もやる気持ちを置き去りにして
第29話 もやる気持ちを置き去りにして
『婚約者として、菜々子のことはこの俺が絶対に守る』
あの夜、桜小路さんに言われた言葉が今も、この耳に、心に、しっかりと刻み込まれている。
あの後、桜小路さんに食べさせてもらった、りんごのコンポートの、心に染み入るような、あの優しい甘さと一緒に――。
それはまるで呪いの呪文のように、ことあるごとに鮮やかに蘇ってくる。
あの時、確かにキュンと胸がときめいた。
恋愛ごとに疎い私でも分かるくらいにハッキリと聞こえた気だってした。
やっぱり桜小路さんの言うように、私は桜小路さんのことを好きになりかけている、のかもしれない。
否、もしかしたらもう好きになっている、のかもしれない。
といっても、こんなこと初めてでよく分からない、っていうのが本音だけれど。
仮にそうだとして、それを認めたからって、桜小路さんは私のことを人質としてしか思っていないんだから、この想いが報われることはない。
――それを分かっていて、認められっこない。
これまで通り、人質として、専属のパティシエールとして、自分の役目を果たしていくだけだ。
ただ厄介なのは、あの夜を境に、どういうわけか、ふたりきりになると、桜小路さんの言動までが少し柔らかくなって、本物の婚約者に向けるような、優しいものになっていることだった。
桜小路さん曰く、ご当主や継母の目を欺くための雰囲気作りのため、であり。
自分のことを好きになりかけている私のことをもっともっと好きにさせて、自覚させるため、らしいのだが……。
諸々の事情により、自分の気持ちを認めるわけにはいかない私にとっては、迷惑でしかなかった。
その上、無自覚なのかなんなのか、前に言ってたように、使用人に対する独占欲からか、時折不意打ちのように嫉妬を思わせるような言動で、私のことを惑わせもやらせるのだから質が悪い。
胸の内でことあるごとに、そうやって毒づいてはいるものの、私の作ったスイーツを食べている桜小路さんの、あの蕩けるように幸せそうな表情を目の当たりにしてしまうと、どうでも良くなってしまうのだから、困りものだ。
――やっぱりイケメン最強。悔しいけど、敵う気がしない。
こうしてあの夜を境に、寝起きの悪い桜小路さんの無愛想かつ不機嫌な言動が朝限定となってから、もやりにもやっている私のことなんて置き去りにして、早いものでもうすぐ一ヶ月を迎えようとしている。
その間、菱沼さんは、相変わらず毒舌で、私のことを『チビ』呼ばわりだし。
愛梨さんは愛梨さんで。
『早く可愛い孫の顔が見たいわぁ』
『創に似てもメチャクチャ可愛いだろうし。菜々子ちゃんみたいに元気で明るいと、家の中がパーッと明るくなっていいわねぇ』
『もう今からでもいいのよ。頑張ってね、菜々子ちゃん』
私が人質だということも、これが偽装結婚だということも、すっかり忘れて、毎日すっかり浮かれモード。
そのたびに、私は『ハァー』とそれはそれは盛大な溜息を垂れ流していたのだった。
――あれからもう一ヶ月が経つんだぁ。早いなぁ。
なんて、感慨に耽っているような、そんな気分じゃなかった。
何故なら、桜小路家のご当主との顔合わせが明日に迫っているからだ。
その席には、ご当主の奥様である継母は勿論、つい一月前まで、その存在さえも知らなかった、顔も見たことのない父親も立ち会うのだという。
菱沼さんの話によれば、おそらく向こうは、既に私のことを調べ上げていて、何かしらの動きがあるかもしれない、ということだった。
明日には、この日のために、桜小路さんが私にと見立ててくれた、上品かつ柔らかなフレアラインが印象的なアイボリーのワンピース(慣れない服)に身を包んで、初めてのご対面。
そう思うと、もう日付も変わろうとしているのに、さっきから何度目を閉じてみても、一向に眠気が訪れてくれないのだった。
どこかのホテルのスイートルームかと思うくらい、だだっ広い寝室の、これまた広くて寝心地のいいベッドの上。
気持ちよさげに眠っている桜小路さんと背中合わせの私は、どうしたものかと、只今絶賛、途方に暮れているところだ。
――これはもう、徹夜だな。
どうしても眠れない時は、瞼を閉じてるだけでも頭と身体を休めることができるんだったっけ。
寝るのを諦めた私が、どこかで耳にした不確かな情報を実行していた時のことだ。
朝にめっぽう弱くて、寝起きも頗る悪いが、寝付くのはほんの数秒という、(アニメのキャラ並みの特技を持つ)桜小路さん。
もうすっかり熟睡して夢の国の住人になっていると思っていた桜小路さんに、気づけば、あっと驚く間も与えられないうちに、後ろから抱き枕の如く抱きしめられてしまっていた。
ーーもしかすると、寝ぼけてるのかもしれない。
驚きながらも、そう思った私が声をかけていいものか思案しているところに。
「……予想はしていたが、やはり不安で眠れないようだな」
ちょうど項の辺りに顔を埋めてきた桜小路さんに、寝起きにしてはやけに優しい柔らかな声音で囁かれてしまい。
不安や緊張感で嫌な音を立てていたはずの胸の鼓動が、今度は違った緊張感に見舞われて、たちまちドックンドックンと忙しなく騒ぎ始めてしまった。
今なら、口から心臓を飛び出させることもできるかもしれない。
なかなか寝付けずにいたせいか、可笑しなテンションの私がバカなことを考えている間に、何を思ったのか、桜小路さんは私の身体をヒョイと持ち上げてしまう。
着地させられたところが、桜小路さんの身体の上だったから驚きだ。
どういう状況か詳しく説明すると、あたかもご主人様が自分の胸に飼い猫をのっけて、猫っかわいがりする時のような構図となってしまっている。
突然の出来事に、驚くやら恥ずかしいやら、私はもうパニクってしまい。
桜小路さんの上で手足をばたつかせ、まるで裏返ってしまった亀状態だ。
それを桜小路さんは、他人事だと思って実に面白そうに。
「お前、カメ吉みたいだなぁ。いくら意識しすぎてるからって、そんなに暴れてると、興奮して余計寝られなくなるだろ」
くっくと笑いながらそう言ってくるなり、私の身体を僅かに持ち上げ、自分の右肩に私の顔を埋めるようにして、しっかりと抱き寄せられ。
のっけられた私の身体と桜小路さんの身体とが、さっきよりもピッタリと密着してしまったのだった。
桜小路さんの身体と触れあっているところから、桜小路さんのあたたかなぬくもりと、トクントクンと心地よい心音とが身体に伝わってくる。
あたかも身体の隅々にゆっくりと染み渡っていくかのように。
恥ずかしくて堪らないはずなのに、どういうわけか、そんなことなどどうでもよくなってしまうくらいに心地よくて、とっても安心できる。
なんだか急に瞼が重くなってきて、とろんと微睡みかけているところに、桜小路さんの声が割り込んできて。
「どうした? 急に大人しくなって。抵抗しなくていいのか? あぁ、もしかして。こうやって俺に抱かれているのが心地よくて、眠くなってきたのか?」
ハッとなった私は、慌てて反論を試みた。
「……ちっ、がいますからッ! もう、からかってないで離してくださいッ!」
「別にからかってるわけじゃない。お前の被害妄想だ。いいから早く寝ろ」
「イヤイヤ、絶対からかってますって」
「からかってないから、早く寝ろ」
「……じゃあ、なんで笑うの我慢してるんですかッ!」
「気のせいだ。いいから早く寝ろ」
それなのに、桜小路さんは可笑しそうにくっくと笑いつつ、私が何を言ってもただ受け流すだけで、ちっとも取り合ってはくれないのだった。
そんな感じで、しばし不毛な攻防を繰り広げていたのだが……。
桜小路さんに、早く寝ろと何度言われても寝ようとしない頑なな態度をみせる私に、とうとう焦れてしまったらしい。
桜小路さんから、毎朝恒例の不機嫌モードの低い声音が轟いた。
「いいから早く寝ろッ!」
一瞬、ビクッとしたものの、それよりも、ピッタリと密着しているお陰で、桜小路さんの身体のある部分の異変に気づいてしまったのだ。
それに気づいた途端、薄れていた羞恥が蘇ってきてしまう。
ピッキーンと身体を硬直させた私が、桜小路さんのある部分を避けるようにして腰を浮かせつつ、必死に抗議したのに……。
「こ、こんな状態で無理ですッ!」
「こんなのただの生理現象だろ? イチイチ気にするな。これくらいのことで恥ずかしがってたらセックスなんてできないぞ」
「……ッ!?」
桜小路さんときたら、全く悪びれることなく、しれしれっと私の羞恥を煽るようなことを言って、尚もからかってくる。
恥ずかしいやら悔しいやら腹立たしいやらで、ちょっとくらい文句を言ったところで収まりそうになかったけれど、今はそれどころじゃない。
それもそのはず。これまで恋愛ごとに疎かった私の関心事といえば、思春期の頃からスイーツに関することばかりだった。
男の人の、朝のそういう現象については、かろうじて聞きかじっていた程度で、それ以外はほとんど無知に等しいのだからしようがない。
だからただ単純に、疑問に思ってしまったことを口にしただけだったのに……。
「――セッの話は今は置いておくとして。そんなことより生理現象……って。朝だけじゃないんですか?」
「――はっ!? 朝だけ……って。お前、男がどういう時にこうなるかも知らないのか!?」
私の言葉にえらく驚いた様子の桜小路さんが一瞬フリーズした。けれどすぐに私の質問に質問で返してきた。
まるで、珍獣でも見るような目でマジマジと私の顔を凝視してくる。
「……な、なんですか? その、珍獣でも見つけたときのような反応は」
いたたまれない気持ちになってきて、堪らず言い返してはみたものの。
「……プッ。お前、珍獣って。ハハッ、ハハハハハッ」
心外なことに、私の言葉が壺にはまってしまったらしい桜小路さんは、もう堪らないって感じで、終いには豪快に笑い出してしまって、もう散々だ。
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