ふちどり

永瀬鞠

 


好きってなんだろう。


「好きなの?」

「うん」

「惚れやすいもんねー、なつみ」

「えー、そんなことないと思うけど」

「どこが好き?」

「んー、顔?」


顔か。顔は、うん、けっこう好き。


「あは、顔タイプなんだ?」

「うん、めっちゃタイプ」

「ほかには?」

「んー、優しいところ」


うん、ふとしたときの優しいところも、好き。


電車の中で膝の上に置いたバッグを軽く手で支えながら、目を閉じていた。少し眠いけれど眠れず、近くで交わされる高校生と思われる女の子たちの会話を耳に入れながら、無意識に自分に当てはめていた。


心の中で続きを期待していたけれど、「なつみ」ちゃんの彼の好きなところについての問答はそこで途切れてしまった。それでも、まぶたの裏に思い浮かべていた人は離れていくどころか色を増す。


『好きなんだ』


5日前にふたりきりの休憩室で告げられた言葉を、そのときの声を、表情を、もう数えきれないくらい反芻している。


『付き合いたい』


穏やかな声で、少しだけ照れくさそうに目を見つめられて、鼓動が鳴った。それなのにすぐに返事を返せなかったのは、彼をほんとうに好きなのか、自分の気持ちに自信をもてなかったからだ。




「同じ休憩室ってことは、同じ研究室の人?」

「ううん、隣の研究室」

「接点あるんだ」

「ていうより、同じサークルの先輩で」

「バスケの?」

「うん」


電車を降りたあと、学部はちがうけれど同じ大学に通う紫とファミレスで向かい合う。「いらっしゃいませー」と先ほどグラスを持ってきてくれた女の子の声が斜め後ろから聞こえた。


いくら考えても答えが見えてこないまま行き詰まったところで、誰かに相談したくなり紫に連絡をとると、すぐに「今日の15時ね」と返信がきた。告白をされたことと返事を待ってもらっていることをかいつまんで話す。


「好きだとは思うけど、それが恋愛感情なのかわからなくて、付き合うか迷ってて」


彼のことは信頼している。尊敬もする。交わす会話は心地いい。どちらかといえば好きなのはたしかだけれど、それは恋情なの?と何度も自分に繰り返した問いを、また頭の中で繰り返す。


「キスしてみればわかるよ」


視線を上げると紫はいたって真顔で、グラスのアイスコーヒーにささっているストローを口にする。マスカラがきれいに塗られたまつげが伏せられて、引き寄せられるように思わず眺めた。


「キスかあ」


先輩の顔は鮮明に思い浮かべることができるけれど、キスは想像できない。飲みかけの甘めのアイスティーに手を伸ばし、一口飲みこんだ。


なにも知らなかった昔のわたしなら、とりあえず付き合ってみるんだろう。好きになれると思って付き合い始めて、結局好きになれず別れた過去があるから慎重になる。先輩を傷つけたくなかった。


ハイレベルすぎない?と言うと、紫はふふんと笑った。




『明日会えますか?』


たった一文を送るのに、10分間もスマホを眺めていた。返信が来るまでスマホの前で待っているのも落ち着かないので、立ち上がって浴室に向かう。お風呂に入っているあいだに返信があった。


『会えるよ。何時?』




夜6時の講義棟の隅で待ち合わせた。昼間よりも薄暗く、時折聞こえる人の声は遠い。いつもと変わらない表情と歩幅で、まっすぐにこっちに向かってくる先輩が見えた。


「返事、待っていただいてありがとうございます」


1週間前と同じように向き合うと、照れくさいような、申し訳ないような、いろんな感情が混じって緊張する。「うん」と、すぐにきれいなテノールの声が返ってくる。


先輩の肩越しには天井の白い照明が見える。背後と左側には壁があって、前には先輩の体がある。囲まれているからか、声はわたしたちの間に落ちていくみたいだった。


「1週間考えていたんですけど、よくわからなくて」

「そんなに俺のこと考えてくれてたの?」 


正直に話すと、少しの間をあけて悪戯っぽい声が落ちてくる。いつのまにか下げていた視線を上げると、やわらかく笑みを浮かべた先輩の顔があって、思わず見つめた。


「わからないので、確かめてみてもいいですか?」


勇気を出して口にした言葉をなんとか震えずに言い切る。


「ん。どうやって?」


先輩の変わらない表情と声音にほっとする。そっと一歩近づいた。紫がくれたアドバイスはやっぱりわたしには難しいから、右手を伸ばす。すぐ先にある先輩の人差し指に触れた。


骨ばった手。大きくて、少し硬い。自分の手とは違う感触に、男の人なんだなと実感する。肌の表面を撫でるように触れたあと、指先で少しだけ彼の手を握ってみる。


先輩は動かなかった。ゆっくりと手を離してから顔を上げると、今までにない近い距離で視線がからむ。伝えようと口を開きかけたけれど、なにも言えなくなってしまった。


先輩の甘い視線を受け止める。きっとわたしも同じような目で彼の瞳を見ている。背筋にじわりと痺れが走る。1週間考えつづけていたということは、きっと好きということだったんだと、今わかる。


先輩の顔がゆっくりと近づいてくる。キスの予感がして反射的に身構えるけれど、先輩の頭はわたしの右肩の上のあたりに収まった。それと同時に腕がわたしの腰に回って、緩く囲われた。


耳の内側から自分の鼓動が聞こえる。気恥ずかしくて少しうつむくと、先輩の胸に額がかすめた。右上で先輩の頭が動く気配がした直後、右耳のすぐ横にやわらかくてあたたかいものが軽く押しあてられる。


それが先輩の唇だと理解したとたん、耳が震えるように熱をもつ。つづけて、頬も、胸も、腰も。すがるように視線を上げると、先輩は吐息混じりの声で甘えるようにささやいた。


「わかった?」


きれいな微笑みに見惚れながら、「はい」と答える。目の前の体にゆっくりと左右の腕を伸ばした。指先に服越しのあたたかい体温が触れて、肺に入り込む先輩の匂いが濃くなる。


「顔上げて」


しばらく先輩の体温を感じていると、右耳に声が流し込まれる。その言葉にしたがって顔を上げると、先輩の瞳に捕えられた。


見つめ合う距離が少しずつ縮まっていく。自然とまぶたを下すと、まもなく唇に熱が触れた。


『キスしてみればわかるよ』


その言葉を思い出す余裕もないくらい、触れあう唇に夢中になる。


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