麒麟

Rin

プロローグ: 街外れの喫茶店

いつも店内では年季の入った蓄音機から掠れたヴィンテージジャズが流れている。針がレコードを撫でる度、チリチリと小さな雑音が混ざる。その音は心地の良い空間を構築する為の一部であった。レコードはどれも年代物で、マスターと呼ばれる若い青年の私物である。


深く煎れたコーヒーの香ばしい匂いと、古い木材の甘い匂いが混ざり合い、店に入った者を包み込む。そこは知る人ぞ知る喫茶店兼バーであった。奥のボックス席はビロード生地のソファが置いてあり、その席によく座る男がいる。短い黒髪、夏が苦手そうな白い肌、高い鼻、形の良い唇、長い睫毛、奥二重の瞳。顔立ちからか大人しそうな気品のある雰囲気を感じるが、左の頬骨の上にはどうやってついたのか分からないが小さな傷痕がある。意味深に右耳にだけ開いているピアスも彼の醸し出す雰囲気とはそぐわず、過去に何があったのか気になる客は多かった。


男はいつも静かに分厚い文庫本を読んでいる。コーヒーの湯気をくぐらせながら、細く長い指でひらりとページを捲る。その仕草はどこか儚く、かつ優雅だった。彼は必ず同じ時間にそこに座って、いつもある男を待っていた。待っている間、苦味の立つコーヒーを口に運び、本を読み、時折、かすれたジャズに耳を傾けて楽しんでいる。


午後4時33分。マスターは豆を挽く手を止めず、客にコーヒーを淹れていた。店内に広がるコーヒーの芳香は、焙煎された豆の香ばしさとほろ苦さを含んで、少し鼻腔をくすぐった。常連の若い女性客ふたりとマスターは笑い声を交わしている。


その時、カランカランと乾いたドアベルを鳴らし、背の高い男が入って来た。男はよく髪を後ろで軽く撫で付けているが、珍しく下ろしていた。下ろしていると少し幼く見える男は、男らしい、という言葉が似合うように骨格がしっかりしており、切れ長の瞳と出立ちから涼しげで凛とした空気を纏わせている。ガタイが良く、背も高い。それだけで目立つのだが、顔の良さに常連の女性客は数秒ほど男に目を奪われていた。背の高い男は奥の席に座っていた色の白い男に近付くと、「待たせたな」と対面の席に腰を下ろす。色の白い男は本を閉じると、マスターに「コーヒーひとつ」と頼んで対面の男を見た。



「……それにしても、お前もあの人の世話になってたなんて知らなかった」



色の白い男はそう言って背もたれに寄りかかった。



「付き合いは長い。でも、あの人が異動してからは連絡を取ってなかったからな。俺もあんたとあの人と繋がりがあると知った時はそこと繋がるのかって、顔を顰めたよ。なんでまた、そこなんだ、って」



背の高い男がそう溜息を吐いた時、マスターが淹れたてのコーヒーを差し出した。男は礼を言ってコーヒーを一口飲んだ後、少し悩んでいるように眉間に皺を寄せ、頭を掻く。



「…あの人さ、あんたの事はかなり大切にしてたと思うぞ。手離したくないだろうに。あんたも本当は戻りたいんじゃねぇのか? 戻らなくて良かったのか?」



「今更だな。その言葉、そっくりそのままお前に返すよ。本当に戻らなくて良かったの?」



「俺はあんたを失う以上に辛いものはないと思ったから何も後悔はない。でもあんたは、」



「認めざるを得ないけど俺だってそう。あの人だって、これが最善だと思ったから力を貸してくれてんだろ。情報の対価の代わりに俺達は新しい人生を与えられた。あの人が俺のやりたかった事をきっちり成し遂げてくれるならそれで良い。……今が一番幸せだと、不覚にも思ってしまってるしさ」



「不覚、ね?」



「ふふ、うん、不覚だろ。こんなはずじゃなかった。お前なんかとこうして喫茶店でコーヒー飲んで、ベラベラ他愛もない話しして。互いにこんな未来、想像つかなかったろ」



「高校時代は特にな。俺はあんたの嫌がる事は全てしたかったし、あんたの事、心底憎かったしな」



「俺だって暴力でしか解決できないお前を軽蔑してたよ。あー、こいつって本当にクソ野郎なんだなーって」



「ふふ、悪かったよ。何もかも俺が発端だから、俺は何も言えねぇな」



「本当に悪いと思ってる?」



「思ってるよ」



「本当に?」



「本当に」



「そう。なら、これからのお前の人生、俺の好きなようにして良いって事だよね?」



「……へぇ。あんたって意外とそういう風に、誰かを支配したいとか思うんだな」



「思うよ。でも、お前以外に対しては思わない」



「へぇー、そう、なのか」



「ニヤニヤすんなよ。あのね、…俺に対して責任感じて全てが自分の責任だったと格好つけンなら、俺はその弱みに漬け込んで、死ぬまでお前の自由を奪ってやろうってだけよ」



「そう。……ふふ、分かった。良いよ」



背の高い男はふっと笑うと楽しそうに、嬉しそうに相好を崩す。色の白い男はそれが気に入らなかった。少し不服そうに男を睨み付けるが、背の高い男は上機嫌に笑っていて効果はない。



「その顔、腹立つなー。…ま、もう良いけどさ。なんだって。結局はこれが俺の選んだ道だから。認めればこんなにも楽だからね」



「清々しいな。あんたがこうして側にいるって未だに少し違和感がある。でももう裏切られようが、何されようが、結果は一緒。俺はもうお手上げよ」



「うん、降参しとけ」



「あぁ」



背の高い男は優しく頷くと、コーヒーを飲み、ふぅと一息ついた。



「……さて、コーヒー飲んだら帰ろうか。今日は魚料理が良いんだけど」



「言うと思ったよ。ってことで、良い白身魚が手に入りましたので、すでに下拵えして冷蔵庫に入れてます」



「おー、タイミング良いな。それならワインでも買って帰ろうか」



「うん、そうしよ」



男達はいつも他愛もない会話をして時間を過ごし、マスターと軽く会話をした後でその場を後にする。マスターは男達に手を振り、女性客と談笑しながら、携帯を手に取り、ある人へと端的に連絡をする。


今日も彼らは生きている。追手はいない。場所の特定はされていない。不審人物も見かけていない。それらを送ると、相手からはたった二文字だけの返信が返ってきた。



「了解」



男達の過去はもう誰も知らない。


男が、男を殺そうとした事も。

男が、男の為に殺されようとした事も。


全ては綺麗さっぱり消え去った。


数ヶ月前のある日、彼らは死んだ。死んでしまったのだから追う者も、裁こうとする者ももういない。喫茶店にいた男達は誰にでも見える幽霊で、幽霊は今日もまた、平和な一日を過ごしているのだ。

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