ブランマンジェのその前に

第15話 ブランマンジェのその前に


 愛梨さんのことはさておき、私は午後から桜小路さんに言い渡されていたブランマンジェ作りに勤しんでいた。


 フランス語で『白い(ブラン)食べ物(マンジェ)』という意味を持つブランマンジェ。イタリアのパンナコッタとよく混同されるが、アーモンドの香りを付けるところが大きく異なる。


 砂糖とアーモンドで作るのが起源とされているが、中世の頃には、鶏肉や蛙の肉を入れた液状のスープとして食されていたらしい。


 ブランマンジェの作り方は至ってシンプル。


 温めた牛乳に砂糖とゼラチンを溶かして冷ましたものに生クリームを加えて冷蔵庫で冷やし固めるのが基本だ。


 好みに合わせて食感を変えることもできる。


 口当たりをサラッとしたものにしたい場合は、生クリームをそのまま加え、もっちりとした食感にしたい場合は、生クリームを泡立ててから加える。


 誰にでも簡単にできそうだが、温めた牛乳を十一度まで冷やすという細かい温度調整が重要になる。


 それを怠ると、生クリームを加えるときに分離してしまうらしい。


 まぁ、それだって温度計を使えば済むことだし、近頃は百円ショップに行けば手に入るだろうから、家でも気軽に美味しいブランマンジェを作ることができるだろう。


 今朝、桜小路さんが言っていた『帝都ホテル』で春の期間だけに提供されているブランマンジェには、新鮮なイチゴをふんだんに使った甘酸っぱい色鮮やかなソースが添えられている。


 勿論大きめにカットされたイチゴも彩りよく盛り付けられていて、シンプルだがなんとも春らしい一品だ。


 時計の針が午後五時五〇分を示す頃には、ブランマンジェも夕飯もできあがり、あとは桜小路さんの帰宅を待つばかり。


 今日もほぼ昨日と同じ、午後六時過ぎにインターフォンが鳴り、桜小路さんと菱沼さんを玄関ホールで迎え入れているところだ。


「おかえりなさいませ〜!」


 またどうせメイド喫茶の店員だなんだと好き勝手言われるものだと思っていたのに、少しばかり様子が違っていた。


「あー」


 桜小路さんから開口一番いつもの素っ気ない無愛想な声が出た直後のことだ。


 どういうわけか、「クッシュン、クッシュンッ、ハックションッ」という具合に桜小路さんはくしゃみを何度も何度も連発しはじめた。


 その傍で慌てた菱沼さんが常備していたらしいポケットティッシュを取り出して桜小路さんに手渡して、今度は医療用と思われる鼻炎スプレーをビジネスバックから取り出した。


 そして休むことなく、慣れた手つきでキャップを取り外し桜小路さんの顔へと近づける。それに気づいた桜小路さんが大慌てで鼻へとあてがい、プッシュして数十秒後。


 ようやく落ち着きを取り戻した様子の桜小路さんは、「はーー」と大息をついて、力尽きたように玄関ホールの床にしゃがみこんでしまう。


 何がどうなっているのか状況がさっぱり掴めず、私はただ呆然と突っ立っていることしかできずにいた。


 けれど真っ青な桜小路さんの顔色に、ただ事じゃない、というのが窺えて、慌てて駆け寄れば。


「だ、大丈夫ですかっ!?」

「……み、水をくれ」


 荒い呼吸の合間でそう訴えてきた桜小路さん。


 その声に弾かれたようにマッハの早さで疾走しキッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを手に戻ってきた私。


 それを受け取った菱沼さんの手には、薬らしき錠剤が用意されていて、その連携プレイが功を奏したのだろう。


 現在、リビングのソファにふんぞり返っている桜小路さんは、もうすっかりいつもの調子を取り戻している。


 そして桜小路さんの隣には菱沼さんが居て、その向かいのソファに腰を下ろした私は、菱沼さんからさっきの説明を受けているところだ。


 なんでも桜小路さんは幼少の頃に小児喘息を患っていたらしい。大抵は大人になるとおさまっていくようで、成人してからは喘息発作を起こしたことはないそうだ。けれど、元々アレルギー体質だったことが災いして、時折アレルギー発作を起こしてしまうのだという。


 そしてその項目も、大人になるに従い少しずつ増えていったらしい。


「化学物質……過敏症……ですか?」

「あぁ。おそらく、創様の継母がつけていた香水に入っている化学物質でアレルギー発作を起こしたんだろうな」

「そうだったんですか。でも、帰って何時間も経ってるのに」

「あの方はいつも強烈だからな」

「あぁ、だから愛梨さんが換気換気って何度も言ってたんだぁ」

【そうよ】

「だったら説明してくれたら良かったじゃないですか」

【あら、だって、菜々子ちゃんは知ってると思ってたから】

「ーーん? 誰が何を言ってたって?」

「あっ、いえいえ、なんでもありません。はい」


 菱沼さんから説明を受けているのだけれど、私たちの居るソファの傍に置かれているサイドテーブルの上には、カメ吉こと愛梨さんが入った外出用の水槽が置かれている。


 私からすると、菱沼さんと愛梨さんと三人で喋っている格好となる。


 というのも、少しでも桜小路さんの傍に居たい、と言う愛梨さんに泣く泣く懇願されて、私がお連れしているからだった。


 どうも話に夢中になって、愛梨さんの言葉にも応えてしまった私の様子が、菱沼さんにはふざけているように見えたようだ。


「なんなんだ? お前は。創様が大変な目にあわれたというのに、さっきからブツブツと」

「あー、それはだって、そんなこと知らなかったんで、吃驚しちゃって。私、吃驚するとブツブツいうクセがあって」


 上手に誤魔化すつもりが、菱沼さんを余計に苛つかせ、とうとう怒らせてしまう。


「はぁ? なんだと、チビ。お前は人をおちょくってんのかッ!」


 慌てた私は即座に声を放った。


「いえいえ、そんな。滅相もない」


 するとその声に被せるようにして、低い声が飛び交った。


「うるさい、黙れッ!」


 ソファでふんぞり返って我関せずといった様子で、優雅にコーヒーの入ったカップを傾けていたはずの桜小路さんが怒声を放ったのだ。


「私としたことが、申し訳ありませんでした」

「す……すみませんでした」


 ようやくだだっ広いリビングダイニングが静かになったと思いきや、唐突に桜小路さんから、化粧っ気のない私へと質問が投げかけられた。


「もういい。それより、お前はここに来て一度も化粧をしていないようだが、どうしてだ?」

「――へ!?」


 だがなんの心づもりもできていなかった私は、頓狂な声同様、鳩が豆鉄砲でも食らったような間抜けな顔をしているに違いない。


 そんな私に業を煮やしたのは他でもない、さっき私が怒らせてしまった菱沼さんだった。


「おい、チビ。鳩が豆鉄砲食らったような間抜けなツラしてないでさっさと答えろッ!」


 おそらく、つい今しがた私のせいで桜小路さんからお叱りを受けてしまった事を根に持っているのだろう。


 それはそれは、偉い剣幕だった。


 隣に居る桜小路さんからしてみたら、さぞかし迷惑だったに違いない。


「菱沼、そんなにカリカリして喚くな。さっきから唾が飛んでる」

「あー、すみませんッ」


 爽やかなイケメンフェイスを忌々しげに歪ませた桜小路さんから軽く二度目のお叱りを賜ってしまった菱沼さん。


 菱沼さんは大慌てで、自分が飛ばしてしまった唾をさっき大活躍したポケットティッシュで拭き取りつつ、私に向けてナイフのように鋭利な視線を寄越してきた。


 私がひぃ、と心の中で震え上がっているところに、「もういい」という桜小路さんからの声が届いた。菱沼さんの鋭利な視線から解き放たれた私はおもむろに声の方へと視線を向ける。すると。 


「それより、どうなんだ? やっぱりパティシエールだからとか、そういう理由からか?」


 さっきからずっと無表情を貫いていたはずが、やけに興味津々といった感じで、いつの間にやらソファから起き上がってきた桜小路さんは、前のめりになっていた。


 そんなに気になることだろうか? と首を傾げつつも答えたところ。


「確かに職業柄、香水は付けたことがありません。化粧については、小さい頃アトピー性皮膚炎だったこともあって、肌に合わないので、仕事の時にはオーガニックのものを使っていたんですけど」


 相槌の代わりに、うんうんと感心したように頷きつつ聞き耳を立てている桜小路さんの隣で。


「ほう、アレルギー体質とはやはり血筋でしょうかねぇ」


 同じように頷く素振りを見せていた菱沼さんが、酷く感心したようにぼそりと呟きを落としたようだった。けれどその声を拾う間もなく、桜小路さんが焦れたように畳みかけてくる。


「『使っていたんですけど』とはどういうことだ?」


 その声により、菱沼さんの言葉は瞬時に掻き消され、私の耳に届くことはなかった。


「普段は、肌に負担をかけたくないので、できるだけ化粧はしないようにしているからですけど。やっぱりした方がいいですか?」


 別に職場といっても桜小路さんと菱沼さんくらいしか居ないから化粧なんて無用だと思っていたけど。不快なんだろうか? 


「いや。そのままで居てくれた方が俺にとっては都合がいい」

「……都合が……いい?」


化粧に関しては不快だった訳ではなかったようで一安心。……なのだが、最後に付け加えられた言葉の意味に理解が及ばず首を傾げるしかない。


「いや。何でもない、こっちの話だ。それより、今朝言っておいたブランマンジェはできてるんだろうな」


キョトンとした私に放たれた桜小路さんの声によって、ブランマンジェの話題へと移行していった。


 もうすっかり仕事モードに切り替わった頭の中は、ブランマンジェのことで埋め尽くされてしまっていて。


「はい、勿論ですッ! 今お持ちしますッ!」

「あぁ、頼む」


 今日こそは桜小路さんに専属パティシエールとして認めてもらうんだーーという思いに駆られていた私は、張り切って準備に取りかかったのだった。

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