愛するということ〜創視点〜

第48話 愛するということ~創視点~

 ――当初の予定だと、今頃は菜々子と一緒にゆっくり過ごせるはずだったのになぁ……。


 窓の外に広がる、昼の盛りを過ぎようやく傾きかけた陽光をバックに、そんなことを思いつつ、さほど重要でも急ぎでもない書類に目を通しては、機械仕掛けのオモチャの如く判をついていた。


 菜々子の父親であり俺の伯父でもある道隆に呼び出されたとは菜々子には言えず、急遽出勤扱いにしたからだ。


 あと一月もすれば、菜々子と結婚して正式な夫婦になれるというのに、あの男のせいで、さっきからモヤモヤしてしようがない。


 その上、貴重な休日までが無駄になった。


 挙式当日までのこの一ヶ月のために、休日だって返上してきた。


 連日の残業だって厭わず、山積みだった仕事も精力的に熟してきたからこそ、この仕事量で抑えられている。


 それだって、菜々子と一緒にゆっくり過ごしたかったからだ。


 式の準備にだけ集中できると思っていたのに、あの男このせいで台無しだ。


 ――否、全部自業自得だ。そんなことくらい分かっている。


 分かってはいるが、誰かのせいにせずにはいられなかった。


 もしもあの男が菜々子と会って、咲姫の身代わりにしようとしたことが菜々子の耳に入れば、せっかく俺のことを受け入れてくれたのに、心変わりされてしまう。


 何よりそれが怖くて堪らなかった。


 菜々子のことを人質にした時点で軽蔑されてもおかしくない。


 それでも俺のことを受け入れてくれた菜々子。


 シングルマザーの先輩のことや自分の置かれている不利な状況下で、冷静な判断だってできなかっただろうし。


 そんな状況に置かれて、俺とふたりきりにさせられたら、そりゃ好きだと錯覚したって、おかしくはないだろう。


 それが分かっているからこそ、怖くて怖くてどうしようもなかった。


 だから、あの男を菜々子に会わせるわけにはいかなかったのだ。


 自分で仕向けておいてなんだが、菜々子にこれ以上辛い想いをさせたくない、という気持ちだってもちろんある。


 けれどそんな俺の望みも虚しく、菜々子本人の口から、一番聞きたくない言葉を聞かされてしまうことになろうとは……。


 この時の俺は、夢にも思わなかった。


***


「菱沼、今日はここまででいい。荷物も俺が持つ」

「……いいえ、そういうわけには」


「察しろ」

「――ッ!? ……あぁ、はい。そうでございますねぇ。わたくしとしたことが失礼いたしました。上手くいったようで良かったですねぇ」


「……上手く……いったん、だよな」

「創様?」


「もういいからさっさと自分の部屋に入れ」

「はっ、はい。それではこれにて失礼いたします。どうぞごゆっくりお休みになってくださいねぇ」


 ようやく定時を迎え、いつものようにマンションに帰り着いた俺は、これまで同様にリビングまで手荷物を運び込もうとする菱沼をやんわりと制し、部屋の前で菱沼と別れた。


 俺のあからさまな言葉が意外だったのか、いつも冷静沈着なあの菱沼が、一瞬面食らっていたようだ。


 ……が、昨日から菜々子に対する俺の変わりようを思い出したのか、不意に漏らしてしまった俺の呟きを気にしてもいたが、すぐににんまりとした含み笑いを浮かべていたようだった。


 といっても、子供の頃からの付き合いであるため、どうにも気恥ずかしさが邪魔をする。


 おかげで、菱沼の方をまともに窺うような余裕などなかったけれど。


 おそらく菱沼は気づいているはずだ。


 俺にとって菜々子がどんなに大事な存在かってことを。


 だからこそ、これまで同様に、何も言わず見守ってくれようとしてくれているんだろう。


 いつになく嬉しそうに語尾を伸ばした菱沼に、居心地悪さを覚えつつも、それよりなにより、一刻も早く菜々子に会いたくて仕方なかった。


 既に菱沼がインターフォンで菜々子に帰宅を知らせてくれている。


 扉の向こうに菜々子がいるのだと思うと、それだけで憂鬱だった気持ちが浮上する。


 逸る気持ちを抑えつつドアを開けると、予想していたとおり、黒いコックコートに身を包んだ菜々子が出迎えてくれる。


「お帰りなさい」

 

 いつものにこやかな笑顔を湛えて。


 今日はあの男のお陰で仕事の時以上の疲労感に苛まれていた。


 それが嘘だったかのように、瞬時に憂いもろとも霧散していく。


「――えっ!? ちょっ、あのっ、創さんッ?!」


 えらく焦った様子でそう訴えかけてきた菜々子の、その声で初めて、自分が菜々子のことを正面から抱き竦めていることに気づくこととなった。


 帰宅早々、挨拶もせずに、俺がそんな行動に出るとは思いもしなかっただろう。


 菜々子のそんな声でさえも愛おしい。


 小柄な菜々子の身体は頼りないくらいに華奢で、身長一八五センチの俺の腕に簡単におさまってしまう。


 このままずっとこうして閉じ込めておければいいのに。


 そうしたらずっとずっと俺だけのものにしておけるのに。


 そんな身勝手な思考ばかりが頭の中を占拠していく。


 それと同時に、菜々子の笑顔ひとつで、ついさっき憂いもろとも霧散したはずが、どこからともなくまた浮上してきた不安に浸食されそうになる。


 自然と、小さな菜々子の身体を抱き竦めている腕にも、無意識に力が籠もってしまったようだ。


 いよいよ苦しくなってきたのか、菜々子が腕の中で必死に藻掻くようにして俺の胸を押し返してきた。


「……うっ、ぐっ、苦しい……ですッ! 」

 

 その声にハッとした俺が慌てて力を加減しようとしたその瞬間。


 背中を反らせた体勢の菜々子が足元に俺が落としたままのビジネスバッグや手土産の入っていたショッピングバッグに足を取られてしまったらしい。


 その拍子に、菜々子の身体がガクンと傾いた。


 ――危ないッ!?


 そう頭が判断した時には、既に条件反射的に身体は動いていた。


「――キャッ!? わぁっ!?」

「菜々子ッ!? おわっ!?」 


 幸い転倒させることなく、菜々子の身体を抱き込むことができた。


 けれど、慌てたせいで、尻餅をついて抱き留めるという、なんとも格好の悪い有様だ。


 挙げ句に、せっかく、菜々子と一緒に食べようと思って買ってきた、ケーキボックスの上に着地してしまっている。


 中身は、旬のフルーツで色鮮やかに彩られたタルトだ。


 ちょうど向き合うような格好で、膝の上にちょこんと乗っかっている菜々子とは、正面から顔をつきあわせている体勢となった。


 お陰で、菜々子が無事なことは一目瞭然で、心底安堵できたのだけれど。


「ハァー……よかった」


 きっと今の俺の表情はこの世の終わりみたいな顔をしているに違いない。


 ――もう散々だ。今日は厄日か何かか?


 そう落胆する一方で。


 ーー菜々子にこんな情けない姿をこれ以上見られたくない。


 そんな想いに駆られていた。


 俺は、突然の出来事にまだ放心している菜々子の視線から一刻も早く逃れようと、顔をプイッと明後日の方向に固定したまま。


「……今日一日、菜々子と一緒に居られなくて、寂しくてしょうがなかったものだから、嬉しくてつい。はしゃいだりして悪かった。せっかくのタルトも台無しだな。ハハッ」


 ボソボソと言い訳じみたことを呟いていた。


 だがあまりに情けなくて、乾いた笑いまでが込み上げてくる。


 この場から早く逃げ出したくて、菜々子の身体をそうっと床におろそうとしかけたのだが、それが叶うことはなかった。


 何故なら、俺のその声に弾かれたようにハッとした菜々子が、何を思ったのか、俺の胸へと飛び込むようにして抱きついてきからだ。


「私もッ! 私もすっごく寂しかったですッ! そっ、それに、買ってきてくれたタルトには敵わないかもですけど、苺のタルトならありますよッ!」


 俺のことが不憫だとでも思ったのか、人の好すぎる菜々子らしい、優しい心遣いに救われたのだった。


 しかもスイーツに目のない俺のために苺のタルトを作ってくれたのだ思うと、嬉しさも格別だ。


 なんていっても、真意は定かじゃないし、ただ菜々子が作りたかっただけかもしれないが、いいように解釈することにする。


 それから、菜々子が『寂しい』と言ったのは、ひとりマンションに閉じ込めてしまっている所為だろう。


 そう思うと、胸はチクリと痛みはしたが、もう菜々子の居ない人生なんて考えられない、どこまでも卑怯な俺は、都合の悪いことは蓋でもするように気づかなかったフリをした。


***


 現在、場所をリビングのソファへと移し、いつものように菜々子お手製の苺タルトを堪能しているところだ。


 勿論、これまで同様、ソファに座った俺の膝上には、恥ずかしそうに頬をほんのりと紅く色づけた菜々子が所在なさげにちょこんと乗っかっている。


 このひとときがあるからこそ、なんだって頑張れると言っても過言ではない。


 ――俺にとっては至福のひとときだ。


 菜々子お手製の苺のタルトは、あっさりとしたモノを好む俺の好みに合わせて、アーモンドの生地ではなく、カスタードと生クリームにヨーグルトの風味を仄かに効かせたものだった。


 爽やかな後味がなんともいえず、飽きることなくいくらでも食べられそうだ。


 カットされた大粒の苺が、トロリと艶やかな上掛けを纏ったその様は、宝石のように煌めいている。


 所々に添えられている、ミントの鮮やかな緑がいいアクセントになっている。


 見た目も味もピカイチで、食べてしまうのがもったいないほどだ。


 なにより、菜々子同様にとっても愛らしい。


 菜々子が傍に居てくれると思うと、それだけで幸せな上に、こんなに美味しい極上の苺タルトを食べられるなんて、俺は本当に果報者だなぁ。


 愛おしい菜々子と一緒に極上の苺タルトを堪能しているお陰で、俺はさっきの大失態も忘れて幸せな心地で過ごしていた。


 こうしていると、菜々子に出逢って、一緒に暮らすようになって、菜々子のことを好きだと自覚するきっかけになった、あの日の光景がふいに蘇ってくる。


 あの日は確か、フォンダンショコラを作ってもらっていたんだったなぁ。


 菜々子に食べさせろと言ったものの、なかなか上手く食べさせることのできない菜々子に、空腹もあって焦れた俺は、菜々子の口にねじ込んでそれを口移しで食べるという、なんとも強引な手段で菜々子のファーストキスを奪ってしまった。


 菜々子にとっては、迷惑でしかなかっただろう。


 けれど、その時に味わったフォンダンショコラは、蕩けるように甘くて、ほんのりほろ苦くて、とびきり美味しく感じられた。


 あんなに美味しいフォンダンショコラを食べたのは初めてだ。


 俺はしばし、極上のフォンダンショコラの味の余韻に酔いしれていて。


 気づいた時には、いつしか眠ってしまった菜々子を胸に抱き寄せていた。


 あの時の俺は文字通り夢心地だった。


それは、その時既に菜々子のことを好きだったからに違いない。


 結局、目を覚ました菜々子を怒らせ泣かせてしまうことになった。


 そして翌日、菜々子の機嫌をとろうとりんごのコンポートまで用意したのに、菜々子の口から従兄のことを好きだと聞かされ、嫉妬に狂った俺は、ようやく自分の気持ちに気づくことになった。


 それまでの俺は……。


 裏表のない純粋で人を疑うことのない菜々子に人知れず感銘を受けつつも、馬鹿にしてみたり。


 何をするか分からない危なっかしい菜々子を茶化したりして、面白がりつつも、目が離せなかった。


 男に免疫のない初心な菜々子の反応が見たくて、わざと羞恥を煽ったり、からかってみたり。


小学生の男子が好きな女子を苛めるような、そんな幼稚な態度ばかりとっていたように思う。


 そのどれもこれも、菜々子にとっては迷惑でしかなかっただろうと思う。


 だが、俺にとっては、菜々子との暮らしは、本当に楽しくてしようがなかった。


 ――誰かをこんなにも愛おしいと想う日が訪れるなんて、菜々子と出逢う以前には、予想もしなかったことだ。


 何故なら、母親が亡くなった代わりに、継母が現れ、今度は、腹違いの弟ができたりと、家族が増えても、そこはもう自分の居場所じゃない気がして。


 カメ吉と菱沼さえ傍に居てくれたら別に寂しくもない。


 いつからか、そんな風に強がって、殻に閉じこもって、誰かと関わることをずっと避けてきたからだ。


 それはおそらく、大好きだった母親を失ったことで、知らず知らずのうちに、また大事な人を失うことを恐れていたから、だったんだろう。


 今にして思えば、本当に我が儘な子供だったと思う。


 そう思えるようになったくらいには、菜々子と暮らす以前よりは、少しは成長できたんだろう。


 今、俺がそう思えるようになったのも、菜々子のお陰だ。


 ――愛おしくて堪らない菜々子が望むことならなんだって叶えたいと思う。


 酷く懐かしく思うのに、あれから、まだたった一月しか経っていないんだなぁ。


 そんな感じで、幸せなひとときのなか感慨に耽ってしまっていた。


 そんな俺の耳に、愛おしい菜々子のどこか遠慮がちに放たれた可愛らしい声音が舞い込んできたのだが。


「……あのう、創さん? 私、結婚式の前に、道隆さんと一度会ってみたいんですけど、ダメでしょうか?」


 それはまさに、今一番聞きたくなかった言葉だ。


 俺はあまりのショックに、頭を鈍器ででも殴られてしまったかのような、凄まじい衝撃を食らってしまっていた。


 いつもの俺なら、絶対に有無を言わせるような猶予も与えなかっただろうし、高圧的な口調で跳ね返していただろう。


 だが、きっと色々悩んだ末に結論を導き出したのだろう、菜々子の気持ちを想うと、突っぱねることなどできる訳もなく。


 不安げに円らな瞳をゆらゆらと揺らめかしながら、泣きそうな表情で俺の反応を窺っている菜々子に向けて。


「……そうか、分かった」


 それだけ告げるのがやっとだった。


 複雑な俺の心情など知るはずもない菜々子は、途端にホッとしたように俺の胸へ顔を埋めてギュッと抱きついてきて。


「……本当はまだちょっと怖いんですけど、これからは親族として顔を合わせることもあるだろうし。私、ちゃんと創さんの奧さんになれるように、頑張りますから」

「……あぁ」


 俺のために、どこまでも健気なことを言ってくれた。


 菜々子の言葉に、なんとか応えはしたが、それ以上何かを口にすると、泣き出してしまいそうで。


 俺は、ぎゅうぎゅうと菜々子の身体を掻き抱いたまま、しばらくの間は動くことさえままならない有様だった。


***


 日付は変わって翌日の月曜日。


 俺は桜小路家の当主である親父に会うため、桜小路グループの中枢である丸の内の本社社屋、その最上階に位置する会長室を訪ねていた。


 愛してやまない菜々子のために、親父にあることを頼むために――。


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