3-⑦
洸吉がベランダから飛び降りた事は近所に広く出回り、必然的に同じ街に住んでいる亜椛の耳にも入る。何度も家前を訪れていたが、全く音沙汰が無いことで諦めかけた矢先のことだった。蓮司の友人が死んだことを少し前に電話で聞かされた事もあり、脳内を巡るのは最悪な結末ばかり。
洸吉の誕生日を祝い、亜椛はプレゼントにと銀色のリングを送った。あの時のにやけ顔が幾度となくちらつき、飛び降りた事実をいまだに信じられてはいない。
[十一月下旬]
洸吉が住んでいるマンション前の道を、気重な顔の亜椛は通っていく。実際に飛び降りたのは真上に見える四階ベランダ部。
長細いタオルが数枚干されていて、見覚えがある柄物だってある。
再来月に控えた成人式のために美容院へと向かっているが、友人があまりいない彼女にとっては楽しみには思えなかった。「二人が来るのなら」と参加の条件をつけて打診をしてみたが、過保護な両親がそれを許してくれるはずも無い。整えてきなさいと言って二万円を渡されるも、こんな物で暗い表情が変わることもない。
洸吉の家を通り過ぎて数十分、亜椛は美容院へと到着した。席に案内され、散髪用ケープに袖を通している最中に携帯が鳴り始める。急いでそれらを身につけ、ポケットから携帯を取り出すと画面には「洸吉」と言う名が浮かぶ。
結われた髪を解く美容師に構うことなく、亜椛はすぐに耳元へ当てて声を放った。隣席にいた女性は急な行動に驚き、目の前の鏡を介して反射する彼女に視線を向ける。
「洸吉? 今更何があって掛けてきてんの」
向こう側からはぶつぶつと、活気が抜けた洸吉の声が続く。
「------分かった、そうさせてもらう。すぐにでも……」
一分程度の電話が終わり、前の机に打ちつけるように亜椛は携帯を置いた。事の運びのぎこちなさに焦燥感ばかりが募り、髪を切っている間も気が休む事はない。
次の日に亜椛は洸吉の家を訪れ、電話で話した通りに静かに出迎えられた。予想を遥かに超える怠慢な容姿と薄暗いリビング。厚手のアウターを脱いで静かにソファへと置き、真剣な表情で彼を見つめる。実際こうして顔を合わせるのは数週間ぶり。たった数十日。
洸吉はカーテンを全開にし、空間に明かりを差し込んだ矢先、「いつから死にたくなってたの?」と唐突に亜椛が話を切り出した。窓の奥に見えるのは実際に飛んだベランダ、洸吉には母親に頬を平手打ちされた記憶が根強く残っている。
窓外を眺めながら「俺は死ぬために飛び降りてない、信じてくれ」と洸吉は返すが、こんな馬鹿げた言葉をいくつも繋いで言ったところで、意味が無い事くらい分かっている。
だが、嘘くさくもあるが真実には変わりなかった。
「絶対に生きる可能性はどのくらいだった? 打ちどころが悪ければ死にはしなくとも体は壊れていたって聞いたよ」
何度も家の前に訪れていた際、偶然帰宅した父親から亜椛は全てを聞いた。
「本当に着地をしようとするくらい、俺は生きる気で飛んだんだ」と力強く語る頬にできた深い傷、血が滲みはしないものの傷口は赤黒く変色している。そんなものを見つめながら話す亜椛も引き下がる事はせず、明確な答えを求め続けようとする。
両者には絶対に話せない事。そして、絶対に答えさせたい事が混じり合っている。
「いつからか連絡が途絶えて、外が騒がしかったあの日、何となく寒気がしてた。ちょうどあの時、蓮司と電話をしていたの。こっちに帰ってくるっていう電話」
「俺は変わっていない、バイトを辞めたのも本郷さんと仲が悪くなったからで……」
洸吉がいくら補足をしようと、亜椛の疑いが揺らぐ事はない。現に死んでいった若者の多くは最後まで涙を溜め込み、膨れ上がり放たれていった。誰かに頼ろうとも、信じられる環境は皆平等には与えられていない。それが親だろうと、友人だろうと。
政府が出した〝標〟にはこれらの事実と正反対の事が長々と書かれていた。それらを読んであたかも理解したような面をして接してくる大人も、今や生きていく上での障害物。
最後に頼ってしまうのは、やはり若者の代弁者でもある〝詩〟の存在。
だがそれは、亜椛がこの世で一番嫌う言葉たち。彼女が何一つ共感できないのは、愛されて育った環境が大きな理由となっていた。それらに頼る若者の多くは、幼少期の家庭環境が粗悪だったと言う研究結果も政府から出されている。
実際に〝詩〟を作っていた三人の若者、そして「幸太郎」も似た境遇を経てきていたのでは無いかと、推測がされていた。
ソファから背中を離し、縮こまって座る洸吉を見つめる。
「もしあの……〝詩〟とか言う気持ち悪いもんを見ているのなら、私はもう洸吉とは仲良くできないし、もう全て諦めるよ。あんなものに影響された人はきっとダメになる」
そんな事を口にしながらも、数分前の記憶が執拗にチラついてくる。実はリビングへと向かう際、トイレを借りるフリをして洸吉の部屋を静かに覗いていた。
床に殴り書きされていた数行の言葉、意味は分からなくとも彼女の中では〝詩〟として認識されている。彼は苦い表情をしながらも首を横にふり、否定を繰り返す。
「じゃあ、どうして髪は切らないの? どうして身だしなみくらいきちんとしないの? どうして家に引きこもってるの? その答えに全て説明をつけられるの? 何もかもを諦めた、〝死んでいった人ら〟と同じ事なんじゃないの?」と息継ぎを挟まず追い詰める亜椛は次第に声量が大きくなり、洸吉は答えを失った。
「何か意味のある言葉を返しなよ。いつもうるさかったんだから。人が変わるくらいあの〝詩〟に影響されるんだってね。蓮司の友人もそうだったんでしょ?」と吐き捨て、口を閉ざす洸吉の肩を小突く。
「……本当に俺は何も変わっていない。どうしてもやらなきゃいけない事ができて、今はその準備をしている時だから」
話題の核の部分は綺麗に避けて話す洸吉に、嫌気が刺した亜椛はソファから立ち上がって奥の部屋へと向かった。
後を追おうとはしない一人残された彼は、斜め向かいに置いてある母親の遺影を見つめる。廊下へ漏れ出てくる物音、だいたい亜椛が何かを持ち上げて、何かを整理しているのが理解できた。床に書いた言葉を読んでいるのかも知れない、手紙を見つけたかも知れない。リビングで一人待つ洸吉はただ、彼女が怒りを吐き出し落ち着きを得て戻ってくるのを待つだけ。
伸びきった髪先は俯くと真下へ垂れ下がり、視界を覆う。まるで闇色が周りを囲んでいくように、音のみが聞こえる世界に行ったかのように。
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