのか…」
あからさまに難しい顔をしてみせた。
でも、心の中ではそりゃそうだよなと、鼻で笑ってしまう。だって携帯電話だろ? 赤澤は知らないからなぁ、松葉が今どんな状況にいて、どうしてお前と会えないのか、話せないのか。こいつは松葉が携帯を使えない状態にあるとは微塵も考えていないのだろう。
松葉の携帯電話は傍受されていた。だからもちろん、あの時、松葉は赤澤と会話をしたがらず、すぐに切ろうとしていたのだ。松葉には少しだけ、“ほんの少しだけ”、圧を掛けていたから。赤澤に近付くな、と。松葉は今すぐにでも赤澤に俺の事をぶち撒けたいのだろうが、もちろん出来っこない。そんな事をしてしまったら、大切な人がある日突然…、なーんて事になってしまうのだから。情報は脅迫の道具。松葉の悔しそうな顔、そして怖がる表情。こうしてずっと大人しくしてくれりゃぁこっちとしても動き易い。
「あんま抱え込むなよ。俺にはきっと、言えない事も山程あるだろうけど、…でも、抱え込みすぎて窒息したら意味ねぇよ」
「……今のあんたに俺は相当弱って見えてんのか」
「うん、そうね」
そっと赤澤に手を伸ばし、その頬に手を寄せた。
「俺、なーんにもできないのかな」
そうわざとらしく呟いた。赤澤にはこの言葉が効いたらしかった。赤澤は頬に寄せていた俺の手を取ると、「あんたは何もしなくていい」と呟くように吐いた。赤澤の指には俺が渡した指輪が光る。俺はそれに敢えて触れた。ゴツくて控えめな色のシルバーリング。この男はこれが何かも知らず、肌身離さず身につけていた。俺は赤澤の長い指と指の間に指をするりと入れて、その手を軽く握って赤澤の表情を見下ろした。赤澤の頬は少し赤くなっている。
「頼むから無理だけはすんなよ」
そう心配してやると、赤澤は俺から視線を外し、「少しくらい無理したって死なねぇよ」と吐き捨てる。お前の息の根を止めるのは、俺だけ。お前を苦しめて良いのも、俺だけ。
そうだよな、赤澤?
「なぁ、青木…」
「ん?」
「ちょっとやそっとじゃ俺は死なないし、潰れない。だから、…そんな顔、しないでくれ」
そんな顔…って。俺は今、どんな顔してこいつを見てんだ。ようやくここまで追い詰める事が出来て、喜びがつい溢れてる? 笑ってしまってる?
「青木、聞いてんのか…」
なんて嬉しさのあまり笑っているのなら、赤澤が苦しそうに「そんな顔しないでくれ」と俺には言わない。じゃぁどんな顔だって言うんだよ。やめてくれ。何の為に俺は今まで生きてきた? 何の為にここまで辛い思いをしてきたんだ。いつか必ず戻ってやる。這い上がってやる。険しくて、苦しくて、何が正義か何が悪か分からない道のりをただひたすらに歩いてきたのは、こいつを落とすとこまで落として、苦しませてから息の根を止める為、そうだろ。その為に、俺はここにいる。
「…赤澤。俺、本気だから。斉藤さんじゃなくて、俺を側に置けって、その言葉は本気だから」
赤澤は少し驚いたように片眉を上げた後で、困ったように眉を顰める。それは一瞬だった。すぐにいつものように怖い顔に戻るが、俺はその一瞬を確かに見た。赤澤はグラグラと揺らいでる。赤澤からあの斉藤という厄介な男を離す事ができればかなり楽に事は進むだろう。だから、早くこっちへ傾いてくれないかな。俺は何の躊躇いもなく赤澤を潰してやりたい。それだけ。
「酔ってんのか、あんた」
握っていた手が俺の手のひらからするりと離れ、赤澤は困ったように椅子から立つと俺と距離を取るように離れた。
「酔ってない。あん時だって、本気だった」
「……」
赤澤の迷いのある瞳を見ながら、言葉を続ける。
「だから、側に置けよ」
そうすりゃぁ、お前をコントロールしやすいのに。どんな情報も簡単に手に入るのに。
「あんたの言葉は嬉しいが、あんたを若頭補佐には出来ない。斉藤は俺の右腕だ。ここの歴も長いし、危険を理解してる。でも、あんたがその位置につくって事は…」
でも赤澤は心底あの男を信頼している。それが自分でも笑えてくるほど腹が立つのだ。何故、そこまで腹が立つのかな。苛立ちが抑えきれなくなりそうでゾッとする。
落ち着かなければ…。危険な橋を渡っているのは俺ひとり。ボロを出してはいけない。感情を殺さなければ進めない。
「分かってるよ。俺はここの新参者だし、お前の知ってる俺はヤクザには到底なりそうもない男だったろうし、信頼を百得られてるとは思ってない」
俺は苛立ちを押し殺し、にっこりと優しく微笑んだ。赤澤は「違う、そうじゃない…」と否定するが、分かり切った事だった。斉藤と俺の信頼度なんて所詮そんなもの。
でもさぁ、赤澤。その斉藤が裏切り者かもしれないという疑念が少しずつ思考を支配してんだろ。違うと否定しても、しきれないほど斉藤が怪しい存在になっている。いずれ斉藤が裏切り者だという確たる証拠が出て来たら、お前、受け入れられるのかな。
ふふ。その時、側にいるのは俺だけなんだろうな。
そうなりゃ俺が側近だよな? そうなったら、そこからどうやってお前を地獄に落としてやろうか。
「青木…」
「いいよ、そんな否定する事じゃねぇだろ。じゃ、俺はやる事あるし、また後でな」
俺はそう言って赤澤に背中を向けて部屋を出た。出てすぐ、舌打ちをしそうになったのを堪える。事務所の部屋の端、赤澤の部屋に最も近い場所に位置するデスクにいた斉藤と目が合い、すぐに視線を逸らして事務所を出た。イヤフォンをして、頭を掻きながら近くのコンビニへ入る。入口近くに並べられている雑誌を適当に手に取り、立ち読みするふりをする。
『シジ……ジジ…はぁー』
大きな赤澤の溜息が聞こえた。その後すぐ、斉藤を呼び付け、斉藤は部屋に入るなり、低い声で赤澤に訴える。
『……金谷が、嵌められた可能性があります』
俺はその斉藤の報告が意外だった。ちゃんと報告しちゃうんだなぁ、と。そう言ったら自分が余計疑われるって分かってるだろうに、言ってしまうのかと。
しかしそう思ったが、違う。斉藤は正直に報告をしても、赤澤は自分を信じてくれると確信しているから報告したんだ。
『説明しろ』
『はい。金谷は実弾を入れてないようなんです。つまり、誰かが金谷に撃たせるために仕込んだとしか思えません』
『向こうと揉め事を起こす為に、か?』
『はい』
どう計算したって、この状況下で一番怪しいのはこの斉藤。赤澤はこの男を疑っているはずだが、赤澤は何をどうしたって斉藤を信じたいと思っている事も事実だった。
そしてそれが何よりも癪だった。赤澤はまた大きな溜息を吐くと、『銃はどこに保管してあった?』と斉藤を問い詰める。
『銃は全て、いつものところに厳重に保管しています。実弾もいつも通り金庫の中に入ってます』
『そうだよな。偽のチャカがほとんど。ホンモノは数人しか保管場所は知らない、だろ? となると、その場所を知っていて、尚且つ金庫を開けられる奴が必然的に怪しくなるよな?』
『はい。分かってます。でも俺ではありません。信じて下さい。…俺では、絶対に』
そうは言っても、一番真っ黒なのは斉藤、あんただ。少しの沈黙が生まれ、しんと静かになった。しばらくして赤澤が『斉藤』と低い声で名前を呼ぶ。
『お前が裏切り者だったら、この組も俺も終いだ。だからそん時はお前諸共、この組ごと死んでやる覚悟だ。…だから俺には本当の事、言ってくれねぇか』
斉藤が黒だったら、組丸ごと抱えて心中する気なのか、こいつ。なんなんだよ、お前。斉藤が裏切り者だったらそんな形で決着をつけるつもりだったのか。お前にとって斉藤ってそれほど大きな存在なのか。
斉藤は数秒、何も答えなかった。物音ひとつしない。少しの沈黙の後、斉藤は口を開いた。
『カシラを裏切るくらいなら死んだ方がマシです。俺は死ぬまでカシラに尽くすと決めたんです』
斉藤の震える声が聞こえた。俺はつい舌打ちをしていた。こんなドラマを聞きたいがために盗聴してるわけじゃねぇよ。俺の計画にこの男は邪魔だ。本当に反吐が出るほど、邪魔だ。
『……』
赤澤は無言だった。
『俺が怪しいのは理解してます。森鳳会の案件、全部俺が関わっていますし、金谷の銃に仕掛けられるのも、俺が一番怪しいだろうと理解してます。でも俺ではありません。……しかし、それでも俺の事を信じられないと思った時は、カシラの手で始末をつけて下さい。カシラに殺されるなら本望です』
言い切りやがった。殺されても良いとまで。
『お前を殺せるわけねぇだろ』
赤澤はくぐもった声を出す。なぁ、赤澤。仲良しこよしなんて、さっさとやめちまえよ。
『……あの、カシラ…』
『ん?』
『実は今日、話したかったのは金谷の銃の件だけじゃないんです。俺、ずっと考えてたんです』
『何をだ』
『俺は青木を信じられません』
ほーう。なるほど。疑いの目を俺に、か。俺を疑うには根拠があってのこと、だよな? だとしたら何を掴んだ? 何を言って赤澤に取り入るつもりだよ。
『青木が来てから少しずつ、何かがおかしくなっているような気がするんです。確かに青木は金を稼ぎます。みかじめ料を寄越さない店からの徴収も、借金の取り立ても、新しい仕事も持ってきて、この組に貢献してくれています。でもやはり、青木が来てからおかしくなった事は否めません。森鳳会が、ここまで頻繁に邪魔をするのも青木が来てからです。カシラ、……青木の事はもう一度、洗い直した方が良いかと』
なーんだ。何の証拠も掴んでなさそうだな。そりゃそうか。俺が松葉を脅してるなんて、松葉自身が漏らすはずがない。斉藤なんかに、俺の正体を掴めるはずがない。赤澤は斉藤の提案にまた数秒の沈黙を作ると、静かに尋ねた。
『もしあいつが黒だとしてお前はあいつを、何だと思う』
何、ね。
『……それは、まだ…』
『お前の率直な意見を聞きたいだけだ。どう思ってる』
『……ひとつ言えるのは、やはりあいつは極道らしくない、という事です。あれは警察側の人間だと見た方がしっくり来ます。この世界に入るキッカケになった菅野はマトリと噂され、真相は最後まで分からなかったのでしょうが、結果的には殺されています』
『だが、青木を調べた時、刑事に探りは入れたんだよな?』
『…はい。何も、出てきませんでした』
悔しそうな斉藤の声に、俺はつい笑い出しそうになった。馬鹿だなぁ。お前なんかに俺の尻尾は掴めない。
『その菅野って男の出生に関してだが、あれ、本当にマトリになれたのだろうか…。ちょっと思うところがあるんだが』
そうか、俺が言った事をちゃーんと覚えてたか。あの人の父親はヤクザだったから、マトリになんてなれないって話。こいつらにその真偽を掴むことはどうせ出来ない。だってあの人は本当にマトリで、その事実は既に葬り去られてるのだから。
だから菅野さんは、マトリと疑われたヤクザとして死んだ。どんなに掘っても、その結果しか出てこない。
『思うところ、ですか。再度、出生に関しても調べてみましょうか』
『あぁ、頼む。青木が菅野はマトリじゃないって断言してたんだ。あれの実父は極道で、マトリなんて国の仕事につけないと。だが青木の言う事が嘘だとしたら、色々と見え方が変わるだろ』
『分かりました』
『けど、ひとつ引っ掛かるんだ』
『はい…』
『もし青木が警察側の人間だとしたら、腑に落ちない点が多すぎないか? あいつ、イノグチを何の躊躇いもなく撃ったろ? 空砲だって事、あいつは知らなかったのに引き金を簡単に引いた。それが俺には分からない…』
『……そう、ですね。覚悟の上、だったのでしょうか。警察だとバレるくらいなら、人を殺すのも厭わない。瀬戸組にいた時も、そうやって疑いの目を逸らしたんじゃないでしょうか』
『だとするなら、この組に潜り込み、殺人まで犯す目的は何だ? あいつがもし警察組織の人間なら、何か理由をつけてでも、引き金は引かねぇだろ』
『…どうでしょう。分かりません』
赤澤は俺に人を殺させない。俺はイノグチを始末してほしいと言われた時、どこかでそう踏んでいて、試されているのだろうと感じていた。そして銃を握った時、それは確信に変わった。
『それに警察側だとしたら、今起きてる森鳳会の邪魔はあいつじゃないって事にならないか? 警察の人間で、ただ情報を得たいだけならそんな事をする必要がねぇだろ。なるべく目立たないよう、ただ潜入して情報を得れば良いだけだ。何のために森鳳会を、いや、松葉を焚き付けて俺達を追い込む必要がある?』
『……』
『だとしたらあいつは警察ではなく森鳳会の人間、って考える事もできんじゃねぇのか』
『俺もそれは考えたのですが、青木という男を見ていると極道らしくない気がして、極道ではないとなるとやはり警察側の人間なんじゃないかと…』
『お前の言いたい事は分かる。あれは極道らしくない。ヤクザの敵、って言った方が納得するよな。でもよ、やっぱり警察だと仮定すると腑に落ちない点が多すぎる。だとしたら、極道は極道だが、敵は敵だと考えた方がしっくりくる。うちを落とすため、情報をリークするためにここにいる。それなら今起きてる出来事にも頷ける』
『まぁ、そう、ですが…』
『もしお前が青木を警察側の人間と見ているのなら、裏切り者はもう一人いるんじゃないのかと俺は思っちまうがな。つまり、この組織にはふたりの裏切り者がいる、そう考えると頷けないか?』
『どうでしょう…。ふたりもいるようには思えない、というのが正直なところです。カシラが言う事は分かります。青木ひとりが裏切り者だとすると色々な矛盾が生まれてしまいますが、ふたりと考えるのなら辻褄が合いますから。でも、どうなのでしょう…』
『俺だって分からねぇのよ。ただ、青木ひとりを裏切り者とするのなら、目的が読めないなと思ってな』
『森鳳会の刺客とするなら、青木の知らない情報も外へ漏れていますし、警察だとするなら人まで殺してる…。あいつは一体…』
ギィと椅子が軋む音が聞こえた。赤澤は溜息を吐きながら、椅子に深く寄りかかったようだった。
『それともただのチンピラヤクザか。あいつは学歴や経歴で疑われるが、落ちるところまで落ちて来ただけ、案外そうかもしれねぇよ?』
そうだよなぁ。俺を疑う事はもう難しいよな?
『カシラ……』
『高校ン時のあいつはさ、刑事になりたがっててよ。勉強も出来て、金もあって、家柄もすげぇ良くて。どう考えたって、あいつとこの世界は繋がらねぇ。刑事でした、マトリでした、って言われた方がよっぽどしっくりくる。……でもあいつはそうやって瀬戸組でも疑いをかけられたんだろ。それを晴らしたんだ、あいつは真っ白なのかもしれない、…なんて思ってしまうんだがな』
斉藤は赤澤の言葉を聞いて、どう思ったろう。
きっと苦虫を噛み潰したような顔をしてんじゃないのかなぁと、俺の口角は素直に上がっていた。
『………青木の経歴を見た時、違和感を覚えました。警察側ならキャリアの道を選んでいてもおかしくはないはずです。やはり彼には何か違和感を感じます』
『けど実際は小さな食品会社で働いて、裏も取れてンだろ?』
『えぇ、……そうみたいです。その後のカナミヤファイナンスも実際に働いていたと裏が取れています』
『お前はそれでもあいつを怪しいと踏んでるんだな?』
『はい。やはり青木が警察である事を完全には否定できません。カナミヤも瀬戸組も、青木が入ってから摘発されています。偶然だとは思えません』
なるほど、そうだよなぁ。俺は片眉を上げ、顎を撫でた。
『カシラ、青木が仮に警察だとしたら、潜入捜査する為に内部に潜り込み、最後には摘発、そして知らん顔で次の標的を始末する、という事ではないでしょうか。今、狙われているのはこの組なのかもしれません』
斉藤の説得はどこまで効果があるのか、赤澤がどれほど俺に疑いの目を向けるのか、俺には分からない。赤澤は何かを考えているように沈黙を生んだ。
『…分かった。お前がそこまで言うのなら、青木に関してはもう一度洗おう。お前も刑事の友人に再度探りを入れてくれ』
赤澤の返答に俺は落胆した。そうか。まだまだ斉藤の信頼は厚い。さっさとその信頼関係を崩してやりたいけど簡単じゃなさそうだな。苛立ちに、俺はぐっと爪を立てて拳を握った。
『分かりました。…ただそいつ、警察関係者のファイルに名前はないって前に断言してたんで、何度確認してもそいつは否定するかと』
『お前の友人、組対だったよな?』
へぇ。斉藤の友人は組対、か。
『はい』
『…マトリにコネがねぇか聞いてくれないか』
『マトリ……。で、でもうちは麻薬なんて扱ってませんよ』
『けど警察にないのなら、マトリも当たるべきだろ。その菅野って男がもしマトリなら後任として、あいつを引き入れた可能性は大いにある』
マトリ、ね。俺はコンビニ内を少し歩く。
『分かりました。聞いてみます。もし、青木が黒だったら、カシラは……いえ、すんません』
斉藤は言いかけて言葉を飲み込んだ。俺はその言葉に足を止める。心臓がドクドクと脈を速め、緊張している事に嫌でも気付かされる。赤澤はふっと笑った。
『俺がどうするか、って聞きたいンだろ。どうするも、こうするも、"全て"が嘘だったと、やっぱりなぁと納得して、俺が落とし前をつけて幕を引く。それくらいの事はしなきゃならねぇだろうな』
そうか。そうなんだ。斉藤が黒なら心中。でも俺が黒なら、俺を殺して終いか。
『落とし前って…、なんで……』
『ま、まだあいつが裏切り者だとは決まってない。身内はみんな白だと信じたいからな。だからこそ、頼んだぞ、斉藤』
『は、はい』
ふーん。そっか。赤澤は馬鹿だよなぁ。黒だって疑うべき斉藤に俺の事を探らせて、斉藤が手に入れた情報を信じるのだろう。斉藤が黒だと言うのなら黒。白だと言うのなら白。そういう事だろ? どう見たって状況は、斉藤が裏切り者だって指してるようなもんなのに。なんでだよ。馬鹿じゃねぇの。妙な感情に胸がざわついた。気持ちの悪い感覚だった。得体の知れない何かを失くしたような気分だった。得体も知れないのに、失くしたという喪失感だけが体を支配する。
しばらく赤澤と斉藤は話し込み、斉藤は部屋を出て行った。赤澤の部屋からは話し声が聞こえなくなり、俺はイヤフォンを耳から外した。
さて、俺は自分の仕事をしなければならない。
荒木に渡す用にと鞄に機材を仕舞い、適当にコーヒーとパンを買って店を出る。自宅に戻り、それら機材を部屋に置いてから、金の回収へ向かった。金の回収を終えた後、俺はある所へ報告する為に向かう。
公園近くの公衆電話、頭の中に入ってるその人の携帯電話の番号を押し、相手が出るのを待つ。最後にこの人と話したのは、俺がまだ瀬戸組に潜入していた時だった。そこが無事に潰れ、その報告を最後に今に至る。相手はスリーコールで出た。
「はい」
男の低い声はいつ聞いても緊張してしまう。
「青木です。報告があります」
「どうぞ」
「組内で動きがあります。赤澤蓮太郎と野上誠一が次期本家若頭になるという噂、だいぶ信憑性が高く、それに伴い資金集めが激化しています。野上が集めた金の一部は常に森鳳会へ流れ、そしてやはり八坂議員へも流れています。しかし現段階、八坂の金は何処へ流れているのかは定かではなく、あの宇宙の平和と幸せの会に流れているか現時点では分かっていません。ただ、八坂がそこの会員である事は、関東緑翔組森鳳会若頭、松葉篤郎から証言を得ています。しかし金が流れているかどうかまではまだ掴めていません」
「ご苦労。そうか、やはり八坂と会は繋がっていたか。ならボロを出すのも時間の問題だろう。…それにしても、しばらく君からの報告はなかったが変わりはないかね」
男の声は優しく聞こえたが、この男は優しさなんてものは持っていない。
「はい、ありません」
俺はただ淡々と受け答えをする。
「葉山組はどうだ?」
「思った以上に金が集まるところかと。金の動きを探り、森鳳会を探るには良い隠れ蓑かと思います」
「君の情報源は相変わらずあのXかね」
「はい。信憑性の高い情報屋集団ですから。そちらも概ね、中身は把握できました。色んな経歴を持つ者の集まりで、暗殺も請け負っているというのは本当のようです。その組織の中のひとり、面白い人物と接触したので、そちらも報告します」
「どうぞ」
「荒木と呼ばれる組織の古株で、本名は不明、性別は男、年齢は二十代前半くらいの若い男ですが、ここの歴はかなり長いそうです。つまり未成年の時から関わっているかと。それ以外の素性は分かりませんが、組織の上層部とも強い繋がりがあり、上層部の名前や顔も知っているかと思われます。毎回、警察の手を逃れる謎の闇組織、そう言われてますが、逃れる事ができるのはその上層部と警察上層部が繋がっているから、という古賀さんの読みは当たっているかと思います。荒木について探ればこの組織の尻尾も掴めるかもしれません」
「荒木、か。その男について探る必要があるが、他に繋がりそうな情報はないかね」
「荒木に繋がる人物の特定は出来るかと思います。その人物は柳田組幹部で現在は服役中だそうです。荒木はこの男のために、力を貸して欲しいと俺の前に姿を現したくらいですから、その男の事を探れば、何か掴めるのではないでしょうか」
「分かった。…しかし、その荒木という男、Xの一員で歴が長く内部に詳しい存在だと言うのに、よく君の前に姿を見せたな?」
「荒木の監視対象は松葉です。そして俺も松葉には近付く必要があり、荒木は俺を通して松葉をコントロールできると考えたから俺に姿を見せたのかもしれません。それに、Xが警察上層部と繋がっている以上、俺は彼にとってある程度信用のある人間です。経歴も全て把握され、裏取りも完璧です。つまり俺が刑事だった事も知っていて、ついでに、どうして俺が警察をクビになったのか、という事も知っているのですから」
「クビではないだろ? 依願退職だろ」
古賀さんはそう揶揄うように笑った。
「…意地の悪い事を言わないで下さい。あれはクビ、ですよ」
「濡れ衣を着せられ、辞めざるを得なくなった。だがそのお陰でうちに来たんだ。悪い話しではなかったろ? 逆にその理由を上手く利用したからこそ、Xにも潜り込む事に成功した。感謝しないとな」
感謝? 違う。この人は俺のその理由を知った上で、良い人材だと、Xの餌だと、俺を引き抜いたにすぎない。知った上で、だ。偶然かのように言ってるがそんなわけがない。
「はい。今では感謝しています」
口ではそう言ったが、感謝だなんて鼻で笑ってしまう。
「あ、そうだ、古賀さん。森鳳会や八坂の情報源は先程伝えた松葉という若頭です。そいつから情報を得るのに、少し手荒な真似をしてしまいまして…」
「ヤクザらしく暴力でも振るったかね」
「ハハ、いえ。あいつら、暴力には滅法強いでしょう。暴力だけじゃ吐きません。少し、脅したんです。稗田というヤク中の若い男が弱味のようだったので、そこをつついたんです。なので、脅して得たネタです。裏取りはしておくべきかと」
「若い男を人質にヤクザの若頭を脅してネタを吐かせるなんて、君の言う通り本当に手荒いな。裏取りはこっちで進める。君は森鳳会から八坂へ、そして八坂からあの宗教団体への金の流れを引き続き頼んだよ」
「分かりました。それと、あの……」
「何かね」
「この件が片付いたら、本当に俺を…」
「飼い主を疑うのかね」
「い、いえ…そういうわけでは…」
「引き続き頼むよ。それじゃ」
「……はい」
プープーと無機質な機械音をしばらく聞いていた。俺は受話器を戻して公衆電話から一歩外へ出る。俺の手は緊張に少し汗をかいていた。新鮮な空気を目一杯吸い、落ち着けと自分に言い聞かせながら少し歩いて気を落ち着かせる。ひたと考えていた。
あの人、本当は俺を戻すつもりなんてないのだろうか。こんな危険な事を黙認しているのは、何が裏があるからか。どうだろう。よく考えろ。俺は今も、拾われた時も、変わらずあの人に飼い殺されているだけかもしれない。
もしそうなら……。そう考えて苛立ち、ひくりと目の下が痙攣した。いっそ、本当に裏切ってやろうか。なんて出来もしない事を考えては、奥歯を噛み締める。無駄な事は考えてないで、仕事に戻ろうと一度深呼吸をしてから街に戻った。事務所に戻り、金庫番の斉藤に回収した金を預けたのは夕方頃だった。
「ご苦労様です」
「はい」
みかじめの回収と、一件の借金回収。小さな仕事だった。大金が絡む大きな仕事は“邪魔”が入るから小さな仕事ばかりが転がっている。斉藤は金を数え、金庫にそれを入れると、「あの、」と俺の足を止めた。
「はい」
「少し、良いですか」
「はい」
はてさて赤澤と話した後、俺の事を探ったのは確かだろう。どうせ何も情報は出ていないのだろうけど、何か新しく証拠でも掴んでたりするかな?
「付いてきて下さい」
斉藤はそう言うと事務所を出た。そのまま俺を車へ乗せ、どこかへと走り出す。
「事務所内では聞きにくい事でしたので。…しばらくドライブに付き合って下さい」
「はい」
「単刀直入に聞きますけど」
「どうぞ」
「森鳳会へ情報を流していませんか」
これは直球できたなと、俺はつい笑いそうになったのを堪えた。
「いいえ。なぜです?」
「俺から見れば、あなたは最も疑わしい人物になりますので」
「…そうですか。赤澤が抱えている案件に邪魔が入ってる、ってのは聞いてました。でも詳細は知りません。あいつは仕事の話、したがりませんので。けど、こうしてカシラ補佐が直接俺に聞いてくる、という事は、相当俺を疑っていて、その邪魔を今すぐに辞めさせないと赤澤が危険な立場に置かれる、…そういう事ですよね? でも、俺は裏切り者ではありません。どう証明すれば良いか、分かりませんけど」
「裏切り者が自ら裏切り者ですと言うはずありませんね」
斉藤は少しの沈黙を作った。斉藤は俺を疑えと赤澤に言うほど、俺を疑い、信用していない。斉藤の信用を得ようとは思っていないが、これ以上、赤澤の信用を失いたくはない。こいつが何か言う度に、赤澤は俺への疑いを強めるのだろうから、手を打つなら早い方が良い。疑いの矛先は、こいつにだけに向いていれば良い。
「けど正直なところ、俺はあなたを疑いたくはないんです」
斉藤は沈黙の後、そう切り出した。
「前に言ってましたよね? 消えた同級生を理解したい、と。あなたはカシラと学生時代を過ごし、理解したかった、そうなんですよね? だとしたら、あなたがカシラを苦しめるような事、しないと信じたい」
あぁ、そんな事を言ったね。もちろん、この男を騙すため。そして赤澤を騙すため。こいつは俺の読み通り、俺の言葉を赤澤に伝えたろう。だからこそ赤澤は簡単に俺を受け入れ、心を開いた。滑稽で、最高だった。
でもこの斉藤って人も、相当青臭いのな。信じたい、なんてさ。反吐が出る。
「これでも赤澤のために必死に金を稼いで、あいつの味方だと証明してきたつもりですが」
斉藤は何かを考えているようだった。車は街を外れ、人気のない通りへと出る。少しの違和感を覚える。斉藤は何かを掴んだろうかと、俺はベルトに挟んであるナイフの位置を指先で確認した。目線は真っ直ぐ前を見つめたまま、斉藤が俺を殺そうと仕掛けてきた時のために、片手は軽くナイフに掛けられる。車はそのまま人気のない道の傍に停車され、ハザードが点灯する。
「菅野さんの事はもちろん覚えてますね?」
「はい」
斉藤は俺を見ずに口だけを開く。
「あの男はマトリだった、そうですね?」
斉藤の落ち着いた声に、俺はどこまで知られたのだろうかと考えを巡らせる。確証を掴む何かを得たのか、否か。
「いえ、そんなはずはありません。…菅野さんから俺は直接聞いてます。あの人の実父はヤクザだった。だからあの人はマトリなわけがないんです。あの人は誰かに嵌められて殺されたんです。あの時、菅野さんは安藤のカシラと揉めていて、俺は、安藤のカシラが菅野さんをよく思っていない事も知ってました。だから、菅野さんは安藤のカシラに嵌められたんだと今でも思ってます」
菅野と安藤が対立していたのは本当だった。かなり険悪な雰囲気で、菅野にミスをさせ、ケジメを取らせようと色々と仕掛けていた事は他の組員も気付いていた。しかし、安藤が菅野をマトリだなんて噂を流して消そうとするかは微妙なところ。
だが万が一、斉藤が元瀬戸組に聞き込んだとしても、菅野と安藤の仲は最悪だったという回答を得るだけで、俺を裏切り者にする確証は得られない。
「安藤のカシラと菅野さんの関係は正直、知りませんでした。…しかしだとするなら、菅野さんがマトリだなんて嘘はどこから湧いて出てきたのでしょう。火のない所に煙は立ちません」
「俺は何を言われてもあの人はマトリじゃない、と否定する事しかできませんよ」
強気に出るこいつの顔は、ハッタリをかましているようには見えなかった。何か確証を得たから俺を詰めている。
でも、だとするとこいつの情報源は何処だ。たかが組対の刑事が掴める情報じゃないだろうが。いや、確証がなくても、こいつにとっては俺しか裏切り者になりえないから、か。だとしたら証拠なんて、何もないのか。
「俺もあなたもヤクザです。状況証拠だけで殺される事もある、それは分かってますね?」
どんなに脅そうが俺はヘマしねぇよ。
「仮に菅野さんがマトリだとしても俺が黒だとは限らない。俺を引き入れた菅野さんがマトリだった、それだけじゃないですか。俺に脅しをかけてるつもりかもしれませんが、効果ありませんよ」
斉藤の眉がひくっと動く。少し苛立っているように見えた。
「物的証拠がなくても怪しいと疑われてしまえば最後、あなたが飛び込んできた世界はそういう世界だと言ってるんです」
「だったら何です、今ここで、俺を殺しますか?」
斉藤はまた黙った。何かを考えている。何か情報を俺にぶつけるつもりか、いや、もしかして、俺に吐かせたいのか。自白が目的ならきっとこの車内、録音レコーダーなんてものがあるだろうな。それがどこにあるかは分からない。ダッシュボードの中か、運転席の傍か、それともこいつの鞄の中か。俺は視線だけを動かし、怪しい所はないかと探してみる、が、見えるところには何もなかった。
「あなたの事を調べました」
斉藤は静かに口を開き、俺をじっと見た。
「それで、何か出ましたか?」
「いいえ」
だろうな。
「ただ、」
その言葉に俺は気付かれないようにナイフを握る。
「俺のツテでは警察の深い所まで探ることはできない、という事が分かりました。つまり、あなたは警察関係者ではない、とは言えないという事です」
「俺の名前で警察内部を探っても何も出てきませんよ。だって俺は警察じゃありませんから」
「そうでしょうか」
こいつ、何に気付いた…?
「その刑事は2年前から東京にいます。その前まではずっと北海道にいました。道警の組対です」
組対の刑事のお友達は2年前から警視庁勤務、そうなると俺の事を知る術はない。
「そうですか」
「ただそいつは警察内部のファイルに名前がないからと言っても、存在していないとは言い切れないかもしれないと言っていました。つまり、潜伏しているのなら、自分には分からないと」
「深読みしすぎでは? 俺はそもそも警察じゃありません。昔は刑事になるのが夢でしたけど、それは子供の夢にすぎません。俺の経歴に振り回されすぎではありませんか」
「怪しいものはクリアにしたい。それはあなたのためにもなるでしょう? だから、今、金を積んで探らせてます。直に、あなたが白か黒か、はっきりします」
金を積んで探らせる…? 積んだとして、どこまで探れる? こいつの情報源、どこのどいつだ。いや、それより、考えなくてはならないのは赤澤だ。赤澤の信用さえ得てしまえばこちらの勝ち。あいつはある程度俺の嘘が分かったところで、すでに引き返せないだろうから、赤澤さえ、どうにか引き込めれば。
いや、それが一番問題なんだろ。あいつは何よりも斉藤を信じたいのだから。
「どんなに金を積んだって、俺の名前は出てきませんよ。金と時間の無駄です。あなたはもっと、賢いのかと思ってました」
「カシラの敵になるような人間は排除しておくべきでしょう? 例えそれがカシラにとって大切な人でも。その為に使う金と時間なら惜しみません。あなたが白だったら、その時はきっちりそれ相応の事、返しますよ」
くそが。そう口をついて言いそうになった。俺は一旦落ち着こうと深呼吸をした。ひとまず、今はまだ何も掴んじゃいない。それに警察だったことは、古賀さんが全て揉み消してる。俺の事は、たかが一般の刑事が探れる情報じゃない。
けど、こいつのツテとやらが、もし、昔の組対の人間に話を詰めたら?
いや、そんな事にはならない。誰もが皆、あれは見て見ぬフリをしたいのだから。あんな事、起きてなどなかったと否定したいのだから。消し去られた過去を、今更蒸し返すわけがない。
「だんまりですか?」
「…いえ、俺はそこまで怪しまれているのだなと。自分自身にガッカリしてるだけです。けど、俺が白なら、あなたはそれ相応のケジメを取ってくれるようなので安心しました」
そう喧嘩を売るように笑ってみせる。斉藤は少し嫌悪した表情を見せたが、すぐにそれは隠され、「えぇ、その時はそれ相応に」と落ち着いた声で答えた。
それからしばらく互いに口を開かなかった。しんと静まり返った車内で、ようやく斉藤が口を開いたのは数十秒後だろうが、体感はもっと長く感じた。
「話を少し戻します。なぜ、菅野さんがマトリと疑われたか、あなたは知ってますよね?」
斉藤はそう言って俺を見た。
「幹部の一部しか知らないヤクの出所を、菅野さんが知っていた。そう、安藤のカシラは言ってました。でも、理由はなんだってでっち上げられた、そう思います」
「つまり、安藤のカシラが嘘をついていると?」
「そうとしか考えられません。俺は菅野さんの言葉を信じます。あの人はマトリじゃない」
「どうしてそう言い切れるのですか。マトリではないという証拠だってないでしょう」
「物的なものはありません。だからこそ俺は言い張るしかない。あの人がマトリだったら、俺は更に疑われますから。疑われたくない人からもね」
斉藤はまた一瞬嫌な顔を見せ、そして直ぐに表情を戻す。
「……菅野さんもどうして、あなたにだけ話したんでしょう。自分の命が危ない状況で、何故、それを他に言わなかったのでしょう」
「言っていれば何か変わったと思いますか? 最後まで隠した方が賢明だと思った、そう考えたんじゃないですか」
「言わなかった方が賢明だと、青木さん、あなたもそう思いますか」
疑いの眼差しにうんざりする。
「俺は言っててほしかったですよ。言っていれば、俺はここまで疑われず済んだかもしれませんから」
「全てはたらればですね。死人に口無しです」
この男、早いうちに潰すべきだな。そう心の中で苛立っていたが、もちろん顔や言葉には出さない。冷静に落ち着いて、ボロを出さないよう慎重に。俺は敢えて余裕を見せるように、ふっと笑った。
「そう怖い顔しないで下さい。俺は菅野さんからの言葉を聞いた以上、あの人はヤクザだったと言い張る事しかできません」
「カシラがあなたを信じても、俺はあなたを信じれません。あなたからは極道の匂いがしないんです」
「……匂い、ですか」
「ねぇ、青木さん。あなたがこの世界に入った理由はカシラを探していたから、本当にそれだけですか」
斉藤の鋭い目が俺を捕らえた。何をどう答えれば、こいつを黙らせられるのか。
でも、何を言ったところで、こいつからの疑いは晴れそうにない。だったら、手を変えようか。
「えぇ。赤澤を、あいつを理解したかった。あいつの側にいたかった。"散々な事"をしておいて、ある日突然いなくなった男の事を知りたかった。…理由なんて案外そんなものです。あいつを知れるなら、この世界に入るのも悪くない、また、会えるかもしれない。そう思っただけです」
「あなたのような人が、誰かを探す為にこの世界に入った、なんて到底信じられません、が、あなたの言うように証拠もありません」
「ヤクザになるくらい、あいつを探してたって事です」
「何の為に?」
赤澤を殺す為、と吐くとでも思ったのだろうか。だとしたら大間違い。どうせ、どこかに録音レコーダーが仕掛けられていて、その音声を赤澤に聞かせるのだろう。
だったら赤澤にとって都合の良い事を、敢えて言ってやろうじゃない。
「自分の為に、でしょうか。あいつはね、俺にとって特別なんです。あいつの近くにいたかった。いれると思ってました。…でも、そうじゃなかった。行き先も告げずに消えたんです。あいつの近くに行けるなら、何だってしますよ。何だって」
斉藤は溜息を吐くとタバコを取り出し、車外へと出た。火を点けて、ふぅと空に向かって吐いている。その表情は怒り、苛立ち、焦りが混ざっている。俺は確信した。録音レコーダーは絶対にある。ふたりっきりだという状況で、俺が馬鹿みたいに自白すると考えていたのなら、俺の口からは赤澤に対する想いが述べられ、斉藤としては面白くないだろう。だって斉藤は俺が嘘を吐いてると確信しているから。
でも証拠となるレコーダー越しでは、俺の嘘は分からない。
しばらく斉藤を車内から見た後で、俺も車の外へと出た。斉藤の目の前に立ち、「俺の事、信じられませんか」と様子を伺ってみる。
「えぇ、何ひとつ」
タバコの煙がゆらゆらと揺れる。斉藤は煙を肺に押し込めるように吸うと、冷たい瞳を俺に向ける。明らかに敵視した、それだった。
「本当はカシラを苦しめる事しか頭にないのでしょう。高校時代の恨みでしょうか、復讐でしょうか。俺には分かりません。けどね、青木さん。こんなリスクの高い事を平然とやってのけるの、この組にはあなたしかいない。俺を含め、組員は全員、カシラに惚れて付いて来てるンです。だからこそ、俺にはハッキリと誰が裏切り者か分かるんです」
へぇ。俺を含め、カシラに惚れてる、ね。どうしてお前は赤澤の背中を見たんだろうな。そんな事を考えてしまう自分がつくづく嫌になる。感情のまま舌打ちをしそうになった。感情に従って動いてしまえば死を意味する。それは分かってる。なのに苛立ちをコントロールするのは難しい。俺は静かに呼吸を整え、深く息を吸った。
「へぇ、そうですか」
俺は一歩斉藤に近付いて微笑んでみる。
「赤澤に惚れる、ね」
斉藤はひくりと眉間に皺を寄せ、怪訝な顔で俺を見つめた。俺はまた一歩近付き、そっと斉藤のスーツパンツのポケットに軽く触れる。何か細長く平たく硬い物が入っていた。
やっはりなと俺は笑ってしまう。ぐっと身を寄せ、ポケットに手を突っ込んで、それを取り出そうとすると、斉藤は咄嗟に俺の手首を掴んだ。
「離れろ!」
それでも体の間に足を入れ、重心を斉藤の方に寄せてしまえば、斉藤は身動きが取れなかった。俺はレコーダーの停止ボタンを押し、斉藤の耳元に口を寄せた。
「当たりだよ。俺の目的はあいつに対する復讐。あいつを地獄に突き落とす事が目的。でも、あんたには何もできないよな? 俺が裏切り者だってあいつに訴えたところで無駄。だって、赤澤は俺を突き離せないから」
そう伝えて体を離す。斉藤は予想以上に怒りを露わにした。拳を震わせ、目を血走らせ、ぎりりと奥歯を噛み締める。
「貴様…」
怒り心頭な斉藤を目の前に、俺はケタケタとわざとらしく笑い、レコーダーを車のボンネットの上にポンと置き、「冗談です」と手をひらひらと振った。
「俺は裏切り者じゃありません。話は以上みたいなので先に帰りますね。それでは」
斉藤の拳が震えているのを見て、俺の口角をゆるりと上がった。少し歩いてタクシーを拾い、帰路に着く。斉藤の悔しそうな顔を思い出していた。あいつの怒りを見て余裕が戻った。余裕が戻ると、おかしくて仕方がない。
なぁ、赤澤。お前は、誰の言葉を信じる? 俺はお前を潰したい。泣いて喚いて、助けを求めさせて、突き放して。苦しめてから、どん底に突き落とす。大丈夫。俺はそう思ってる。大丈夫。俺はお前の息の根をきっちり止めてやる。
俺はそういつものように赤澤の帰りを待っていた。
「…おかえり」
「おう、ただいま」
赤澤はいつもより少し早く帰宅した。
「今日は早いじゃん。晩飯の余りならあるけど、食う?」
「いや。今日はいい。…少し休みたい」
玄関先、赤澤の表情は暗かった。疲労、というよりは悲嘆だ。
「そっか。風呂は沸いてるから入って…」
言ってる途中でするりと長い腕が俺の方に伸び、
「……おい」
すっぽりとその腕に俺の体は収まった。ぐっと腕に力が入る。しんと静かな玄関で赤澤の背中にそっと片手を回すと、赤澤は呟くように吐いた。
「俺はあんたに殺されンのかね」
どきりとした。ぽつりと吐かれる言葉。俺は明らかに動揺した。
「は? 何言って…」
「…全てが嘘だと言われるくらいなら、その方がマシかもしれねぇやな」
「急にどうしたよ…」
俺はお前の事を嫌悪していて、それは今も昔も変わらない。お前は俺を殴ってはストレスを発散し、楽しそうにケラケラと笑ってた。だから、俺は、俺だけは、お前を苦しめて良いはずだ…
「悪い。……なぁ、青木、」
「なん、だよ…」
「俺がもし…」
お前も俺の事は嫌悪してるだろ? お互い様だろ? 今も昔も変わらずに、互いに互いを嫌悪してんだろ。そうだと言ってくれねぇかな。
「愛してる、なんて言ったら、あんた、どうする」
なのに、なんで。どうして。どうしてその言葉を今、言ってしまったんだ…。
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