翌日、ノアは宿場を

 翌日、ノアは宿場を朝早くに発った。大陸の西を目指して。

 まず向かうのは帝国領の西沿岸に位置する港町である。馬でおよそ五日の道程だが、急げば四日に短縮できるだろう。ノアはそのために宿場の博労から健康そうな馬を手に入れた。


「南回りの定期船で帝国領を出たあと、貿易都市オーミへ渡るんだ。オーミの港にはユニベッセレ貿易という船会社がある。くわしくはそこの職員に聞いてくれ」


 別れ際に、使い番の男はノアにそう指示した。


「船会社がどう関係してる?」

「看板だけ出してる会社にすぎん。隠れ蓑だ。オーリア情報機関の」

「一〇人委員会の調査室……」


 ノアがそう言うと、使い番の男は少し驚いた様子で眉をあげた。


「そのとおりだ。誰に聞いた?」

「忘れた」


 とノア。たしか、ハイランドのイシュラーバードで知り合った魔術師から聞いたのだ。オーリアには、そのような秘密的な諜報組織があると。ヨアヒム・ローゼンヴァッフェ。あいつはいまオーリアにいるはずだが、なにをしているのだろう。


「向こうはおれのことを知っているのか」

「知ってる。しばらく、きみはそこの所属となる」

「お膳立ては抜かりないな。さすがだよ」

「だから安心しろ。なにも問題はない。あと、これも渡しておく――」


 言って、使い番がノアに手渡したのは、細い鎖が繋いである首飾りだった。平たい六角形のロケットチャームは銀製で、表面に樫の枝と鷹の意匠が彫ってある。ところどころが硫化して、うっすらと黒ずんでいた。


「こいつを持つ者は、そうはいないぞ。オーリア国内であれば、なにをやっても許される特免状だと思えばいい」


 ノアは受け取った銀色のロケットを訝しげに見つめた。


「なにをやっても?」

「そうだ」

「誰かを殺してもか」

「もちろん。きみがなにをしようと罪には問われない。マントバーン王が責任を持って正当化してくださる」

「あんたもこれを持ってるのか」

「持ってる」


 オーリアの情報機関か。とうとう本格的に組織のなかへ組み込まれた気がした。マントバーンはオーリアの政変時に、ノアへ神官王の殺害を命じたあげく使い捨てた男だ。以来、ノアは権力の威を借りる者の横暴に反発心を抱いていた。彼がオーリアを捨てようとしたのも、その蟠りからである。それがいま、またしてもマントバーンの庇護の下に入ることになるとは。

 だがノアは悲嘆に暮れるような気分にはならなかった。挫折を甘んずるのは屈辱ではない。手の届かない理想を追い求め、腹を空かせて野垂れ死ぬほうが、よほどみじめだ。これまで我を貫いて得られたものなど、なにもなかった。ノアは自身の頑固さと折り合いをつけ、生きることを選んだ。そうすれば再起の機会は必ず訪れる。すべてが終わったわけじゃない。

 ドルフマーレの港町まで四日、そこから帆船に乗ってオーミへ移動するのに三日かかった。あわただしい旅ではあったが、天候に恵まれ滞りなく目的地へ到着できた。

 貿易都市オーミはオーリアの国内にある自治領だ。通商の拠点で、大陸西岸の玄関口といってもよい。領主は若きフレイジャー女公。海岸に沿って南北に細長くのびた都市には、多国籍の人々が多く暮らしている。人間のほかにエルフ、ドワーフ、ノームといった亜人も少なくない。奴隷を含めれば人口は一万人を越えるだろう。領内の北西には入り江の水深が深く、山からの強い風が吹く良港がある。帝国領から海を渡ってきたノアは、その港へ降り立った。

 まずはともかく、使い番の男が言っていた船会社を探さねばならない。

 ノアは波止場を離れ、魚の水揚場と倉庫が並ぶ区域まで歩いた。そこは潮の香りと、魚の生臭い匂いが満ちている。そろそろ陽が暮れようとする時間なので、水揚場に漁師たちの姿はなかった。代わりに輸送船へ積み荷の搬入、搬出を行っている運輸業者と仕事を求める人足で、ごったがえしている。

 オーミには遍歴の途中で立ち寄ったことがあった。だが港にどんな船会社があるかまでは知らない。誰かに訊くしかない。ノアは目についた船員らしき若い男に声をかけた。倉庫の壁際で樽の上に腰掛けた彼は、肌が赤銅色に日焼けしていた。いかにも海の男といった風貌である。

 ユニベッセレ貿易社の場所を訊ねると、このすぐ近くだと教えられた。ノアは礼を言って、港の外れにあるそちらへ向かった。

 古ぼけた煉瓦造りの建物の一階に、舵輪を看板代わりにしている船会社の事務所があった。入口の扉に《ユニベッセレ貿易》と刻まれた金属のプレートを鋲で固定してあるので、まちがいはない。扉を開け、なかへ入る。

 誰もいなかった。ノアは殺風景な事務所内を見回した。椅子とテーブルがひとそろえ。ほかには、おそらく仕事関係の台帳がぎっしり詰まった戸棚があるのみだ。


「今日は休みだよ」


 奥から声がした。つづいて間仕切りの陰から、年老いた男が姿を現した。髪が白く皺だらけの、なんの変哲もない老人。


「ここへいけと言われてきたんだが」


 ノアが言うと、相手は不審げな目を向けてきた。ノアは首元から使い番にもらった首飾りを引っぱり出して、それを見せた。


「なんだ、客じゃないのか」


 連絡員と思われる老人は、途端に態度を軟化させた。


「遅かったな。みんな待ちくたびれてるぞ」

「誰がおれを待ってるんだ」


 とノア。


「そりゃあ、ユエニ神聖騎士修道会の連中さ。あんたがいないと出発できないからな」

「どこで落ち合える?」

「修道士は教会堂にいるもんだ。南の商業区にある目抜き通りから、一本外れた路地だよ。――いや待て、案内させよう」


 いちど奥へ戻った老人は、すぐに小さな男の子を連れてまた現れた。オーミにあるオーリア正教会の教会堂へは、その少年が案内してくれるらしい。

 事務所をあとにしたノアは子供に先導され、しばらく歩いた。

 太陽が大きく傾き、冷え込んできた。ノアは建物や人の影が長くなっているのに気づいた。

 オーミの街並みは独特だ。建物の外壁の色、屋根の形、見慣れぬ衣装であたりをそぞろ歩く人々。異国の文化が折衷しており、どこかと似ているようで、微妙にちがう。それにしても人が多い。ノアは辟易した。やはり自分はひとりでいるのが性に合う。

 オーリア正教会の教会堂はすぐに見つかった。切妻屋根の建物に、ふたつの尖塔をくっつけたありふれた様式だった。全体が漆喰で白く塗られ、正面口の上には例によって三つの丸い点が描かれている。オーリア正教会の紋章。正三角形の頂点に位置する点のそれぞれは、大陸で広く信奉されるデルトイド三柱神で、いちばん上の大きな点がユエニ神を表しているのだ。

 ノアは仕事を終えた少年に駄賃を渡した。外套の隠しにあったコインを一枚だけ。

 少年は掌にのせたコインをちょっと不満そうに見つめた。


「マグナスレーベン帝国のおカネだ。一ラブル銅貨」

「よく知ってるな」


 さすが、商業が盛んな貿易都市の子供といったところか。

 少年と別れたノアは教会堂へ向かう。正面の入口からは入らず、裏に回った。途中、敷地内で薬効のあるハーブを育てている小さな畑に差しかかった。


「よう」


 声をかけられ、そちらを向く。するとハーブ畑の隅でちんまりと佇んでいる東屋に、ふたりの男がいた。どちらも宗教施設にはそぐわない人物に思えた。身なりは貧相だったが両方とも体格がよく、手近に武器を置いているのだ。おそらく傭兵か、その類いだろう。東屋の小さな卓で向かい合い、カード遊びに興じている。


「見たところ、お仲間のようだな」


 黒髪で彫りの深い男のほうが言った。


「どうかな」


 とノア。


「雰囲気でわかる。シャノンが、最後のひとりがまだ姿を見せないと気を揉んでたぜ」

「シャノン?」

「神聖騎士団の隊長だよ。あんたも護衛として雇われたクチなんだろ」


 黒髪の男が席を立ち、ノアの近くまで歩いてきて片手を差し出した。人なつっこい笑顔で。


「ミゲル・サパテロ」

「ノア・デイモン」


 ノアは相手の手を握った。


「あいつはカルロだ」


 ミゲルが親指を立てた拳でもうひとりを示した。頭髪を剃りあげた強面のカルロが軽く手を振り、ノアは肯いた。ミゲルがノアの背後を覗き込むように首をのばした。彼が担いでいる剣が気になったようだ。


「めずらしい剣だな」

「みんなそう言う。シャノンとやらはどこにいる?」

「裏にいるよ。会ってきな」


 教会堂には裏庭がある。ノアはミゲルに言われたとおり、そこへ足を向けた。

 教会堂は建物が犇めく街中にあるため、裏庭といってもさほど広いものではなかった。一本だけ大きな楢の木がそそり立っていたが、あとはヒイラギやムラサキハシドイがまばらに生えているだけだ。教会堂の裏口の脇に、花を植えたたくさんの鉢をのせた棚があった。庭の奥ではひとりの修道女と、数人の子供たちが楢の木から落ちたどんぐりを拾っている。ノアは、まばらに枯れはじめた芝生に埋められた枕木を踏んで、彼女らのほうへと歩いた。

 声をかける前に子供のひとりがノアに気づいた。少女が近づいてくるノアを見ながら、修道女の服を引っぱった。


「すまない。神聖騎士団のシャノンという男に会いたいのだが」


 頭に白いウィンプルを巻いた修道女が、屈んだ姿勢のままノアを見あげた。彼女は無言で腰をのばし、周りの子供たちにここにいるよう言い含めると、ノアの横を通りすぎて教会堂へ歩いた。ノアはそれを追った。


「わたしがシャノンだ」


 修道女が低めた声で背後のノアに言った。やや気まずい思いをしたノアは、彼女が見ていないのにもかかわらず肩をすくめた。


「待たせたようだな」

「まったくだ。オーリアの宮仕えとはいえ、あまりこちらを軽んじるな」

「遅れたのはおれのせいじゃない。ゆけと命じられた場所にきただけだ」

「名は?」

「デイモン」


 教会堂の角まで歩いたところでシャノンが足を止めた。彼女はノアのほうに向き直り、胸の前で腕を組んだ。


「一〇人委員会は、どうしてもわれらを監視したいようだな」

「なんのことだ。大事な荷を運ぶ護衛という話だったが」

「そうだ。これには部外者の手を借りるまでもない――」


 シャノンの眼差しにはあきらかに敵意が込められていた。しかしノアには、なぜ彼女が気を悪くしているのかわからなかった。


「だのに、監察局のミルズはそちらの人員を加えると言って譲らなかった」

「文句ならそいつに言え。おれは新入りでね」

「そんな頼りない者をよこしたのか?」

「さあな。事情があるんだろう。おれは誰が命じたのかも知らないが」

「誰の命令かもわからず、ただ従っているだけだというのか」

「なりゆきでこうなった」

「おまえ、国王騎士か?」

「前はそうだった」


 するとシャノンは顔を歪め、苦々しそうに鼻を鳴らした。


「簒奪者の犬め、恥を知るがいい」


 ずいぶん気の強い女だ。ノアはこのやりとりがいつまでつづくのか心配になってきた。


「そういうことは、おれの前以外では口にしないほうがいい」

「かまうものか。わたしが忠誠を誓ったのはユエニ神と、お隠れになった猊下だけだ」


 ノアは閉口した。そうしてもしシャノンが、亡き神官王を手にかけたのが目の前にいる男だと知ったら大変なことになるなと、他人事のように思った。


「なんにせよ、同行するあいだはこちらの指示に従ってもらうぞ」


 と高圧的にシャノン。


「おれが抗弁する余地はないんだろう?」

「そうだとも。輸送隊の護衛はわれら神聖騎士団と、おまえのほかにあとふたりだ。頭数をそろえるのに傭兵を雇った」

「さっき会った」

「ならいい。雇われ組のために宿をとってある。おまえも今日はそこで休め。明日の朝、いちばんにここへこい」

「了解だ」


 さも疲れたように言うと、さっさと解放されたいノアは踵を回した。


「待て――」


 シャノンが鋭くノアを呼び止めた。


「明日までに風呂に入って髭を剃れ。見苦しくてかなわん」


 ノアは前を向いたまま歩きつづけ、返事をしなかった。

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