波乱の幕開け

第6話 波乱の幕開け


 四月の第一日曜日。

 まだ肌寒い時もあるが、陽射しも風もすっかり春めいてずいぶん暖かくなってきた。


 事故で負った怪我もすっかり癒えて、本日無事に退院することができた。


 伯母の話によれば、私の意識がなかった間、菱沼さんから連絡を受け、仕事の合間を縫って毎日のようにお見舞いに来てくれていたらしい伯母夫婦。


 そのため病室で何度か菱沼さんと桜小路さんとも顔を合わせていたらしい。勿論カメ吉とも。


 驚くことにその時点で、既に私のことを『専属のパティシエールとして雇いたい』という話までしていたのだという。


 その流れで、色んな話をしたらしいので、ネットで検索でもして店の経営状態を探ったのかもしれない。


 先々代の、伯母や母の祖父が創業した『パティスリー藤倉』は、浅草の浅草寺の近くという恵まれた立地から、新型ウイルスが流行する以前は小さいながらも人気店だった。


 それが緊急事態宣言が発令されてからは、自粛続きでぱったりと客足は途絶えてしまっていたようだ。


 伯母夫婦は私に心配かけまいとしてか、詳しくは教えてくれなかったが、ネットやメディアで連日のように取り上げられていたのだ。


 私がそうしたように、ググれば数秒で知り得たはずだ。


 現在は、二月に承認されたワクチンのお陰で客足も少しずつ戻ってきているらしいし、ネットでの販売も上場のようだ。


 しかし、新しい設備投資のために組んだローンの返済が痛手となっているらしい。


 ……が、意外にも、桜小路さんの口利きにより、桜小路グループの傘下であるローン会社に借り換えをすることで返済額が抑えられ、随分楽になったというから驚きだ。


 そのため、病室に訪れるたびに、伯母夫婦、特にイケメン好きな伯母が、『桜小路さん様様よね』と言うので、洗脳でもされているような心地だった。


 だからというわけじゃないが、ミドリガメが大事なペットだったり、やり方が少々強引だったり、口や感じが悪かったりもしたけれど、悪い人ではないのかもしれない。


 最初は、純粋に亀を救ってもらったお礼のつもりだったのが、身勝手に退職したパティシエールにたまたま行き当たって、経営者側の立場から、黙っていられなかったのかもしれない。


 それでこういう結果になってしまった、ということなのだろう。


 お陰で、『帝都ホテル』を先月退社したことも、転職のことでも、伯母夫婦に心配をかけることも、隠すこともなく、伝えることができた。


 なにより、伯母夫婦も助かったのだから、結果オーライ。感謝しないとなーー。


 そんなわけで、上機嫌で退院の手続きを終えた私は、伯母夫婦と一緒に病院のロビーからエントランスへと向かっているところだ。


 実は、菱沼さんから前日に連絡があって、今日はエントランスまで車で迎えに来てくれる手筈になっているから。


 そしてそのまま、私の新しい職場となる桜小路家の邸宅?(詳しくは聞いていないが、おそらく大きなお屋敷だろう)にて、本日より業務にあたることとなっている。


 天下の桜小路グループの御曹司が住んでいるのだから、当然、馬鹿でかいお屋敷を想像するのが普通だと思う。


 それなのに、私の抱いていたモノはことごとく覆されることになった。


 否、今思えば……


 病院のエントランスに、約束の時間きかっかりに現れた黒塗りの見るからに高級そうな車(車好きの伯父によると、数年前に天皇陛下がパレードの時に乗っていた公用車と同じメーカーの車で五千万円はくだらないらしい)が横付けされ。


 後部座席から颯爽と現れた、愛想の悪いはずの桜小路さんが、伯母夫婦の元にすっと歩み寄ってきて、伯母の手を両手でそうっと自身の手に包み込むと、ニッコリと微笑みながら。


「これはこれは、藤倉恭一きょういち様に佐和子さわこ様、この度は菜々子様のご退院おめでとうございます」


 こんなに優しい声が出せるんだ、と感心してしまうくらいの優しい声音がからかけられた。


 ただでさえイケメン好きの伯母は、間近でイケメンフェイスに微笑まれているせいで、心ここにあらず、ぽーっとしてしまっている。


 桜小路さんは、今日もこれまた上質そうなネイビーのスリーピーススーツに身を包んでいる。春のあたたかな陽射しを纏っている様は、あたかもキラキラエフェクトを纏ったどこかの国の王子様のよう。


 ……初見とは一八〇度違っていた桜小路さんの態度に呆気にとられてしまっていたあの時、何か妙だなぁ、とは思ったんだ。


 エントランスで伯母夫婦に見送られつつ病院を後にして、それから小一時間ほどで目的地へと到着した。


 きっと都会の綺羅びやかな夜景が一望できるのだろう、天高く聳え立つタワーマンション。その地下駐車場へと辿り着いた車の後部座席で、シートベルトをぐっと握りしめた私が、予想が外れたことに呆然としていると。


「何をぼさっとしているんだ? 降りるぞ」


 私の隣で上質なシートにふんぞり返るようにして深く身体を沈めて厭味なくらい長い足を組んでいた桜小路さんから、初見の時と何ら変わらない不機嫌そうな不遜な声が放たれた。


 道中ずっと愛想なくムスッとしてたから、どうやらこっちのほうが通常モードのようだ。


「あの、住み込みって聞いてたんで、てっきり大きなお屋敷だと思ってたんですが」


桜小路さんの声でようやく正気に戻った私が、それにしたって、伯母夫婦の前と態度が違いすぎませんかね? と言いたいのを我慢しつつ出した言葉に。


 年配の運転手さんが開けてくれた後部座席のドアから降りようとしていた桜小路さんからは、さっきよりも不機嫌そうな声が飛び出してきた。


「なんだと? ここじゃ不服だとでも言いたいのか?」

「そっ……そうじゃなくてっ。大きなお屋敷で沢山の使用人の方とも一緒だと思っていたので、違っててビックリしちゃって」


 違う意味に捉えたらしい桜小路さんにも分かるように、慌てて言い直してはみたけれど。


「何を今更。既に菱沼から説明は聞いているはずだ。その説明に納得したから書類にも拇印を押してもらったと記憶しているが」

「……ッ」


 フンッと鼻を鳴らした桜小路さんから、至極もっともな言葉が返ってきて、何も返せなくなってしまい、私は肩を落としてぐっと押し黙るしかなかった。それなのに。


「菱沼、そうだったよな?」


 追い打ちでもかけるように、助手席の菱沼さんにバトンタッチされる始末。


「ええ、そうでございます。住み込みの件を渋っておられた菜々子様には、プライベートも確保し、最新の設備で、セキュリティーも万全だと説明し、ご納得いただけたはずですが」


 確かにあの時そう説明はされたものの、そういえば、どんなところかの説明はなかった。


 ーーはなから私が勘違いするように仕向けたんじゃないの?


 そうだ。絶対そうに違いない。このまま言い負かされてはたまらない、と反撃をしてみたものの。


「でも、どんなところかまでは聞いていませんッ! だから、あんな契約は無効だと思うんですが」


「そう言われましても、そのことに関しましても、このようにちゃんと書類にも記載してありますしねぇ。契約不履行には当たらないと思いますよ。ほら」


 助手席の菱沼さんから眼前にすっと差し出されたあの分厚い書類には、確かに、『桜小路創様の所有する東京都○○区ーー』と、タワーマンションの住所までしっかりと記載されていて。


 今度こそ何も返せなくなってしまった私は、テンションだだ下がりで、地下駐から桜小路さんの部屋がある最上階まで専用のエレベーターで移動した。


 なんと、最上階どころか、このタワーマンションのまるごと全てが、桜小路家が所有しているというのだから驚きだ。


 といっても、桜小路家のご当主のお住まいである本宅は田園調布にあり、ここには桜小路さんと執事兼秘書である菱沼さんしか住んではいないらしい。


 そんなこんなで現在私は、あてがわれた一室にて、既に社員寮から運び込まれていた荷物の荷解きを進めながら何度も何度も溜息を零していたのだった。


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