涙味のブランマンジェ

第16話 涙味のブランマンジェ


 キッチンからリビングダイニングへと戻ってきた私の眼前には、ガラス張りのローテーブルの上に置かれたブランマンジェと桜小路さんが対峙している光景が映し出されている。


 初日の緊張感はかなりのものだった。


 けれど、今日は専属パティシエールとして認めてもらえるかもしれない、という期待感半分緊張感半分といったところだろうか。


 桜小路さんがおもむろにお皿とスプーンへと手を伸ばした。


 お皿は、純白の陶器製で、淵には赤や淡いピンクや黄色の可憐な花弁があしらわれている。


 綺麗な純白の陶器に注いだイチゴソースの中央に、浮かび上がるように盛り付けた真っ白なブランマンジェがとても良く映えている。


 しばしそれを眺めていた桜小路さんは、もったいぶるように上品な所作ですくい取って口元へと運びじっくり味わっている。


 眩いばかりのイケメンフェイスに、なんとも言えない、蕩けてしまいそうなほど幸せそうな表情を湛え瞼を閉ざしている。


 見ているこっちがうっとり見惚れてしまうほどだ。


 それ以上に、こんなにも美味しそうに食べてもらえるなんて、パティシエール冥利に尽きる――。


 この様子だと、専属パティシエールとして認められるのは確実だろう。


 確かな手応えを感じていた私は、心の中でガッツポーズを決め込んでいた。


 そんな私の元に、満足げな表情をした桜小路さんから予想通りの言葉が舞い込んでくる。


「以前、『帝都ホテル』で食べたことがあるが。その時と同じで、口当たりはまろやかだし、かといって甘すぎず、さっぱりとした後味で、申し分ないな。なんといっても、このソースだな。視覚的にも味覚的にも良いアクセントになっている」


 まともに話したのだって、さっきが初めてじゃないかってくらい、いつも関心のないことに対しては、素知らぬ素振り。


 口を開いても、感じの悪い言葉や、『あー』とか、『いや』とか、必要最低限の言葉しか返ってこない。なのに、こんなにも饒舌に賞賛してくれるなんて、驚くばかりだ。


 きっとそれは桜小路さんがそれほどスイーツが好きだという表れなのだろう。


 そしてなにより、二七歳というその若さで桜小路グループの専務を務めているだけあって、口ぶりはやっぱり上に立つ立場だからか、常に上からではあるものの、『申し分ないな』という言葉に、私の喜びはピークに達していた。


 これが俗に言うツンデレというものだろうか。


 いつも素っ気ない無愛想な人に褒められることが、こんなにも嬉しいものだとは思わなかった。


 単純な私はあまりの嬉しさにじーんとしてしまい、目にはうっすらと涙まで滲ませている始末。


 そこへ、すっかり存在を忘れていたが、サイドテーブル上の愛梨さんから声がかかる。


【まぁ、良かったわねぇ】

「は……はいッ! ありがとうございます!」

「それだけのことで泣くとは、大げさなヤツだなぁ」


 愛梨さんのお陰で、ハッと我に返った私は涙ぐみつつも目一杯元気な声で答えた。


 それを菱沼さんに失笑混じりの呆れた声で吐き捨てられてしまったけれど、そんなものなど霞んでしまう。


 そこに桜小路さんから待ちに待った言葉が舞い込んでくるのだった。


「約束通り、この前の言葉は撤回してやる。よって、お前は今から俺の専属パティシエールとして本採用にしてやる」

「ほっ……本当ですかっ!?」

「あぁ」

「ありがとうございますッ!」


 一週間だったはずの試用期間が、なんと二日目にして本採用になるという快挙を成し遂げることができるなんて、なんだか夢のようだ。


 これ以上にない喜びを噛み締めますます涙ぐむ私に向けて、桜小路さんはキッパリと言い切った。


「いや、実力に見合った扱いをしているだけだ。礼を言われるような謂れはない」


 さすがは桜小路グループの御曹司、潔い物言いだった。


 なによりもパティシエールとしての実力を重視して本採用にしてくれた、ということらしい。


 そんな風に言ってもらえると思わなくて、もう感激しきりで、胸がいっぱいだ。


 とうとう目尻から涙の雫がポロリと零れはじめた。


 それを手の甲でそっと拭おうとしている私の耳に、あたかも菱沼さんと明日のスケジュールの確認でもしているかのような口ぶりの桜小路さんから、信じられない言葉が飛び出してくるのだった。


「それからお前には、今後俺の結婚相手として相応しい振る舞いをしてもらうことになる。色々大変だろうがよろしく頼む」


 寝耳に水、とはよく言ったものだ。


 あまりに突拍子もないことを言われたせいで、目が点状態だ。


 ――もしかして、これは夢だろうか。


 そうか、そうだったのか。だったら納得だ。愛梨さんのこともきっとそうに違いない。


 うんうん、とひとり頷いていた私にストップがかかった。


【あら、まぁ、吃驚しちゃったわぁ。創ったら菜々子ちゃんの作るスイーツがあんまり美味しいから、虜になっちゃったのかしらぁ】


 それはやけに楽しそうな口調で、最後に、うふふ、と微笑みを零した愛梨さんからだった。


 その声に弾かれるようにして顔を上げた私は、桜小路さんの顔を正面から見据えて、しばし窺ってみる。


 すると、もう用は済んだと言わんばかりに、桜小路さんは私の様子を気にすることなく、実に幸せそうにブランマンジェを食していた。


 まるでここに私など存在していないかのように。


 ――何? どういうこと? あんな吃驚な発言しておいて、放置ですか? 


 それとも、ただの冗談だったのだろうか。


 それならそうと早くオチをつけてくれないとリアクションに困っちゃうんですけど。


「あ、あのう、桜小路さん。さっきのって、冗談だったんですよね?」

「おい、チビ。お前はバカか? 創様がそんな冗談を言ってお前を笑わせる訳がないだろう」

【そうよ。そんなこと言ったら、プロポーズした創が可哀想だわぁ】


 放置されたままで困惑中の私が桜小路さんに訊き返したはずが、菱沼さんと愛梨さんからしか返答がない。


 しかもその中に『プロポーズ』という単語までがひょっこりと顔を出した。


 桜小路さんから菱沼さんへと視線を移して窺うも、やっぱり冗談を言っている風でもない。


 ――もしかして、桜小路さんは私のことを好きなのかな?


 いやいや、でも、待って。そんな素振りは全くなかった、……と思う。


 なら、愛梨さんのいうように私の作ったスイーツの虜になったってことなのかな?


 でも、そんなことで結婚までしちゃうかな? イヤイヤ、しないでしょ、普通。


 でも待てよ。普通はしないだろうけど、桜小路さんちょっと変わってるとこあるし、そうなのかも。


 ――なら、丁重にお断りしないといけないよね。うん。


「あの、桜小路さん。お気持ちは嬉しいんですけど、結婚にはお応えできません。なので、これからも専属のパティシエールとしてよろしくお願いいたします」


 けれども私の言葉に対する桜小路さんの返答は、私の予想の斜め上をいくどころか、遙かに上回っていた。


「あぁ、勘違いしないでくれ。これは決定事項だ」

「――け、『決定事項』って、そんなこと一言も聞いてません。話が違うじゃないですかッ!」

「どうしても嫌というなら、『帝都ホテル』でパティシエールとして働いてもらうことになる。そうなれば、お前の先輩には辞めてもらうことになるが。それでもいいなら、好きにしろ。後は菱沼から聞いてくれ」

「そっ、そんな横暴なッ!」


 初見の時と同様の脅迫まがいな言い草に怒り心頭に発する、で私が発した怒りにも、桜小路さんは我関せずといったご様子だ。


 何も受け付けない、と体現するかのように立ち上がり。


「俺は風呂に行く。菱沼、後は任せた」

「はい。承知いたしました」


 菱沼さんに言い残すと、素知らぬ顔でこちらに背を向け、リビングダイニングから足早に出て行ってしまった。


 静まりかえった広すぎる空間には、菱沼さんの放った声の余韻と、なす術なく途方に暮れた私が放つ哀愁だけが漂っている。


 息子のあんまりな態度に、さすがにバツが悪いのか、いつもおしゃべりな愛梨さんはやけに無口だった。

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