第17話・偽装感情と呪われた夢
しん、と静まり返る。力の嵐はとうに過ぎ去って、残された瓦礫の地平には、穏やかなそよ風が平和そうに流れていった。
自分の視線の向かう先。激突の中心だった場所には、二人がいる。
身体を貫かれ、胸を真っ赤な血で染めるセラ。力を失い、倒れそうになった彼女を、寸前でアルネラさんがそっと支えた。
「………」
柔らかく生い茂る緑のうえに、ゆっくりと彼女を置く。眠るように、ずっと瞼を下ろした姿は、とても穏やかそうに見えた。
そのとき。
「おやおや。彼女はやられてしまいましたか」
ようやく訪れた平穏を、思い切り打ち壊すような声が響いた。
「…イヴリース」
振り向いた先には、案の定、彼の姿があった。その視線が、今も倒れたままのセラに一瞬向けられる。
「それにしても、非常に驚きましたよ。全力の姫君と、これほどまでに正面から渡り合うとは。正直、予想外でしたとも」
薄い笑みを張り付けたその男の声は、ひどく不愉快に鼓膜を逆撫でる。
「…あなた、ですか。セラを洗脳して、僕たちを襲うように仕向けたのは…っ!」
敵意を剥き出して言う自分に、彼は思わずといったふうに笑った。
「洗脳?そんなこと、私は一切していない。私が彼女にくれてやったのは、少しの言葉と望みを叶える力だけ。何かを強制したことは、一つもない。つまり彼女には、いつでもああなる可能性が存在していたというだけの話だ。君は、気付かなかっただろうがな」
言葉を失い、息を呑んだ。だとすれば、それは――
「ユーリ」
そのとき、隣に立つ彼女が、自分の名を呼んだ。悪い思考に陥りそうになったのを、その声が寸前で呼び止めた。
「…それで。またお前は私の呪いを奪いに来たの?セラを差し向けて、私の呪いを削ごうとするのがお前の策なのだとすれば、随分と稚拙な考えね」
そう言って、彼女は刀の柄を強く握りしめる。目に見えないとしても、その気配に殺意が増幅するのが感じられた。しかし、そんな彼女を相手にしてなお、彼は余裕の表情を崩さない。
「いえいえ。今回の私は、戦うためにここにいるのではありません。ただ一つ、真実を告げに参りましてございます」
慇懃そうに話す彼から目を離し、唐突に彼女はこちらに視線を向けた。すぐに自分はその意味を理解して、ゆっくりと頷く。
「疑問には思いませんかな?なにしろ、彼は――」
一閃。吹き抜ける風すら追い越す一撃が、その言葉ごと、彼の首を切断した。
ぼとり、と頭が地面に転がる。
あまりにも呆気ないそれが、彼女を追い続けた男の最期だった。
『おや、会話を無視した即座の攻撃とは。けれども残念。本当の舞台は、ここからです!』
地べたに落ちた生首が、突然べらべらと話し出す。かと思えば、すぐさま彼の身体が膨れ上がり、赤黒い煙を撒き散らしながら盛大に破裂した。
「ユーリ!待っ―――」
叫ぶ彼女。伸ばされる腕。それに応えようと、自分も必死に手を伸ばすけれど、その努力も虚しく、自分たちは濃厚な煙に飲み込まれる。
「……ッアルネラさん!」
その呼び声に、返答はない。何もかも、音も光さえも、この煙は吸収してしまうようで、隣に居たはずの彼女は、どこにもいなくなってしまった。
そのとき、どこからかイヴリースの声が響いた。
『なあ、ユーリ。お前は、あの少女が、どうしてあんなふうになったのか、本当は分かっていないだろう?』
黙れ、と直感する。
そんなこと、どうでもいい。この男が何もしなければ、セラは普通でいられたのだ。
『確かにその通り。さっきはああ言ったが、まあ俺が彼女を惑わしたのは間違っていない。だがな、何もそれだけが原因じゃあない。その理由を、お前は決して理解できないだろう。俺は理解できるがな』
笑って彼は、そう言った。
『なあ、ユーリ。どうしてお前が、彼女の呪いの影響を受けずにいられるのか。俺が当ててやろうか?』
* * *
『考えたことはあるでしょう?どうして彼が、あなたの呪いの影響を受けないのか』
それは、とアルネラは思った。一度だけ考えて、しかしそれ以上は考えないようにしていたことだ。何か、恐ろしい結論を出してしまいそうで。
『姫君。あなたの呪いは、神罰に近いものだ。その呪いは、見る者全ての心を融かす麻薬。抗う唯一の方法は、愛と真逆の感情である憎悪だけ。けれど、どうやら彼は、あなたを憎んでいるようでもなかった。なら、答えは一つだけでしょう』
悪寒がする。怖気が走る。それだけは、絶対に知ってはいけないことだと直感が反射的に耳をふさぐ。
けれど、その声は脳裏に直接響いてきて、
『彼には、愛も憎しみも、存在しないのですよ』
* * *
粘りつくような声が、今も止まない。
『なあ、ユーリ。お前にとって、愛するとはどういうことだ?』
使い古されたような問いかけ。己は、特段迷うこともなく、あっさりと口にする。
「そんなの、相手の利益を最大限に増幅させること、でしょう」
長く疑問に思っていたことだ。どうして誰もが、その程度に悩んでいるのだろう、と。
そのとき。
『ハ、はははははは!やはりだ!なら、お前を愛していたはずの彼女は、どうしてお前を殺そうとしたのだ!これではまるで、出来の悪い笑い話じゃあないか!』
耳障りな哄笑が響き渡る。何が、そこまで愉快なのだろうか、自分には理解できない。
『だからだよ、ユーリ。だからお前は、彼女の狂気を理解できない。だから俺が教えてやろう。愛とは、全てを独占することだ。その人の一番であり続けることだ。愛する者の全てを、支配することだ』
そんな、一方的なものが愛と呼べるはずがない。
けれど、もしそれが、正しいとすれば。
『ゆえに、彼女が壊れてしまうのは当然だった。なにしろ、ずっと愛していた男が、知らぬ間に別の誰かのものになってしまったのだから。それまで自分が抱いていた感情を、全部台無しにする裏切りだ。お前が姫君を選ぶっていうのは、そういうことなんだよ』
そうだ。そうでなければ、説明が、できないのだから。
『普通の人間なら気付くだろうな。でもお前は違う。お前は、人の愛を、人の感情を、理解することができない。だってお前には、人にあるべきものが、致命的に欠けているのだから』
そこで、自分はようやく理解した。
どうやら自分は、また間違えてしまったらしい、と。
『誰もが皆、己に呪いを抱えている。その中でもお前は、数え切れないほどの呪いを抱えているが、最初の一つはそれだったのだろうな』
彼は、それを言った。
『感情を持てない呪い。大罪を克服するための祝福。呼ぶとすれば、それは、無情の呪いといったところか』
* * *
『姫君よ。少しでも、奇跡を期待しましたかな?あなたの呪いを受けない者がいると。けれども、現実なんてこんなもの、種を明かせばこの通り。彼には、そもそも感情が存在しないのですから』
それを聞いた瞬間、言葉が出なかった。だって、それじゃあ。もしも私の呪いを解いたとしても、彼は――。
『その通り。彼は、あなたを愛さない。――あぁ、なんてひどい話だ。彼の愛を手に入れるために、あなたは無垢なる一人の少女さえ、その手に掛けたというのに。彼にはそもそも、愛なんていうものが存在していなかった』
あのときの光景が、脳裏にフラッシュバックする。
憎悪に満ちた顔。泣き叫ぶ声。あの子の心臓を、この手で貫いた感覚。それは、全て、
――無意味だ。そう、嘲笑う誰かがいた。
『姫君よ、どうかお聞かせください。誰かを犠牲にしてでも、あなたが手に入れたかった愛とは、こんなものなのですか?その程度のために、あなたは、何百年も生き続けてきたのですか?』
崩れそうになる心を、震える感情で立て直す。そんなこと、今に始まったわけじゃない。私は既に、多くのものを破滅させてきたのだから。その程度で、私が、彼への愛を、諦めることなんて、絶対に、
『それが、決して報われないものだとしても?』
…それ、は。
『彼はあなたを愛さない。あなたが手に入れようとしている者の心は、伽藍洞の借り物入れだ。他人の感情を真似ているだけの、ちっぽけな偽物だ。それでもあなたは、彼のために戦うというのですか?』
…それでも、私は。
「後になんて、退けないのだから……」
そう口にした瞬間、突如として煙が晴れた。
場所は変わらない。自分は必死に視界を振り回して、彼の姿を探す。
「ユーリ!」
視線が、遠くに佇む少年の姿を捉えた。声を上げて走り出すと、彼もまたこちらに振り向いて笑った。
良かった。そう思いながら、彼の身体を抱きしめる。
そのとき。
「アルネラさん!」
彼の声がした。目の前からではない。別の、遠い方向から。
「それは、偽物だ!」
その言葉を理解するより先に、目の前から声がした。それは、あの男のもので。
『人を惑わす九尾の化け物が、人の言葉に惑わされてどうする?』
ぐじゅり、と己の心臓が、深く鋭利に刺し貫かれる。
「………か、は」
溢れだす血液。失われていく、決定的な何か。それは、きっと、今の自分を突き動かしているものに違いなくて、
「………ユー、リ」
その名を最後に、視界が、黒く、落ちて……い………く……………
* * *
「アルネラさん!」
必死な、けれども何の意味もない叫び。自分はただ、彼女が無抵抗に刺し貫かれるのを見ているだけしかできなかった。
どさり、と力を失い地面に倒れ落ちる彼女。広がる赤い血だまり。それを行った張本人は、その光景を前にして、歓喜に打ち震える。
「やった……ついに、ついにやったぞ……!これで、彼女の呪いは私のものだ!」
確信の勝利宣言。イヴリースは、その喜びを爆発させるように、辺り一帯に笑い声を響かせる。
「イヴリース、お前……!」
たまらず、自分は奴に向かって走り出した。しかし、
「……がッ!?」
突如として、左右から現れた二人の人影が、走る自分を取り押さえる。顔を地面に叩きつけられ、両手を固く締められた。
「離せッ!この…!もしも彼女に手を出したら……!」
そう口にした瞬間、イヴリースはくるりとこちらを振り向く。
「出したら、どうするというのだ?私と、戦うか?」
その一言が、何よりも強大な壁となって、己のその先を阻んだ。その様を、イヴリースは冷たく睥睨する。
「戦うにも理由が必要だ。愛する者を守るため、憎む敵を倒すため。お前には、そのどちらもない。信念無き力など、相手にする価値もない」
吐き捨てるように、彼は断言した。それ以上、視線を合わせることもない。
「お前が彼女に抱く感情は、全て借り物の贋作だ。愛情も、尊敬も、惻隠も、信頼も。全ては他人の真似事。そこに本物は一つもない。お前が今彼女を助けようとしたことも、他人ならそうするだろうと推測しただけのことだろう。本当のお前は、とっくに彼女を諦めているのではないか?」
「それ、は……!」
ぴたりと、思考が凍り付いた。
感情を持つ人ならば、その言葉にどうやって返すだろうか。
「ぁ……」
違う。駄目だ。そんなふうに考えているわけじゃない。本当に自分は、彼女を想って、彼女を愛して、そのために、呪いを解こうと、そう決めた、はずで……
「お前はただ、彼女を利用しようとしていただけだ。その呪いさえあれば、愛というものをお前は知ることができると考えたから。ゆえに、彼女を騙し、己を偽り、感情を偽装し、いつまでもその隣にいようとした」
彼は言う。
「彼女の呪いを求める俺と、彼女の呪いを利用するお前。なあ、ユーリ。それは、いったい何が違う?」
「……そ、それ……ち、ちが………」
いや、違わない。怯えるように、身体を震わせる今の自分を、外から冷静に観察するもうひとりの自分がいた。
彼の言葉の一つ一つが、自分を浅ましいものへと変えていく。いや、最初からそうだったのだろう。
無意識に自分へ言い聞かせていた嘘を、彼は、その言葉でばりばりと剥がしていったのだ。
後に残ったのは、他の誰よりも醜い、欲望塗れの自分だけ。
「哀れなお前に、相応しい終わりをくれてやる。――そら、立てよ。起きているだろう?」
膝まづく自分に、誰かが影を落とした。それは、
「ゆ、ユー…ゥ、リ、リリ……!」
赤く染まった全身。傷だらけの肢体。血の泡を吹きながら、それでも不規則に前進を続けるその姿は、変わり果てたセラのものだった。
「ぁ……ぁあ……!」
変わり果てた?違う。もしそうだとすれば、それは、自分がそうしてしまったこと。その姿に、無垢なる少女の面影はない。違う!奪ったのは、自分なのだ!あの夜彼女を救ったことでさえ、自分は…!彼女を感情のサンプルにしていただけなのに!
「…………は」
なんて。
全て、茶番だ。
「――――」
男が、去っていく。大事だった誰かを、その腕に抱いて。
「…ユ、ゥ…リ……」
ゆっくり、少しずつ、巻き上げられる断頭台の刃のように、少女だったものは歩み寄る。
いずれ迎える、終幕の前。
ふと、自分は、無感情に思考していた。
自分は、いったい。
何のために、生きようと、していたんだっけ。
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