Deathless Thing
天川降雪
プロローグ
最初の天使が云った
汝、畏れること勿れ
つぎの天使が云った
汝、退くこと勿れ
最後に異形の女神が云った
汝、
――《聖アスカリの手記》
*
ヤギの一頭が姿を消したことに気づいたのは、夕方の少し前だった。
全部で三頭いるはずだったヤギのうち、白と茶と黒の三毛がどこかへいってしまった。
まずいぞ。マルコは急いで放牧してあるヒツジの群のなかを探し回った。まだ若いヤギだったから、はぐれて迷子になったのだろうか。しかし、あたりはずっと遠くまでなだらかな草原である。目の届く範囲外まで離れたとは考えにくい。
焦燥するマルコとは対照的に、彼の周りではたくさんのヒツジたちが草を食んでいた。ヒツジはおとなしく受動的な動物だ。群を作っても明確なリーダーが存在しないため、いちど群が動きを止めると、なかなか動こうとはしない。よって放牧するときは、そのなかにヤギを混ぜる。つぎに群を移動させたい場合、目的地に向かってヤギを誘導すれば、それにヒツジたちが追従してくるというわけだ。
ヤギは人に懐きやすいうえ、自立性が強い。肉は食べられるし乳も出す。遊牧民にとっては、羊毛を得られるヒツジと同じくらい大事な家畜だった。
その一頭が、いなくなった。父親に知れたら大目玉をくらうだろう。九歳になったばかりのマルコだが、遊牧民ではその年齢でも立派な働き手であり、責任を負わされる。マルコはいっしょにヒツジの番をしていた妹にその場を任せて、あたりを必死で探した。すると群がいる場所から少し離れた地面に、ぽっかりと開いた竪穴を見つけた。
大きな穴だった。人間や家畜ならば、容易くのみ込んでしまうほどの。オーリア王国の領土内は地下空洞が多く存在し、西方にあるサザランドも例に漏れない。きっと地表の地盤が一部崩れて、この穴となったのだ。マルコが覗き込むと、竪穴は途中で曲がっているらしく底は見えなかったが、下のほうからヤギの鳴き声が聞こえる。
マルコはすぐに馬を駆り、自分の家族が住む天幕まで戻った。そしてできるだけ長い縄を持ち出すと、今度は父親と兄がいる南の放牧地へと向かった。父親のピエトロに事情を話したが、おこられはしなかった。その場にマルコの兄を残し、ピエトロとマルコが穴へたどり着いた頃には、陽が落ちかけていた。
竪穴にはピエトロが入った。地上の岩のでっぱりにくくりつけた縄を穴のなかへ投げ込み、それを頼りに慎重に降ってゆく。一〇メートル以上は降りたろう。穴の底にヤギがいた。落ちた拍子に脚を挫いて、地面にうずくまっていた。
降りてみると穴は底部で横に折れ曲がって、さらに奥へつづく洞穴があった。ピエトロは長年、サザランドと周辺地域を遊牧して回っていたが、このような穴の存在は知らなかった。暗闇へ通じる洞穴の高さは彼の背丈を遙かに超える。幅も広い。陽の光が射さないため、先はよく見えなかった。這入口から上を仰ぐと、天井に何百というコウモリが身を寄せ合いぶらさがっていた。地面にはコウモリたちが落とした糞が厚く積もり、絨毯のようになっている。そして、その糞を食べる糞虫がうじゃうじゃと這い回っていた。
ピエトロの顔が嫌悪感で歪んだ。はやくヤギを連れて地上へ戻ろう。そう思って踵を返したとき、足元で軽やかな音がした。
なんだろう――
反射的に目を下へ向ける。サンダルを履いた右足がなにかを踏んでいた。ピエトロは足をどかし、身を屈めてよく見てみる。それは丸い小皿のようだった。ちょうど掌に乗るほどの大きさで、中央に穴が開いている。陶磁器ではなく金属製だった。くすんだ茶色なのは錆か泥に覆われているせいだろう。
ピエトロは穴の開いた小皿を拾いあげると、親指の腹で窪んだ側の表面を擦ってみた。付着していた汚れが取り去られて、いくらかきれいになった。縁のほうに刻印がある。三つの丸い点。オーリア正教会の紋章だ。ほかにもルーン文字らしき連なりが刻まれているものの、ピエトロには判読できない。彼はさらに、シャツの裾で皿全体を丹念に拭ってみた。するとかつての姿を取り戻し、金色にきらりと輝いたそれの表面は、まるで鏡のように滑らかである。見つめるピエトロの顔が、反射して映っていた。
穴の開いた皿なんておかしいな。そう思いつつも、ピエトロはとりあえず謎の小皿をズボンのポケットにしまった。そうして動けないヤギを背負い、縄で身体に縛りつけると、彼は地上へ戻った。
サザランドの遊牧民は一年を通じて定住と移動をくり返して生活する。その途中、牧畜によって得た加工食品および羊毛を、立ち寄った村や街で売ったり物々交換したりするのだ。
とある村に立ち寄ったとき、ピエトロは鍛冶屋の主人にあの皿を見せた。
「なにかの台座か、燭台の蝋受けだろう」
以前から付き合いのある鍛冶職人のリコはそう言った。
「真鍮かな?」
「おいおい、ばかを言っちゃいけない。これはきっと金だよ」
それを聞いてピエトロはびっくりした。まさか草原の穴ぼこで見つけたがらくたが、黄金だったなんて。
リコが秤で調べると、たしかにその皿は大きさの割りにずっしり重い。オーリア正教会の刻印がされているということは、たぶんなんらかの祭具の一部にちがいない。それも、オーリアがまだ神聖王国だった時分よりももっと古い、古代文字が使われていた時代の。そんな大昔のものがほとんど腐蝕していないのだから、やはりこれは金である可能性が高いとみえた。
鍛冶師のリコは誠実な男だったが、商人ゆえ金目の話となれば利に聡い。彼はピエトロに詳しく事情を聞いて、金の祭具があった穴の奥を調べてみようじゃないかと持ちかけた。そこにはまだ、もっと値打ちのある品が眠っているかもしれない。
宝探しか。朴訥で堅実なピエトロは気乗りしなかった。が、リコの熱意に押し切られて探索を承知した。後日、ピエトロはマルコとともに、以前に訪れた草原へ戻ることになった。放牧の仕事は残りの家族に任せた。探索にはリコと、その息子もついてきた。
前に天幕を張った場所を憶えていたので、そこから遠くない例の竪穴はすぐに見つかった。意気込むリコは準備を万端にして臨んできた。縄ばしごで竪穴を降りると、四人は横穴に入った。各々が松明や角灯を手に、どこへつづくか知れぬ洞穴をしばらく進む。すると地面はしだいに傾斜して、下りの坂となった。
「この先は、どうなっていると思う?」
足元に気をつけながら先頭をゆくピエトロが、誰ともなく訊いた。
「地下神殿かもしれない」
とリコ。
「オーリア正教会の?」
「そうだ。聖アスカリの伝説は知っていよう」
「初代の神官王か。マグナスレーベン帝国で迫害された彼が南へ逃げ落ち、神聖王国オーリアを興したというが、どこまで本当やら」
「海を渡ったアスカリ様は、最初にサザランドの蛮族へ教えを説いたらしい」
「そいつはおそれいる。話の通じる連中じゃなかったろうに」
「試練だったんだよ。それからアスカリ様はラクスフェルドを中心にオーリア正教会の教えを広めつづけ、ユエニ神から不死を授かったと伝承にはある」
「そのくだりは、さすがに作り話だろうな」
ピエトロは鼻で笑った。
神より永遠の命を授かった不死者。大陸で広く信奉されているデルトイド三柱神――ユエニ、ミロワ、クーデル――の神話には、いずれも不死者の逸話が組み込まれていた。生前に偉業をなし遂げた者、とくに勇敢な戦士は、死する寸前に女神が遣わした天使に洗礼を受け、永遠の命を得るという。ピエトロはオーリア正教会の熱心な信者ではなかった。が、それをべつにしても、にわかには信じ難い話だ。
ピエトロがいちいち茶化すような態度をとるので、リコはややむっとなった。
「いやしかし、アスカリ様がサザランドへお越しになったのは事実だぞ。さまざまな文献があるし、ゆかりの場所が聖地として残っている」
「だから、ここもそのひとつだと?」
「かもしれない、というだけだ」
そのとき、リコの息子の呼び声が聞こえた。彼はピエトロとリコが話をしているうち、洞穴のずいぶん奥のほうまで先行していた。
立ち止まっているリコの息子の元へ、全員が集まった。そこから先は幅が広いものの、斜面がより急になって、ちょっとした崖である。下への見通しが利かず、まるで奈落の際にある深淵のようだ。
ピエトロは一抹の不安を感じつつ、松明を掲げて急斜面の果てを覗き込んだ。
「どうする、まだ進むか」
「あたりまえだ。なにも見つけないまま帰れるもんか」
リコは頑なに言い張った。
斜面はでこぼこして手がかりや足がかりが多く、ゆっくり降りればさほど危険はなさそうだった。念のため若いリコの息子が腰に縄を結びつけて、先に様子を見に降りた。残りの三人はぴんと張った縄を少しずつのばして、上から彼の安全を確保している。しばらくのあと、興奮気味な声が上の者らを呼んだ。
急斜面の下には驚くべきものがあった。あとから降りてきた三人が目にしたのは、かなり広い地下空洞である。しかし崩落により岩塊が大量に入り込んでいるため、元の広さがどのくらいなのかはわからない。内部はあきらかに人の手が加えられており、床が歩きやすいよう平らに削られている。天井を支える目的の石柱が幾本もそそり立ち、最も奥の一段高くなったところは神殿の内陣――聖職者の立ち入る区域――であると思われた。そこには壁龕があり、見あげるほど大きなユエニ神の像が収められている。
「ほら、言ったとおりだろう。やっぱり地下神殿だ!」
正面に見える女神像を指さして、リコが叫んだ。
これにはピエトロも言葉をなくした。まさか地面の下に、こんな立派な神殿があったとは。
四人は女神像のそばへと歩いた。そこへ至るまでの床には、かつて敷物が敷かれてあったようだが、いまは朽ちてばらばらの繊維となっていた。おそらく会衆席だったのだろう。両側には木でできた簡素な長椅子が並ぶ。それらも原型を留めているものは、ほとんどなかった。この様子からして、相当に古い神殿なのだ。
「中央がユエニ神で、左右に二位の天使。以前にオンウェル神殿で見た礼拝堂と、そっくりだ……」
オーリア正教会の寶座の傍らに立ったリコは、まるで目の前にあるユエニ神の像に魅入られたかの口ぶりだ。彼は敬虔な信徒ゆえ、オーリア正教会に多大な寄進をして、その総本山であるオンウェル神殿のなかに入ったこともあるのだ。
「でも天使はひとりしかいないよ」
言ったのはマルコだった。彼の言うとおり、この神殿の最奥の壁には三つの壁龕があり、ユエニ神と、向かって右側の天使の像はたしかに存在した。しかし左の壁の窪みは空だ。近くの壁には崩れた跡があったため、その衝撃で像が倒れて埋もれたのかもしれない。
四人はとりあえず、手分けして神殿内の探索をはじめた。ここへきた当初の目的がそれである。リコは、これは掠奪ではない、文化財の保存なのだと言ってほかの者を納得させた。
しばらくして――
「ここになにか埋まってる」
天使の像がない左側の壁龕あたりにいたマルコが、妙なものを見つけた。岩塊と礫が積もり、山となっている場所だった。そこになにかの角が、ひょっこりと顔を出している。人工的な直方体の角だ。不思議に思った四人が集まり、手作業で周辺の岩を取り除きはじめる。すると、出てきたのは大きな四角い石の函だった。蓋が一枚の石でできており、どうやら石棺である。側面には宗教画のような、神話の一場面を浮き彫りにした装飾がされている。
一同は言葉もなく顔を見合わせた。神殿に置かれていた棺を暴くとなれば、誰でもためらうのが当然だ。しかし興味本位が彼らを動かした。
分厚い石の蓋はあまりに重く、持ちあげるのは無理だった。四人で力を合わせて、ようやく少しだけ横にずらすことができた。
まず角灯を手にしたリコが、隙間から内を覗き込む。
「わっ!」
驚いた声をあげたリコは、思わず身を引いた。あとの三人がすぐに彼と入れ替わりなかを見た。
最初は、なにも入っていないのかと思った。しかし、よく見ると底のほうに真っ黒な人の顔がある。一二、三歳くらいの、幼さが残る少女のものだった。だがそれは人の遺骸や、木乃伊ではない。まったく痛んでなかったからだ。仰向けにされた彫像。石棺のなかには、どういうわけかそれが安置されていたのである。
リコはユエニ神に仕える天使の片方が、エリーチェという名で少女の姿をしているのを思い出した。
「天使の聖櫃――」
呟いたリコの両手は、凍えたようにぶるぶる震えていた。
「われわれは、とんでもないものを見つけたのかもしれないぞ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます