番外編~パティシエールと王子様~③


 広い大広間で、和やかな雰囲気に包まれて、感慨に耽ってしまっていた私の意識にすーっと愛梨さんの言葉が割り込んでくる。


【本当に良かったわぁ。ついこの前、帰ってきたときには一体どうなっちゃうのかと心配だったけれど。菜々子ちゃんのお陰で、和気藹々って感じね。これならもう安心して成仏できるわぁ】


 そこで、すっかり忘れてしまってた愛梨さんの存在を思い出したのだった。


 存在といっても、幽霊なのだけれど。


 それでも、確かにここに今、愛梨さんは存在している訳で、けれども私にしか分からないようなので、ここで驚きの声を出すわけにはいかない。


 なんとか声を出さずに済んだ私は、愛梨さんの言葉に、またまたこの前のことが蘇ってくる。


 ついこの前、創さんのことを追いかけて空港に向かう車の中で、私にさよならを告げると同時に幻のように姿を現してすぐに呆気なく消え去ってしまった愛梨さんのことだ。


 今度こそ、本当に成仏してしまうのかと焦ってしまった私は、声を出しかけるのをすんでのところで抑えて。


(愛梨さん、まさか、成仏しちゃうんじゃないですよね? まだ、孫の顔も見てないのに、そんなのダメですからね。まだここにいてくれないと寂しいんですからッ!)


 心の中でそう念じるのだった。


 すると、愛梨さんから、間髪入れずに意識にすーっと言葉が入ってきて。


【あら、菜々子ちゃんたら、嬉しいこと言ってくれるのねぇ。ふふっ、大丈夫よ、心配しないで。もうなんか、口癖になっちゃってるだけだから】


 イチイチ真に受けてしまう、こっちの気も知らないで、あっけらかんとした言葉が返ってきたものだから、私は少々ムスッとしてしまうのだった。


(……だったらいいですけど。できたらその口癖はやめてください。そうでないと、聞くたびに、この前のことが浮かんできて、泣きそうになっちゃいますから)


 そのため、今桜小路家の大広間でいることをすっかり失念してしまっていたらしい私は、慣れもあって、声には出さなかったものの、顔には感情がダダ漏れになってしまっていたらしく。


 私の手をしっかりと大きな掌に包み込んでくれている隣の創さんに手をそうっと引き寄せられ、耳元で。


「……どうした? 菜々子。もしかして、慣れない飛行機のせいで疲れてるんじゃないのか? なら、部屋に休みに行った方がいいんじゃないのか?」


 とびきり優しい声音で囁きかけてくれる創さん。

 

 その声で、慌てた私が何かを返そうと声を放つよりも先に。


「それはいけないなぁ。どうせうちの可愛げのない息子が可愛い菜々子ちゃんに毎日のように無理ばかりさせてるからだろうし。大事をとって部屋でゆっくり休んでくるといいよ。創、くれぐれも菜々子ちゃんのことをゆっくり休ませてあげるんだぞ。それも夫としての大事な勤めだからな」


 ご当主の大きな声が響き渡った。それにより、私は真っ赤にさせられる羽目になってしまっていて。


 それをいち早く察してくれたらしい、創さんの不機嫌な声がご当主へと返されたのだけれど。


「……イチイチ言われなくたって、ちゃんと分かってるから、黙っててくれよ。親父のせいで菜々子が真っ赤になってるだろう」


 創さんの言葉で皆の視線が集中することとなってしまったお陰で、ここにいらっしゃる桜小路家の面々から……。


「おやおや、微笑ましいねぇ」

「あら、本当ねぇ」

「あらまぁ、本当、真っ赤だわ。可愛らしい」

「やっぱりそうだよねぇ。初見でも思ったけど、菜々子姉さんってほんとに初心だよねぇ」


 このように、様々なお言葉を戴くことになってしまい。


 所在なく肩を竦ませて縮こまることしかできないでいる私の、顔どころか、全身がますます真っ赤になっていく。


 そこへ、いつもの如く、空気の読めない愛梨さんから実に暢気な声音が届くのだった。


【菜々子ちゃんのお陰で皆、息までピッタリだわぁ】


 ーーもう、愛梨さんってば、人のことだと思って暢気なことを。


 愛梨さんのお陰で、少し羞恥も薄れて、真っ赤になった全身から徐々に熱が引いていく心地がしてホッとしていたのだが……。


 そこに、この場の和やかな雰囲気を一蹴するかのように、隣の創さんから向かいに座る創太さんへ向けて冷ややかな低音ボイスが放たれた。


「おい、創太。お前はひと言余計だ」


 その声を聞いて思い出されるのは、ここ桜小路家に初めてご挨拶に訪れたときの廊下での一件のことで。


 隣の創さんの顔を窺い見れば、今日も頗る絶好調の眩いくらいのイケメンフェイスを苦々しく歪ませている。


 こういう場だからとなんとか怒りを抑えようとしてはいるのだろうが、あの時のことを今も根に持っているのか、眉間には、深い皺をいくつも刻んじゃってるし。


 折角、諸々の誤解も解けていい感じだったのに、私のせいで台無しだ。


 ーーど、どうしよう。


 羞恥から解放されつつあったのに、今度は打って変わって、異母兄弟の諍いの種に自分がなってしまったことに、絶賛オロオロ状態でふたりのことを見比べるようにして視線をキョロキョロさせることしかできないでいる。


 とそこに、お決まりのように、愛梨さんの心底愉しそうな明るい声音が意識に飛び込んできて。


【あらあら、創ったら創太くんにまで焼き餅焼くなんて。やっぱり血は争えないものねぇ。若い頃の創一郎さんにそっくりだわぁ】


 その内容に、力が抜けてガックリと項垂れそうになった私がなんとか項垂れずに体勢を保ちつつも。


 ーーもう、こんな時にまでノロケ話ですか? ホントに暢気なんだからぁ。


 胸の内でひっそりこっそりと悪態をついていると、今度は終始にこやかな表情でふたりの息子を見守っていたご当主より、愛梨さんに負けず劣らずの、実にあっけらかんとした明るい声音がだだっ広い大広間に響き渡った。


「おいおい、創。みっともないからやめないか。いくら菜々子ちゃんが初心で可愛いからって、あんまり嫉妬してると嫌われるぞ? これからはもっと夫としてドシッと構えるくらいでないと。ねぇ? 菜々子ちゃん」

 

 そうしてようやくこの場が収まると私がホッとしかけたのも束の間。


 唐突に名前を呼ばれて、「……へ?」頭が追いつかない私が頓狂な声を放つと同時に、再び愛梨さんの明るい声音が意識に割り込んできて。


【ふふっ、創一郎さんったら、私と道隆さんがちょっと世間話してただけでプリプリ怒ってたのに。昔のことはすっかり棚に上げちゃって。ホント親子してそっくりなんだからぁ。でもそういうところが可愛いのよねぇ。ねぇ? 菜々子ちゃん】


 さすがは元夫婦。


 僅かな時間差こそあれど、実に息ぴったりなふたりの問いかけに、どっちに答えればいいかの咄嗟な判断ができずに口を噤んだままで。


ーーええ? ちょっとどうしろっていうの?


 胸の内で頭を抱えてしまっていた。


 普通に考えれば、生きているご当主の方にだけなんらかの反応を返せばいいのだが、あまりにも唐突だったために、冷静な判断などできなかったのだからしようがない。


 胸中で頭を抱えて絶賛オロオロ状態だった私に見かねたのか、創さんが実に忌々しげに「そういう親父こそ」そう言ってきたかと思っている間にも。


 ご当主に向けて苦言を呈している創さんの姿を横目に捉えた私が、なんとかこの場を凌げるかと様子を窺っていると。


「いくら可愛げのない息子しかいないからって。ことあるごとにこうやって菜々子に構うのはやめて欲しいもんだな。そうでないと、菜々子がどう反応したらいいか困ってるじゃないかよ。ったく、年甲斐もなくみっともないのはどっちだよ」


 親子とはいえ、ご当主に対して喧嘩腰にしか聞こえない物言いの創さんに、今度は違った意味でハラハラしてきて、心がざわついて落ち着かない。


心なしか、さっきまで和やかムード一色だったはずの大広間の雰囲気が、どんよりと重苦しいモノになってしまったような気がしてくる。


 長年のわだかまりがようやく解けたというのに、これじゃ元の木阿弥になりかねない。


 ーーどうにかしなければ。


 そうは思いつつも、焦った頭でいくら考えてみたって、一体どうすればいいのやら、まったくもって思い浮かばない。


 私はますます焦るばかりだった。


 そこへ、またまた明るい愛梨さんの暢気な声音が意識に割り込んできて。


【ふふっ。菜々子ちゃん。そんなに心配しなくても大丈夫よ】


 そうは言われても、創さんは相変わらずイケメンフェイスを忌々しげに歪ませているものだから安心などできるわけもなく。


(いやいや、愛梨さん。全然、大丈夫そうに見えないんですけど)


 愛梨さんに向けて頭の中でそう念じてみたところ。


【あら、そんなことないわぁ。今までと違って、創も創一郎さんもとっても楽しそうなんですもの。ほら、ね?】


 またまた愛梨さんから『何を根拠にそんな無責任なことを』と思っちゃうくらい脳天気な声が返ってきて、半信半疑の私が創さんとご当主の双方に視線をやったと同時に、今度はご当主よりあっけらかんとした明るい声音が放たれた。


「ハハッ。そんなこと言われても、こればっかりはしょうがないじゃないかぁ。どんなに可愛げのない息子であろうと、親にとったらいつまでたっても、目に入れても痛くも痒くもないくらいに可愛い子供には違いないんだからなぁ。まぁ、創も、そのうち親になったら分かるようになるさ。それまでは、いつでもこうして顔を見せに帰ってきてほしい。そのためにも息子にとって大事なお嫁さんとも仲良くしないといけないんだし、これくらいは大目に見てくれないと困るなぁ。それでなくともしばらくは会えないんだし……」


 けれども、その声がだんだんと寂しげなものへとなっていき、最後には穏やかな口調でしみじみとした声音を放ったご当主が寂しそうに眇めた目尻に涙を滲ませている。

 

 それを目の当たりにしてしまった私まで目頭が熱くなってきてしまい、思わず涙ぐんでしまってて。


 急にしんみりとしてしまったこの場の雰囲気を払拭するかのようにして、今度は創さんから安定の不機嫌ボイスが放たれた。


「なんだよ、急に。親父が変なこと言うから周りまでしんみりしてるだろ。こういうときこそ当主らしくしてくれよな。まったく、これだから年寄りは。やっぱもう道隆さんにあとのことを任せて隠居した方がいいんじゃないか?」


 けれども、いつもと違って、言葉の端々に優しさが滲み出ているというか、言葉とは裏腹に。


 親父にはいつまでも元気でいてもらわないと困るーーそういう想いが込められているように聞こえた。


 実際には、創さん自身でないから本当のところはどう思っているかなんて確かめようがないのだけれど、私には確かにそう聞こえたのだ。


 そのことを裏付けるようにして。


「ようやく身を落ち着ける気になったと思ったら、今度は親を年寄り扱いするとは、本当に我が息子ながらに呆れ果ててものも言えないなぁ。愚息を持つと苦労するよ。こんな息子に次期当主なんてまだまだ譲れないから、長生きしないとなぁ」


 冗談めかしてそういったご当主は私と創さんを優しい眼差しで見やってから、同じように涙ぐんでいる奥様の菖蒲さんととっても幸せそうに微笑みあっている。


 そうして周囲を見渡せば、道隆さんも貴子さんも同様にご当主らに貰い泣きしつつも微笑みあっていて、創太さんに至っては頭をポリポリと掻きつつもなんだか嬉しそう。


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