ワンナイトラブ

永瀬鞠

 


「愛をください」


目の前の知らない女がそう言った。まず頭に浮かんだのはちっちぇえな、という女の身長に対する感想で、次に浮かんだのは言葉に似合わない女の目の真っ直ぐさへの違和感だった。


職場を出て歩き始めるとまもなく降り始めた雨は、徐々に強さを増して傘を濡らした。傘を広げて足早に歩いていく周囲の人間からまるで取り残されたように、目の前に立つ女は傘も差さず、小さな白いバックだけを片手に持ち、細い雨を浴び続けている。


その黒いワンピースは雨で濡れているはずだが、その濃い色のせいで夜の明るさではどこまで濡れているのかわからない。それが余計に女の現実味をなくさせているようだった。


「傘ねぇの?」


ようやく自分の口から出てきた声も、まるで自分のものではないように思えた。


「雨も滴るいい女でしょ?」

「水も滴る、な」

「一緒じゃないですか」

「一緒にすんな」


女との会話が成り立ってからようやく、自分が動けずに突っ立ったままの姿勢でいたことに気がつく。左手に持っていた傘を差し出すが、女との距離は思っていたよりも遠く、傘は届かない。一歩近づいた。


「優しいんですね、おにいさん」

「そうさせてんのは誰だよ」

「だってこんな馬鹿なこと、雨にでも濡れてなきゃ言えませんもん」


女がどこか楽しそうに、どこか寂しそうに笑う。その笑顔に一瞬、なぜか自分が重なったように見えて動きが止まる。女の体が傘の下に入ると、今度は俺の頭と肩が濡れ始めた。


女の顔や声にやはり覚えはない。愛をください、という女の第一声がもう一度頭の中で繰り返された。馬鹿なことを言っているという自覚はあるらしい。


「なんで俺なわけ?」

「靴と歩き方が好みだったからです」

「なんだそれ」


近くで見る女の目は、まるで引きずりこまれそうに奥が深い。どこまでが本心かわからない真面目な声で女は言う。


「おまえの言う愛ってなに? セックスのこと?」

「セックスでも、なんでも」

「なんで愛がほしいんだよ」

「恋人を亡くしました」


息を飲むとはこういうことかと実感する。思い出したくない、けれど忘れることのできない光景が一瞬で頭の中を埋め尽くした。そんなことくらいで自棄になるな、と頭の中では何度でも言えるのに口は動かない。


「話くらいなら、聞いてやるよ」


やっとの思いで開けた口からは少しかすれた声が漏れた。ちらりと女の斜め後ろに視線を投げる。


「そこでいい?」


顎で示した先にはラブホテルの一角が見える。駅から離れたこの辺りには、ホテルといえばこのラブホテルしかない。愛と言うなら問題ないだろ、と結論づけ、女の表情をうかがう。


「はい」


女は表情を変えず、あっさりと言い切った。その危機感のなさに自分から提案しておきながら頭を抱えたくなる。まあ今はいい、と自分に言い聞かせた。


「その前に一応年齢確認させてくれるか」

「もちろんです」


女は手に持っていた白いバッグの中から運転免許証を取り出し、表側を俺に向けた。俺が今年28歳だから生年月日が俺より7年後の女は21歳か。


「どうも」


未成年でないことを確認し、免許証から視線を外す。ああ、俺もか、と思い至り、ズボンのポケットに入れていた財布を取り出した。同じように運転免許証を見せ、女が頷いたのを確認してからポケットに戻す。


「行くか」


ぽつりとつぶやいた声が、自分にも言い聞かせるようだった。女のほうに傾けていた傘を自分側に引き寄せ、女とすれ違うようにラブホテルに向かって歩き始める。女が小走りでついてくる音を聞きながら、濡れた地面を踏んだ。



ホテルに着いたときには、二人とも頭と肩を中心に全身が濡れていた。女は雨で濡れた顔を拭く素振りもなく、適当な部屋を選ぶ俺を見ている。


エレベーターを降り、番号を確認しながら無言で廊下を進む。部屋のドアを開け、中に入った。電気のスイッチを押すと同時に背後でドアが閉まる音がする。女を振り返った。黒色に見えていたワンピースは濃い紺色だった。


「俺シャワー浴びるけど、おまえは?」

「浴びます」

「じゃあ先使え」

「いえ、おにいさんが先に使ってください」

「なに言ってんだ、早く行け」


窓際の椅子に腰を下ろした。はい、と言ったわりにほとんど動かない女に「着替えならたぶんそこらへんの引き出しに入ってるから」と声を投げると動き出す。


慣れてない様子なのによくあんなこと言ったな、と思いながら女が浴室に消えるのを横目で見る。背もたれに体重を預けた。深く息を吐く。


女と同様、馬鹿なことをしているという自覚はある。それでも女を突っぱねられない。禁煙室だから吸えないことをわかりつつ、胸の内ポケットから煙草の箱を取り出して指で弄ぶ。


目を閉じなくても、すぐに暗闇の中に落ちていく。悲しみと絶望に全身が沈んだまま、深い底から現実を眺めているような日々だと思うことがある。


ここから抜け出す方法がわからない。時間が解決してくれるだろうと思っていたが、悲しみと絶望は薄まるだけでいつまでも纏わりついたままだ。


シャワーの音が止み、女が浴室のドアを開けたタイミングで腰を上げた。



シャワーを終えて浴室を出ると、部屋に女の姿はなかった。なんでだよと頭に疑問を浮かべたとき、部屋のドアの鍵が回る音がする。顔を向けるとドアを開けて入ってくる女が見えた。


「あ、遅くなりました。そこのコンビニで食べ物買ってきました。そういえばおにいさん仕事帰りで夕食まだだったんじゃないかと思って」


閉まるドアを背に説明を始めた女の手には、白い半透明のビニール袋がひとつ提げられている。強引なくせに変なところ気を回す女だな、と思いながら今さら空腹であることを思い出した。


「助かった」

「それならよかったです」


女は俺の横を通り過ぎると、窓際の小さな丸いテーブルの上にビニール袋を置く。ドライヤーで大雑把に乾かした頭を掻きながら先ほどと同じ椅子に腰を下ろした。


女は外出のために再度着たらしい濡れたワンピースを着替えてくると言って浴室に向かう。開いたビニール袋の口からはおにぎりやらパンやらお茶やらが見えた。


「火事だったんです」


着替えて戻ってきた女は、テーブルの向かい側にあるもう一つの椅子に座り、ビニール袋から惣菜パンを取り出しながら世間話でもするように話し出した。


「深夜にアパートの隣の部屋から出火して、逃げ遅れた。その人と今年の冬に入籍する予定でした」


手元のパンに向けて伏せられた女の瞼を見ていた。変化を見せないその表情は、現実に心を壊されないための盾のようだと思った。


「熱かっただろうな、苦しかっただろうなって、思うんです」


ああ、そうだろうな、と思いを馳せれば息苦しさを感じる。視界がぐっと狭くなる。女が手にしているパンの包みから、かさりと小さな音が鳴る。


「家族のいないわたしに家族になろうって言ってくれた」


おにぎりを掴んでいた手を持ち上げ、一口かじった。咀嚼する。こんな時でもきちんと米の味はする。やるせないね、と昔、俺の隣に突っ立ったまま友人がこぼした声が頭の奥で鮮明に再生された。


「わたしの存在意義はもう彼が持っていったので、残りの人生は余生です。後悔はありません」


伏せられた瞼。微笑む口元。なにをしても、と付け足した女の凛とした声は、なにかを連想させた。ぶれることなく真っ直ぐに立っていた最初の女の姿が脳裏に蘇る。


「それであの行動か」

「はい」

「無鉄砲にも程があるだろ」


呆れ混じりにそう言えば、そうですね、とくすくすと笑う女。連想したこの感情は、悲しみなのか。その歳で、その無邪気さで、残りの人生は余生と言うなんてもったいねぇなと思った。思った直後、他人から見れば俺も同じなのかもしれない、と思う。


「思い出だけで生きるには、60年は長すぎるので」

「……そうだな」


60年。なんと長い響きだろうか。果てしない時間のように感じて気が遠くなる。腹の底にゆったりと漂う鈍い痛みから目を逸らすように、首だけを動かして天井を仰ぎ見た。


ざらついた灰色の天井。視線を戻すと女は顔を上げていて、待っていたかのようにぴたりと目が合った。


「おにいさんの辛い記憶に触れてしまうかもしれませんけど」


今までよりも少しだけ慎重に話すような声を聞く。その前置きになにか口を挟もうかと考えるより先に、女の口から次の言葉が出る。


「わたしのことを拒めないっていう顔をするのはどうしてですか?」


気づかれていたことに瞠目する。話くらいなら聞くと、自分が女に放った言葉が返ってくるようだった。黙り込んでも、適当に誤魔化して話を切ってもよかったが、俺の目を見る女の瞳がなぜかそうさせてくれなかった。


「似てるから」


吐き出した声には自然と悲しみと絶望が含まれていた。なんで俺とおまえは、こんな馬鹿みたいな奇跡的な確率で出会ってしまったんだろうか、と頭の隅で思う。


「俺も彼女亡くしてんだよ」


遠い昔のことのように、つい最近のことのように、恋人のことを思い出す。23歳の冬。初雪が降った日に、彼女は事故で死んだ。


見慣れた人間の、固く閉じられた瞼。血の気のない白い顔。凍ったように冷たい手。心臓が芯から冷えて、手足が震えた。もう二度と戻らない現実が目の前に突きつけられる。


けれど信じることができないまま、受け入れることができないまま、おそらく今日まで来てしまった。


「触ってもいいですか?」

「あ?」


正面から聞こえる女の声に顔を上げると、女は椅子から立ち上がろうとしていた。俺たちの間にあるテーブルの横を抜け、こっちに向かってくる。その動作をただ眺めていると、女の両腕が頭に向かって伸びてきた。


髪が腕に触れる。頭に触れるか触れないかという力加減で、周りの空気ごと包むような手付きで俺の頭に腕を回した女は、それきり動かなくなった。自分の体を動かすのも面倒に感じて視線だけを元の位置に下げると、さっきまでの視界の左半分に女の両足が加わっている。


「なに」

「愛をあげます」

「いらねぇよ」


思わず漏れた笑い混じりに言っても、女の腕は退いていかなかった。目を閉じた。


「会いたいですか?」


頭上から雨のように降ってくる声。女の言葉をゆっくりと自分の中に染み込ませるように噛みしめたあと、瞬きをする。


「もう、今更だな」


相変わらず動かない女を、もう好きなようにさせておけばいいと諦めて肩の力を抜く。なんだかんだ女の体温は優しい。ゆっくりと息を吐いた。


「おまえは?」

「会いたいです」


聞き返すと迷いなく返ってきた声。その素直さに目が眩むと同時に、誰がこいつを救ってやれるのかと途方に暮れた。


同じ暗闇の中にいる俺たちは、きっと寂しさや悲しみに触れることはできても、分けあうことや減らすことやそこから引き上げてやることはできない。


その夜、俺と女はひとつの大きなベッドの上で、ひとつの大きなタオルケットに包まれて眠った。




意識が浮上する。瞼を上げると見慣れない天井が映る。頭を90度傾ければ光が透ける薄茶色のカーテンと、こんこんと眠る女の顔が見えた。


音を立てないように起き上がる。窓辺の椅子に腰かけ、カーテンの端を少しだけ引くと、その先には雨雲が去ったあとの青い空と日に包まれた街があった。


土曜日の朝は平日よりも人通りが少ないらしい。道を歩く人々、時折通る車、見慣れた無機質なビル。当然のように広がる日常の景色を無感情に見下ろしながら、煙草吸いてぇな、と思ったタイミングで左から衣擦れの音がした。


視線を窓の外からベッドの上へと投げると、上体を起こす女がいる。寝起きでまだ虚ろな女の目と交わった。その細い髪はところどころ絡まり合っている。


「いつから起きてるんですか?」


女が少しかすれた声で言う。


「さっき起きたとこ」

「眠れました?」

「眠れた」


驚くほどぐっすりと、まるで安心した子どものように、よく眠れた。


「わたしも眠れました」


女はさっきよりもいくらか通る声で言った。そして、その瞳は流れるように淡い光を放つカーテンに向かう。つられるようにカーテンの隙間から見える窓の外に視線を戻した。


純粋に、穏やかな朝だ、と思う。それから、現実味がねぇな、と何度目か思った。



‪「いつか会ったときは、また一緒に眠りましょうね」


ホテルを出ると、夜に溶けこんでいた昨日の印象となにも変わらない、朝の光を浴びた眩しい女が笑う。吐いた息には自然と笑いが混じった。


『愛をください』


なに言ってんだ、と言えなかった。その時点で俺は女と同じだった。‬


「おにいさん、ありがとうございました」

「じゃあな」


女が真っ直ぐな目で俺を見る。元気でやれよ、と心の中で思う。


寂しさに押し潰される夜を越える。悲しみが押し寄せる朝を越える。今はそれらを積み重ねて、日々を生きていくしかない。


女は‪振り返らずに歩いていく。その小さな背中が遠ざかっていく。足を一歩後ろに引いた。そのまま女とは反対の方向に向かって歩き出した。

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