夜空に光る
永瀬鞠
「え」
「あ」
「えっと……橘だよね?」
「うん」
「……いったいなにしてんの?」
「ここを乗り越えたくて」
「それは見ればわかるけど」
「坂下こそこんな時間になにやってんの」
「教室に忘れものをしたから、取りに」
「それは大変だね」
「見事な棒読みに聞こえるよ」
「棒読みだからね」
「ああそう」
校内のプールの横にある道を通り抜けようと歩いている最中に、暗がりの中にもぞもぞと動く人影が見えて体が固まった。
うっすらと浮かび上がった知り合いの顔を見てほっとしたのも束の間、プールの周りをぐるりと囲むフェンスの1枚によじ登っているその男が頼りなさげに見えて不安になる。
あたしの驚きと不安をまったく知らない顔をして、橘はこっちを見ていた。
「危ないから、登るなら早く登りなよ」
フェンスのてっぺん近くで止まっている橘に言うと、相変わらずの落ち着いた声が返ってくる。
「声かけてきたのは坂下でしょ」
「頭上に知り合いが見えたら嫌でも声が出るって」
あたしからフェンスに向き直った橘は、意外と危なげなくフェンスをまたいだ。
「プールになんか用事?」
「花火がきれいに見えるって言ってたから」
「……だれが?」
今日は市内で祭りがある。もうじき花火もあがる。
橘が遠い目をしてめずらしく笑うから、だれが言った言葉なのか、なんとなくわかってしまった。
「一緒に見る?って言ったのはあっちなのに、転校なんてしちゃってさ」
大橋くんだ。
「なにそれ、ずるい」
「結果的には見れてないんだから、同じじゃん」
「同じじゃないよ。実際に一緒に見ることよりも、一緒に見ようって誘われることのほうが重大だよ」
「そう? まあ向こうにしてみれば男友達を誘った、くらいの気持ちだろうけど。それに誘われるのは寂しさも大きくならない?」
フェンスを下り始める橘を見上げる。
「ねえ、あたしもここで見ていい?」
「いいけど。行かないの?祭り」
わずかに驚きをのせた橘の声にうなずく。
友達グループ内でもめたせいで、数日前から軽く仲間はずれになっていること、隣のクラスの橘は知らないだろう。
フェンスに一歩近づいた。
「あたしと一緒に花火見たら、大橋くんのこと思い出せるでしょ」
「まあ、そうだね」
「そういうこと」
あいまいな言葉が出たけれど、橘はたぶん聞き返さない。
「じゃあ坂下も、大橋くんと花火が見れるね」と橘が答えた。
「なんか変な感じ」
「自分が言ったんでしょ」
橘の声に笑いが混ざる。あたしも笑って、フェンスに手をかけた。
橘はゆっくりと向こう側に下りていく。
橘といると大橋くんのことを思い出すけど、ここにいるのはあたしと橘だけだ。
変な感じだ。
「こっちに来るなら早く来なよ。そろそろ始まるよ」
フェンスを下りきった橘があたしに顔を向けた。
「え、もうそんな時間?」
スマホで時間を確認しようとかばんに手を伸ばしかけて、その時間も惜しいと思い直す。
今さっき橘がのぼっていたフェンスにローファーを履いた右足をかけた。
フェンスの針金は思ったよりも細くて、隙間も狭い。男子にしては小さいとはいえ、その体でよくのぼったな、と考えながら両手と左足に力を入れた。
3歩目をフェンスにかけたとき、夜空に細い光があがる。
その光はまるで花開くように大きくなる。間を置かずにドン、と低い音が響いた。
自然と手と足が止まる。空を見上げた。
この場所はたしかに特等席だった。
プールに照明はないし、校舎の周囲にある街灯は遠い。住宅からも距離がある。
動くものはあたしと橘だけ。
花火の光と音が、鮮明に目と耳に届いた。
あたしはようやくフェンスからプールサイドのコンクリートに下り立つ。
水の入っていないプールに緩慢に歩いていく橘の細い背中を視界の隅に入れながら、赤い花火を見た。
橘にならってプールの淵に腰を下ろし、両足を空のプールに投げ出したとき、ひときわ大きな花火があがる。
大きな音とともに地面が鈍く揺れた。
橘は大橋くんが好きだった。
どうしてそれを知っているのかというと、あたしと橘はライバルだったからだ。
あたしが大橋くんに恋に落ちたのは、去年の5月、青空の放課後だった。
大橋くんは部活で学校の周りをランニングしていて、あたしは帰宅中だった。
あたしの進行方向から大橋くんが走ってきて、目が合った。「ああ、同じクラスの大橋くんだな」と思っていたらすれ違いざまに「ばいばい」と小さく声をかけられた。
その瞬間にときめいて、あっけなく好きになった。
そのときの大橋くんの心地のいい声と、さわやかな笑顔は今でもよく思い出せる。
橘が大橋くんを好きになった経緯はしらないけれど、わたしも大橋くんを好きだから、彼を好きになる気持ちはわかると思ってしまう。
大橋くんがあたしと橘を間接的に引き合わせた。
あたしたちの間にいた大橋くんがいなくなってもなお、あたしたちの仲が続いていることは、あらためて考えてみるとちょっと不思議だ。
いわゆる人の縁、みたいだと思ったら、少しの距離をあけて隣り合っている肩が急にくすぐったい。
ヒューゥ。ドン。
色とりどりの花火は目の前で次々にあがる。まるで終わりを知らないみたいに。
あたしと橘は最後の金色の光の線が夜空に消えてなくなるまで、ずっと無言で空を見上げていた。
好きな人を失ったあたしたちがこれからどうなるのかはわからないけれど、これからもたまにこうして肩を並べて、同じ何かを眺められたらいいのに、と思う。
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