5. 危険な渇望

よく取り立てに来ていたガラの悪い男達は、金を返せと怒鳴り散らして母に詰め寄り、母を何処かへ連れ去って監禁した。



『あのねぇ、世の中借りた金はきちーんと返さないと。逃げちゃダメじゃない。お子さんいるんでしょ? ほら、泣いちゃってるじゃない。このチビ共のためにも働かないと』



俺を抱え、兄を連れ、母は夜逃げしようとしていたのかもしれない。夜中に荷物を纏めて、家を出ようとしていた。


けれど派手な柄シャツを着たスキンヘッドの男とスーツを着た眉に傷のある男が、母を見つけると髪を鷲掴み、そのまま車に引き摺り込み、泣き叫ぶ俺と、そいつらに食ってかかる兄を残し、何処かへと消えた。


母は一週間後、やつれて戻ってきた。顔に青アザを作り、無残な姿で戻ってきた。キツい香水の匂いと焦点の合わない母の姿がまるで別人のようで怖かった。


母がいない間、眉に傷のある男が何度か家を訪れ、コンビニ飯を与えてくれていたが、今思えばそれは優しさなんかではない。俺たちが警察や他の人に助けを求めに行かないか監視をしていたのだろう。


それからというもの、母はたまにガラの悪い男を家に招くようになった。事が終わると男は上裸で勝手に冷蔵庫を開け、ビールを飲み、それを見ていた俺に悪態をついた。機嫌が悪いと俺を殴った。それを母は止めようとしたが、母も殴られ、いつもふたり揃って鼻血を流す。母の客に碌な男はいなかったが、そのヤクザ者は群を抜いてタチが悪く、男は印象的な派手な和彫の刺青を体に入れていた。それはただただ怖いという印象でしかなく、その和彫の刺青イコール最低で最悪な人種だと俺は考えるようになっていた。


そんな客を相手にしても母が金持ちになる事はなく、満たされる事もない。何の為に体を売るのだろう。何の為に殴られるのだろう。あの人の為だとしたら呆れてしまうが、きっとそうなのだろう。


母の最悪な客達と、暴力的で、父と呼べないようなあの人と、世の中に失望するには十分すぎる環境にいた俺は、小さな頃からずっとヤクザ共に囲まれ、何度も屈辱を味わい、トラウマになるくらいにはヤクザが嫌いである。


それは、自分が初めて興味を持ち、好きだと告白した男がそうであったとしても、だ。その憤りやトラウマは存在し、思考を支配し続けるのだ。


あれから一週間が経っていた。鈴木さん、…本名は違うのだろうが、本名が分からないから鈴木さんと未だに呼んでいる男とは、顔を合わす事もなく、見かける事もなく、淡々と無機質に過ぎていく時間だけを感じていた。なんだか気まずくて、俺はコインランドリーに行けず、洗濯の山を見つめている。骨折して片腕の鈴木さんが、コインランドリーにいるとは思えないが、出会った場所でもあるからだろうか、俺の足はその場所へ向かう事ができなかった。


どうしてそこまで意識をしてしまうのか。ヤクザだと分かっても、割り切る事が出来ずに考えてしまうのか。不思議でならなかった。最初はただ、影があり、謎の多い人物で面白い人だと目で追っていた。再び会った時は心底嬉しかったし、どうしようもない世界に生きてる俺が、初めて心からの楽しさを勝手に見出していた。


正体を知りたいと近付いたが、次第に正体なんてどうでも良くなっていて、俺はただ鈴木さんに近付きたくて、側にいたくて、触れてみたいと強く願った。


そして勝手にオアシスに仕上げて、勝手に裏切られた気分に陥った。


部屋の窓を開けてふぅとタバコの煙を吐く。あの日、俺を待っていたと言いながら鈴木さんもタバコを吸っていたっけ。煙がゆらりゆらりと外へと逃げ出した。


なんでヤクザなんだろ。どっからどう見てもヤクザには見えねぇのに。


俺は舌打ちをする。もし鈴木さんが最初からヤクザだって言ってくれてたら、俺は好きになんてならなかった。最初から距離を空ける事が出来ていたら、こんな風に思い悩む事なんてなかった。タバコの灰をポンと空き缶に落とす。


でも落としながら、違うと理解している。そんな簡単な感情じゃない事くらい、最初から分かっていた。だから俺は項垂れた。簡単に片付ける事が出来るような感情じゃないから、気持ちが晴れず、いつまで経っても鈴木さんの事ばかり考えているのだ。


鈴木さんの香りを思い出していた。唇の感触も。あの冷たい掌も。もう一週間が経ったというのに、俺はまだ鈴木さんの事を考え続けていて、その度に諦めようとしてはまた考えて、それを永遠と繰り返す。


朝起きて学校へ行っても変わらず、ぼうっと授業をサボって屋上に寝そべりながら考える。


キクチという変態男を殴って黙らせたように、この瞬間にも、淡々と誰かを殴って、鈴木さんは誰かを暴力の中に沈めて黙らせているのだろう。暴力で生きる世界の住人の事なんて、俺には到底理解できない。なのに、どうしてこうも諦められないのだろうか。ヤクザなんて嫌悪しかない相手。なのに、どうして鈴木さんの事を何度も考えては胸が苦しくなるのだろう。


俺の為に人を殴った。俺の為に携帯を買うと言ってくれた。俺に微笑んでくれた。隣で話してくれた。一緒にタバコを吸ってくれた。


例えあの人が、俺の嫌いなヤクザでも……、そう不覚にも思うようになっていて、俺は深い溜息を吐いた。鈴木さんの事を考えれば考えるほど、その思いは強くなり、そんな自分の脳も体もどうしようもなく嫌になってしまう。本当に愚かだ。それに尽きる。


夜、仕事をする気になれず、途方もなく繁華街の外れを歩いていた。その途中で、声を掛けられた。聞き覚えのある声、見覚えのある女の子がひとり、橋の上で上機嫌に笑って手を振っている。



「遥真くーん」



「あ、ミチルちゃん。どーも」



「ひとりなのー?」



「いや、これから知り合いの家に行くとこ」



実際には何処も行く予定はないのだが、長居をするつもりのない俺はそう敢えて伝えた。



「あ、そうなんだぁ」



ミチルちゃんは愛想良く頬を緩めている。そうだ、この子のお兄さんも同じなんだ。つまり、ヤクザ者。俺はにっこり笑ってるミチルちゃんに近付き、「あのさ」と声をかける。



「うん」



「ミチルちゃんのお兄さん、本当はヤクザなの?」



「え?」



直球すぎたろうか。彼女はぎょっとしたように顔を顰めると、少し考えた後、静かに「バレちゃった」と眉を下げて笑っている。



「うん、そうだよ」



肯定しながら頷いた。



「どこの組織かって分かる?」



「…なんでそんな事、知りたいの?」



なんで知りたいんだろ。改めて問われると、深く考えていなかったから理由が分からなかった。


けれどきっととても単純な理由なのだ。



「あ、もしかして…前に言ってた、写真に写ってたあの人?」



ただただ、鈴木さんの事を知りたいのだ。ヤクザだと分かっていながら、近付きたいのだ。一歩間違えてしまったら、金の虫にされ、哀れに捨てられるだけかもしれないのに。日常的に殴るような男かもしれないのに。それでも俺は鈴木さんの事を知りたくて、触れたいと思ってしまっている。無言でいた俺に、ミチルちゃんは俺の顔を覗き込み、「フジ ミツキ」そうぽつりと漏らした。俺は顔を上げた。



「それがその人の名前だよ。思い出した」



「フジ ミツキ…」



「うん。組織とかそういうのはよく分からないけど、あの人の名前はフジ ミツキで合ってると思うよ。お兄ちゃんから聞いた時、綺麗な名前だなぁーって思ったんだもん」



フジ ミツキ。何度も心の中で繰り返した。危険に自ら飛び込むようなものかもしれないけど、俺はやっぱり知りたいと思ってしまう。男の事を、もっと。もっと深く、ちゃんと。



「名前、教えてくれてありがとう」



「いいえ」



ミチルちゃんは首を横に振るとエクボを作った。



「ちょっと、俺……踏ん切りついたかも」



その笑顔を見ながら、俺は深く息を吸って、深く吐いた。



「踏ん切り?」



「うん。…やっぱ俺にとって特別なんだよ。だから言うだけで言ってみる。思いの丈をぶつけてみる。ありがとうね、ミチルちゃん。また今度!」



一歩踏み出す。ミチルちゃんは、頭の上に無数の疑問符を並べながらも手を振った。



「うん、解決したなら良かったよ! じゃぁまたね、ばいばーい」



気が付けば俺は来た道を走って戻っていた。家に着くと、階段を駆け上がり、息を切らしながらも男の家のドアを叩いた。この時間はいないだろうか…。部屋の中から物音は全くしなかった。人がいる様子もなく、俺はそのまま走ってコインランドリーへ向かった。深夜はとっくに過ぎていた。ランドリー内は蒸し暑い。扇風機はどうやらまた壊れてしまったらしく、再びただの飾りとして同じ場所に鎮座し、男はその扇風機のスイッチを何度も押している。



「……壊れてますよ、それ」



中に入りながらそう伝えると、男は振り向いて、片眉を上げると肩をすくめた。



「そうなんだ。残念」



言いながら諦めて、額の汗を拭うと、洗濯機から脱水された洗濯物を乾燥機に移し始めるから、俺は咄嗟に手を伸ばす。



「俺、やります。…座ってて下さい」



横から言って洗濯物を取り出すと、男は「そう?」と首を傾けて乾燥機の横で硬貨を三枚持って待っている。どうしてだろうか、俺は男の顔を見れなかった。ヤろうと誘って、いざ上裸を晒されて刺青を見て怖気付き、ヤクザだと知って、顔を合わせないようにしていたのだから。自分の中で気まずさがあるのは間違いなく、それを無理に隠そうとするものの、それすらもバレていそうで更に気まずくなるのだ。


でも俺が何かを言わなければ、きっと男は何も言わない。だから俺は何でも良いから会話をすべきだと、言葉を絞り出した。



「…その怪我、階段から落ちたってのも嘘ですか」



何でも良いはずなのに、俺の口からは咎めるような言葉が漏れて出た。的外れと言うか、今じゃないと言うか。言って早々後悔するが、男は特に気にしていないのだろう。首を曲げると、「ヤクザだから?」と、何でもない事のように聞き返した。



「はい」



パタンと乾燥機の蓋を閉めると、男は小銭を投入口にカランと投入して、いつものベンチへ戻る。



「まぁ、そうね。嘘だね」



「名前も嘘なんですね」



「そうだね」



男はもう隠そうとはしなかった。謎がひとつひとつと暴かれるが、これは知らぬが仏だったのかもしれない。俺は男の前に立ち、その飄々とした顔を見下ろし、はっきりと言葉を伝えようと口を開いた。今の思いを、俺はしっかりと伝えてたかったのだ。



「嘘ばかりかもしれないですけど、でもやっぱりあんたの事が好きです。あんたが何者だとしても、やっぱりあんたの事を考えてしまうし、あんたに触れたいって思ったんです。一週間考えましたけど、俺はあんたの事が好きです」



男はふっと笑うと足を組んで、背もたれに寄りかかると俺を見上げた。やけに冷淡な瞳が俺を見つめている。心地の悪い瞳だ。心底、うざったそうな、厄介なものを見るような、そんな鬱陶しいと訴える瞳だ。



「君は賢い子かと思ったんだけどな。少しガッカリしてるよ。君が俺とどんな関係になりたいかは分からないけど、俺達の間には何も起きない。だから、そのお花畑な脳みそからさっさと俺を消した方が良いよ」



「なんで、何も起きないなんて言い切れるんですか。この前はヤろうとしたくせに」



「それだけが目的なら抱いてやるよ。本当にそれだけが目的なら」



それだけが目的なら…。深入りは一切させてくれないし、ましてや関係を築こうだなんて思わない。この人にとって俺は何でもないのだ。だからと言って、はい、そうですか、と簡単に諦めたくない。考えて、考えて、考え抜いた結果だ。俺は決めたのだ。


今、下がるわけにはいかない。



「ヤクザは何よりも嫌いでした。派手な刺青を見せびらかして肩で風切って、怒鳴り散らして暴力に頼る、それしか脳のないヤクザ共が嫌いで仕方ありませんでした」



男は何も答えず、俺の言葉を待っている。



「でもあんたがそんな連中のひとりだと知っても、俺はどうしたってあんたの事ばかり考えてしまう。あんな派手な刺青見せられて、正直怖いって思ったのに、あんたの側にいたいってどうしようもないくらいに思ってしまったんです。…付き合ってくれとは言いません。でも、俺にあんたの時間を少し下さい。一緒に飯食ったり、洗濯したり、他愛もない事を話したり、何でも良い。あんたの側にいたいんです」



恋に落ちるという事が心底分からなかった俺が、トンと落ちた深く暗い沼。足掻き藻掻き、苦しい人生になるかもしれないのに、それでも良いと思えるほど脳は麻痺してしまう。それほどこの人の存在は俺にとっては麻薬で、抵抗なんて出来ないのだ。



「…愚かだな」



男の言葉はひどく冷たく言い放たれる。俺はぐっと拳を握った。



「もし、あんたがヤクザじゃなかったら、脈ありましたか」



「ないよ」



「…即答、ですね」



「子供に興味ないからね」



「俺が大人だったら?」



「大人はよく知らない人に勢いで好きだと告白したりしない」



至極真っ当な事を言われているようで腹が立つ。腹は立つが、俺はきっとまだまだ子供なのだろう。好きだという感情に、勢いを任せて告白した事の何が悪いのか分からないし、分かりたくない。



「俺は大人になっても言いますよ。あと三年、待ってて下さい」



「ハタチ、か。ハタチも17も俺からすりゃぁガキだし、その時も答えは同じだ。君は時間を無駄にするだけ。早いところ諦めてしまいなよ」



「大人も子供も関係ありません」



「大人か子供かってのは単純に年の話じゃないって事、分かってる?」



「分かりませんよ。そんなの。…どうしたら大人かなんて」



「君、見た目はうんと大人びてるけど、その脳みそはしっかりとガキで安心するな」



「何が大人で何が子供ですか」



「さぁ」



「…さぁって」



「未熟か成熟か。ヤクザに好きだと言い、突っ走るなんてどこのラブロマンスだ。そんな阿呆な考えを持ってる君はいつまでも未熟、そういう事だよ。分かったら…」



その時、プルルルと俺の携帯が鳴り響いた。タイミングが悪すぎる。男は何を言おうとしたのか、俺はその続きが気になって携帯の騒がしい音を無視していたが、男は「出たら?」と言って、腰を上げて俺から離れてしまった。まったく。こんな時に誰だよ。内心悪態をつきながら携帯を見ると、最近、断り続けていた太客だった。この一週間、どうしても仕事に身が入らなかった。誰かを抱くのも、抱かれるのも、仕事であっても勘弁してほしい。そう思って断っていたが、さすがにもう無視はできねぇな、と仕方なく電話に出る。



「…すみません、アキラさん」



どう言い訳をしようかと考えながら、ランドリーの外へ出る。



「ようやく出た。ツカサ君、最近どーしたの。全然会えないから心配なんだよ」



「すみません…。ここんとこ、風邪拗らせて寝込んでました。だから連絡もできず、本当にすみません」



「じゃぁしばらくは会えない?」



「本当すみません。完治したらすぐに連絡入れるんで」



「まぁ、別に君じゃなくても良いんだよねー。ツカサ君ってさぁ、割と客の事をどうでも良いって思ってるタイプだろ? そんなんじゃ売れないよー? もっとさぁ、」



ガミガミと、ひたすらにアキラさんの説教を聞く。まぁ、最近は連絡があっても無視していたし、予約が入ってもキャンセルしていたから、その怒りはごもっともではあるが、面倒だ。俺は平謝りしながら聞き流していた。それでもこの人の説教は止まらず、延々と苛立ちに任せた言葉が並べられる。あーあ、本当に面倒臭い。さすがに長すぎて、俺は舌打ちをしそうになったのをぐっと堪える。ふとランドリーの中を見ると、男が乾燥機から取りにくそうに洗濯物を取り出して、カゴの中に放り込んでいた。



「アキラさん、本当すみません。次はサービスするんで。また連絡します!」



「あ、ちょっと…」



強引に電話を切り、携帯の電源を落とす。悪いけど、俺にとっては今、この時間は何よりも重要なのだ。今を逃せば、もうこの人との距離はきっと縮まらない。俺は室内に戻り、すぐに男の側へと駆け寄った。



「やります」



「…どーも」



「あの…畳んで行きますか。それとも家で畳みますか」



「じゃぁ、今畳んでくれるかな」



「分かりました」



しばらく俺達は何も話さなかった。俺はただこの人の洗濯物を畳み、この人は畳んでる俺をじっと見ている。何も言わずに、ただ、じっと。



「さっき、分かったら…、の後に何を言おうとしたんですか。もしさっさと諦めろって続けようとしたなら、俺は諦めませんよ」



呆れた顔で溜息を吐かれる。これで何度目だろうか。


でもどうしたって、この人の為に何かをしたいのだ。しばらくの沈黙を生んだ後、俺は男の顔を見つめた。男は視線を合わせたまま、何も言わない俺を怪訝に思ったのか、いつも飄々と澄ましている顔が歪む。眉間に皺が刻まれたその顔を見ながら、俺は口を開いた。



「ミツキさん」



言った瞬間、明らかに男の瞳は見開かれ、動揺を見せる。次第にぐっと眉根が寄せられた。



「名前、合ってるみたいですね」



ミツキさんは何故俺がその名前を知っているのか考えたのだろう。少しの間を置いて、「そうだね」と頷いた。


でも頷いただけだった。



「どこで知ったのかとか、誰から聞いたのかとか、気にならないですか」



「大方予想はつくから」



そう言うと口を歪めて、「妹、いたんだったな」と漏らすように言葉を吐いた。



「あの子、君と同じ年か」



「そ、そんな事も分かるんですか」



どうして情報源が分かったのかと心底度肝を抜かれていると、ミツキさんはふっと乾いた笑みを浮かべる。



「あいつしかそう呼ばなかったから」



その表情はやけに悲しそうで、辛そうで、すぐに表情は元の冷淡な表情に戻されるが、俺の胸はぐっと締め付けられるようだった。



「そう、だったんですね」



ミチルちゃんのお兄さんしか、ミツキさんって呼ばなかったのか…。畳んだ洗濯物をカゴに仕舞うと、ミツキさんは腰を上げてドアを開ける。



「さ、帰ろうか」



「はい」



一体、ミツキさんとミチルちゃんのお兄さんは、どういう関係だったんだろ。気にはなるが、そう簡単に聞けそうにもないし、答えてもくれないだろう。



「カゴ、ここで良いですか」



ミツキさんの部屋に着くと、ミツキさんは「良いよ。ありがとう」と礼を言ってそそくさと中へ入って行く。その背中を見つめながら、俺はまだ話していたいと、側にいたいと、足掻くように「ミツキさん、」と名前を呼んだ。ミツキさんは振り向かず、キッチンで何か作業をしながら口だけを開いた。



「遥真君、助かった。それじゃぁ、おやすみ」



ミツキさんにとって俺という存在は、本当にどうでも良いというか、取るに足らない存在なのだ。それくらいは分かってるし、距離を縮めようとする俺をあからさまに疎ましく思って、距離を開けようとしている事も分かってる。ここからこの人にどう意識してもらうか、どう距離を縮められるか、今の俺には全然分からないし、お手上げではあるのだが、それでも、俺は諦めたくはなかった。



「…何かあれば言って下さい。では、おやすみなさい」



その日以来、ミツキさんと鉢合わせしたいと、夜になるといつもより長めに廊下でタバコを吸うようになった。朝方、ミツキさんが廊下を通らないかと期待して耳をすませるようになった。学校が終わると無駄に繁華街をぶらつくようになった。刺青が入ったチンピラを見ると、少しだけ後をつけるようになった。ミツキさんの事が知りたくて、もっと話していたくて、キッカケを探るのに必死だった。


しかしミツキさんは俺を避けているようで、金曜日の夕方、洗濯物はどうするかと部屋をノックしても出てくれなくなった。


もしあの日、俺がミツキさんの刺青に恐怖を感じず、受け入れていたら、俺達は最後までしていたのだろうか。そればかりが気になった。きっと、セックスだけが目的ならミツキさんは相手をしてくれるのだろう。


でも、俺の望みはそうじゃない。それをミツキさんは分かっている。だからあの人は俺を避けているのだ。嫌だな。もっと、知りたいのに、そのチャンスすら得られない。


ミツキさんはこのままある日突然、消えてしまいそうで怖かった。だから俺は深呼吸をして、拳を握り締め、ある事を決めた。ミツキさんはこのまま有耶無耶にしたいのだろうが、俺はしたくない。やっぱり俺はミツキさんの側にいたいし、ミツキさんが好きなのだ。危険な道になったって良い。ミツキさんと共に歩む事ができるのなら、何だって…。


朝方、仕事帰り。自分の部屋に戻る事もなく、そのまま二階の渡り廊下でタバコを吹かし、ミツキさんの帰りを待った。俺は、ミツキさんにある願いを聞いてもらおうと、考えていた。

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