崖3

雨は降り続いていた。足元はぬかるんでいる。和道が途中で、転倒しているかもしれないと探しても姿はない。彼は雨の中を迷わず尾崖に登っていた。時刻は四時を過ぎていた。普段なら、まだ明るい時間だが、雨空に太陽が覆われ、山は全体に暗かった。


山道を登り、尾崖についた。雨の降る中、尾崖の真ん中に和道は立っていた。右手にリュックを持っていた。崖の上には、宇都木、多川、北杉澄江、亜未の父親の藤代洋がいた。皆が駆け寄った。しかし、多川は、立ち止まって和道を見ていた。彼は、雨に打たれて立つ和道を見て、あの時、祖父母の家の裏の暗闇に立ち尽くしていた自分を思い出した。


多川は濡れた作業服のままだった。山小屋に置いてあった服を借りなかった。合羽も借りなかった。彼は頑なに作業服を着ていた。彼の体は冷え切っていた。彼は悪寒に襲われた。高熱が出ていた。彼は意識が朦朧としていた。だが、その中で、彼は“何か”を考えていた。


突然、多川は、和道を取り囲む人たちの横を走り抜け、一気に柵の前まで駆け寄った。彼は柵に手をかけた。皆、多川が崖から飛び降りると思った。

「多川さん。何をするんです!私の息子と同じことをするつもりですか? 何故、死を選ぶのですか?」

宇都木祥三の叫ぶ声がした。

多川は、宇都木の声を聞くと振り返った。

「生きることに疲れたんです。雉山村に来たのも、死に場所を求めて来ました。今、覚悟ができました。そこで、最後に、宇都木さんに訊きたいことがあります」

多川はそう言うと宇都木に尋ねた。

「ゴールデンウィークのことですが、宇都木さんは、五月の連休に登山教室を開催することだけで頭がいっぱいになって、参加者が集まるかどうかについては、全く考慮しなかった。あなたは一つのことに夢中になると、それしか見えなくなる人です。登山教室を開催している時のあなたの生き生きとした姿からも、そのことが伝わって来ました。あなたは他の全てを忘れて夢中になっていました。あなたが、雉山村の分校に転勤した時も、そうだったのではないですか?」

宇都木は黙っていた。

多川は続けた。

「妻子にきちんと説明もせずに、あなたは、雉山村に移り住んだ。分校でも、村でも、歓迎された。でも、何の心の準備もしていなかった当時のあなたの奥さんと息子さんが、村に馴染めなかったのは当然のことだったのです。でも、あなたは、二人に対して、苛立ちを感じた。そうですよね?」

多川は、高熱を発していた。倒れそうになった。しかし、柵に寄りかかり話し続けた。

「宇都木さん。常基さんは、やはり、事故ではなく自殺です。それは父親であるあなたが一番知っている。だから、あなたは村を離れない。常基さんへの贖罪のため雉山村に残っている。村人に疎外されることも、自分への罰だと考えている。でも、私は、思います。それはあなたの自己満足でしかない。そんなことをしていても、亡くなった常基さんは喜ばない。常基さんが、望むことは、一日も早く村を離れて、あなたに幸せな毎日を過ごしてもらうことです。自分をあえて辛い状況において、自分で自分をいじめているような父親の生活を常基さんは望んでいません。すぐに村を去るのです。それが、あなたが、常基さんにできる最大の贖罪です」

宇都木は、その場に泣き崩れた。

「多川さん。全部、気づいていたんですね……」

北杉澄江が、宇都木に言った。和道は、亜未の父親に手を繋がれていた。

「宇都木先生。私、あの人の話を聞いてびっくりした。私が子どもの頃から、先生を見て感じていた疑問を全部言い当てた。私も、先生は村を出るべきだと思う。未練がましいよ」

その言葉を聞いて、宇都木が顔を上げた。

「北杉君には、未練がましく見えるかもしれない。でも、親とはそういうものだと私は思う」

「どういう意味よ! 私が薄情だとでも言いたいの?」

澄江が声を荒げた。

多川は、柵に寄りかかったまま、まだ話した。自分でも、何故、話すのか分からなかった。

「北杉さん。人にはそれぞれ事情があります。あなたにも、事情があるのだと思います。それを踏まえて話します。あなたが、和道君を雉山村の実家に引き取ってもらうという噂があります。再婚するための条件だと。もし、このことが、本当なら、一つ知っておいて欲しいことがあります。和道君が、何故、雨の中、大きな危険を冒してまで、尾崖にリュックを取りに来たか分かりますか?」

「何故って、仲良くなった亜未ちゃんのためでしょ? それと、和道がリュックをここに置き忘れた責任を感じて。この子、責任感が強いの。いい子なのよ」

澄江は答えた。

多川は亜未の父親と手を繋いだままの和道を見た。それから、空を見上げた。雨が小降りになっていた。彼は澄江に話しかけた。

「北杉さんの言う通りだと思います。でも、和道君には、もっと違う思いがあったと僕は思います。和道君は、藤代さんの家族になりたいと思ったのです。家族になりたいという意味は、祖父母に引き取られるのではなく、藤代さんの養子になりたいという意味です」

「あなた。突然、何を言い出すの?」

澄江は多川が正気なのかと顔を見た。しかし、至って真面目な顔をしていた。

「根拠は、僕の実体験です。僕は十歳の時、両親に祖父母の家の裏に置き去りにされました。いや、置き去りではありませんでした。走り去る両親を僕は追いかけました。すると、父が戻って来て、突き飛ばされました。その時、『お前は要らない!』と言われました。だから、捨てられたのです。僕はその後、父方の祖父母に育てられました。幸い二人は誠実な人で、僕は大事に育てられました。でも、祖父母に引き取られた当時、僕は、二人のことをほとんど知りませんでした。父と祖父母が絶縁状態だったためです。つまり、僕にとって祖父母は他人同然でした。僕はその時、こんなことを考えていました。どんな人間か分からない祖父母よりも、転校した小学校で最初に仲良くなった友だちの両親の庇護のもとで暮らしたい。頻繁に遊びに行く中で、友だちの両親を観察していると、愛情を与えてくれる、自尊心を大切にしてくれる、食事、衛生的環境、娯楽などを十分に提供してくれる、つまり、人間らしい養育を保障してくれることが分かったからです。この家の子どもになりたいと僕は心から願いました」

北杉澄江は叫んだ。

「あなた。子どもの頃、苦労しすぎて、考え方がおかしくなったのよ。可哀そうな人だわ。悪いけど、和道はそんなことを考えてはいない。この子は、常識的な子どもだから。そうよね? 和道?」

澄江は和道を見た。

和道は、まだ藤代と手を繋いでいた。お互いに、父と子であるかのように自然に手を繋いでいた。

「和道。いつまで、手を繋いでいるの! 手を離しなさい。そして、僕はこの人のようなことは考えていませんって言いなさい」

澄江に言われても、和道は何も言わなかった。藤代も何も言わなかった。そして、二人は手を繋いだまま、澄江を見ていた。まるで、澄江が他人であるかのように。

「和道。あなた、何を考えているの? 藤代さん。何か言ってください。二人ともどうして黙っているんですか?」

澄江は不安になってきた。

思い当たることが多かったからだ。実家に帰って来てからは、両親に和道の世話は任せ切りだった。しかも、和道は世話をしている澄江の両親にも懐かず、一人でいることが多かった。そんな和道の様子を見て、両親は澄江を非難した。この日も、両親と喧嘩をしたから、和道を連れて登山教室に来ただけだった。ところが、和道は、藤代の家族と一日中一緒だった。普段見せない笑顔も見せた。亜未と仲良くなった。澄江は、妬ましさを感じた。そして、ふて寝するようにビニールシートの上に寝ていた。

「多川さん。村の噂は全く違うわけではないけど、私は、再婚すると決めたわけじゃないのよ。それより、今は、和道にとって何が一番良い人生の選択になるかを考えているの。だから、和道はあなたのようなことを考えてはいない」

そう言うと、澄江は和道の左手を取って、彼を自分のほうにぐいと引っ張った。和道の右手は藤代の左手から離れた。

「そうですか。それなら良かった。僕の思い過ごしでした……」

柵に寄りかかっていた多川だったが、限界が訪れた。目の前が真っ暗になった。彼はその場に倒れた。山道を宇都木に背負われて降りた。多川は高熱でぼんやりとした意識の中、河辺八蔵と同じく宇都木も山に鍛えられて強くなったのだと思った。それから、多川は、和道が母の澄江に背負われている姿を見た。和道は母の背中で眠っていた。藤代は右手に和道から渡されたリュックを持っていた。薄紫だったリュックは、雨に濡れて濃紫になっていた。雨が上がり、空全体が橙色になった。雲の向こうから太陽が淡く全てを包み込むような柔らかな光だった。雉山に来て一年半を過ごし、初めて見る光景だった。彼はようやく決心がついた。『もう雉山村を去ろう』。淡い太陽の光が、多川に、これ以上、運命に抗う必要はないと言ってくれている気がしたからだった。


九月に入ってすぐに、多川亮一は雉山村を去った。彼は、加辺夫婦にだけ礼を言って、静かに村を去った。村人には、もちろん、宇都木祥三にさえ何も言わずに村を去った。それが一番自然な別れ方だと思ったからだった。電車の窓から見える雉山村が小さくなっていった。その時、多川は心の中で、そっと別れの言葉を述べた。

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