大事なことを忘れてましたッ!

第41話 大事なことを忘れてましたッ!


 初めて好きになった創さんと両想いになることができて、結婚の挨拶のために我が家である藤倉家に久々に帰って、祝福されて、めでたしめでたしのはずが……。


 兄妹同然だった恭平兄ちゃんに創さんとの結婚を反対されてしまった私は、帰る車中でも、マンションに帰り着いてからも、どんよりと落ち込んだままだった。


 両想いになった途端に、これまでとは比較にならないくらい優しくなった創さんは、相変わらず車中でずっと肩を抱き寄せてくれていたけれど。


 心なしか口数は少なかったように思う。


 それは、あの場に居合わせた菱沼さんも同じで、おそらく私に気を遣ってくれていたのだろう。


 菱沼さんは相変わらず手厳しいし、口調も冷たい。けれど、それは仕事に矜持を持っているからのようで、専属パティシエールとして働き始めた頃に比べればずいぶんと優しくなったと思う。 


 まぁ、一番の理由は、私が主人である創さんの婚約者だからなのだろうが。  


 運転手の鮫島さんに至っては、私たちの雰囲気から何かあったと察してくれているようだった。


 愛梨さんはどうしていたのかというと。


 普段なら昼間は甲羅干しをしながら転た寝するのが日課なのだが、今日は創一郎さんとの久方ぶりのご対面で、長い間興奮しきりだった。


 きっと疲れてしまったのだろう。いつの間にか熟睡していた。


 まだ寝足りないのか、もう既に午後九時を回っているというのに、未だ爆睡中である。


 お陰で、私がいるキッチンも、キッチンから見える、いつもは賑やかなはずのリビングダイニングも、シーンと静まりかえっている。


 キッチンで、まだ使用したことのなかったアルスター型(アルミコーティングされた型)をオーブンで空焼きしながら、人知れずふうと溜息を零した私は、無意識に呟きを落としていた。


 空焼きすることで、型離れや火の通りがよくなり、耐久性もよくなるからだ。


「やっぱり、愛梨さんが居ないと寂しいなぁ」


 その声が広い空間に木霊してなんとも物悲しい。


 こんな時間に、一人寂しく、どうしてこんなことをしているのかというと。


 創さんは、本物の婚約者となったのだから、何もしなくてもいい、とは言ってくれたけれど。じっとしていても落ち着かないし、メソメソしてばかりもいられないから、道具の手入れをして気を紛らわせていたのだった。


 創さんもそのことを察してくれているのだろう。


 夕食後、持ち帰ったりんごのコンポートをいつものようにソファに座った創さんに抱っこされて、食べさせてもらったのだが。その時も、恭平兄ちゃんのことを口にしない私に合わせるように、その話題には触れないでいてくれた。


 その後、創さんに促されるままにお風呂を先に済ませて、一人キッチンにこもってからも、私のことをそうっと見守るようにして、ついさっきまでダイニングのソファでタブレット片手に寛いでいた。


 今は入浴中だ。


 だから余計に物寂しく感じてしまうのかもしれない。


 創さんがこれまでとは比較にならないくらい優しい雰囲気を纏っているせいか、同じ空間に創さんが居るだけで、なんだか安心できるのだから本当に不思議だ。


 恭平兄ちゃんのことは気になるけど、佐和子伯母さんに任せておけば大丈夫だよね。


 いつまでもメソメソしてもいられないし、ずっと落ち込んでたりしたら、創さんにも心配かけちゃうし。


 こんな風に落ち込んで、溜息ばっかりついてたら、やっと手にすることができた幸せが逃げてっちゃうよね。こういう時こそ前を向かなきゃ。


 ――よしっ、頑張るぞッ!


 創さんと両想いになれたことで、どうやら恋のパワーを授かった私は、勇気百倍、アニメのヒーローの如く大復活を遂げた。


 ――さてと、道具の手入れも終わったことだし、後は寝るだけ。


 寝室に向かう段になって、重要なことを思い出してしまった。たちまち、足のつま先から頭のてっぺんまでが見る間に真っ赤かに染まっていく。


 ――ど、どうしよう。


 心の中で頭を抱え込んでしまった私の脳裏には、創さんに言われた言葉が鮮明に蘇っていた。


『今夜は寝かせる気はないから安心しろ』 


 あの場面が、あたかも動画のように色鮮やかに再生される。それと、リビングのドアがガチャリと音を立てるのと、ほぼほぼ同時だった。


 そこに絶妙なタイミングで、すっかりトレードマークとなったチェック柄のパジャマに身を包んだ創さんが現れた。


 湯上がりのせいか、やけにお色気ムンムンで直視できない。


そんな私の様子に創さんはキョトンとしつつも、真っ赤になっていることを指摘してくる。


「……ん? どうした? 顔、真っ赤だぞ」


 私は、益々真っ赤になってしまうのだった。


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